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年越し蕎麦
お題:やば、彼方 制限時間:15分

「やばっ、年越しソバ買ってない!」

 隣でスーパーの袋を覗き込みながらそう絶叫を上げたのは、つい先ほど一緒に今年最後の買い物に出た長年付き合いのある彼女である。
そして、スーパーの袋から察せられるように、彼らは今、その今年最後の買い物の帰りである。しかも、家路への道半ばと来た。

「珍しいこともあるものだな」

 普段滅多に驚かないのに、この時ばかりは目を丸くした彼の言う珍しいとは「彼女が物を買い忘れること」ではなく「彼女が食べ物を買い忘れること」に掛かっている。

 何故なら彼女は、彼が呆れる程に食欲旺盛で、しかもイベント好き。春は甘酒とちらし寿司、または桜を見ながらのお重。夏は塩を振ったスイカにそうめん、秋はかぼちゃやさつまいもを使った料理といった具合に、季節の物をその季節中に食べないと侘び寂びとか、季節感とかいったものを感じられない体質なのだ。

 もちろん、バレンタインもお彼岸もひな祭りも、お盆もハロウィンも冬至もはずさない。
 彼女は和洋折衷とか言ってるが、食べ物への興味の薄い彼からしたら雑食の極みだ。
 その彼女がーー昨年はわざわざ更科そばを取り寄せで用意し、湯で時間まで拘って、除夜の鐘と共に茹で上げる程の拘りを見せた彼女がーーなんと、大晦日に年越し蕎麦を買い忘れた。
 これは事件である。

「……何で、気づかなかったんだろ……!」
「……さぁ?」

 彼がデートを忘れた時も、彼女の誕生日に残業になってしまった時にも発したことのない悲痛な叫びに、彼はそうとしか答えられなかった。

 食い意地の権化、共通の知人間のあだ名は「食神」の彼女が気づかなかっただけでも事件だから、それにしたって、彼女と一緒に買い物をしていた自分までもが気付かないということがあるのだろうか。

「どうしよう……」

 いや、あるからこそ彼女は今、この通り悲痛な顔をしているのだ。長年連れ添った彼氏としては何とかしたい。が。

「……戻る?」
「いい……」

 聞いたその声に彼女は力無く首を振った。

「蕎麦くらいなくたって、年は越せる……よ」

 しかしそう言った彼女の顔は今にも泣きそうに歪んでいる。たかが蕎麦一つで、まるで家より遠い彼方で迷子になった子どものように幼い表情で途方に暮れている。

 思わずその手を握りたくなる程の悲壮感。圧倒的悲壮感。しかし今、彼女を救えるのは蕎麦だけ!
 あぁ、蕎麦があったなら! いっそ俺が蕎麦だったら!

 などと、本気でそんなあほなことを考えるくらい、今年一年、彼は彼女に夢中だった訳なのである。
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