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 リアンは、オードリーと視線を絡めた途端、それまで浮かんでいた冷ややかな侮蔑と無表情を消し、何処か夢から覚めたようにぼんやりと、オードリーの顔を見た。

 そう、思ったその瞬間には、リアンの冴え冴えとした青い瞳には、砂糖漬けのスミレのような優しく甘い色が浮かび、在るか無いかの僅かな微笑の気配に細められた。
 オードリーはその瞬間、ほんの一瞬だけ息を忘れ、全ての音が――泣きじゃくるマリアンヌの声どころか、自分の立てる僅かな衣擦れの音までもが――そこから消えたような気がした。

 だけれど、それはほんの一瞬のことで、リアンは次の瞬間には、大きく目を見開いて瞬きも忘れた様子のオードリーに対して心配そうに眉根を寄せ。

 次に、先ほど儀礼的にマリアンヌに向けて目を伏せて見せた仕草よりもはっきりと、その顔に心配と同情の色を浮かべてみせた。

 それを合図にするように、今度はオードリーの耳に、まるで夢から覚めたかのように、色々な音が入り込んだ。泣き声や衣擦れ、だけでなく、今まで冷え切っていた身体の隅々までを暖めようとするかのように、急に激しく脈打ち始めた心臓の音と。

 今まで、可愛そうなマリアンヌには殆ど動かされなかった、何処かの凍り付いたかのようなオードリーの心は、その時まるで、自分にだけ向けられた、リアンの眼差し一つで簡単に解凍されたようだった。

 何故そんな風になるのか、リアンにそれが出来るのか、その時まだ幼かったオードリーには分からなかった。だが。

(この人は、とても不思議な人だ――)

 そんな感慨と共に、オードリーは今なら言える気がした。
 最後に一人残された伯爵令嬢として――グレイス家の系譜の人間として、頭ではもう結論付いていても、リアンの――医者の言葉ではっきりと確認すべき、その事実を。

「ねぇ、リアン様」
「――なんでしょう、お嬢様」
「みんなは……グレイス公爵家の当主と婦人、そしてその令嬢は、皆、馬車に曳かれて死んでしまったのですか? 直系の令嬢である、わたくしを残して」

 今まで声に出すことを恐れていたその一言は、喉から零れてみると、案外簡単なことであり――そして同時に、当人であるオードリー以外が聞いたとしたら、何て間抜けで滑稽な内容なのだろうと思った。

 再三、遠回しに説明されていたことを、わざわざ、書類に残す時に使うような「正式な言葉」で事務的に言い直して聞いている自分も、まるで物語に出てくる、物わかりの悪く、教訓や親のお説教が理解出来ない馬鹿な娘のようで間抜けだ。

 まるで、何かの冗談や、たまにアニュゼットと盗み見てはマリアンヌに叱られた、タブロイドの風刺画のように滑稽ではないか。

 ――王家とも浅からぬ繋がりがある、当主が議員としての発言権さえ持つ、由緒正しいグレイス公爵家が、幼い娘一人だけを残して馬車に曳かれて全滅だなんて。

「こんなに間抜けな滅び方、他にあるのかしら……」

 独り言のつもりのその言葉は、いつの間にか喉から滑り落ちて声になっていた。だけれどオードリーはそれに気付かず、ぎゅっと唇を噛みしめ、上掛けの裾を手の色が白く代わるような力で握りしめた。

「お嬢様ッ!!」

 だけれど、いよいよ喉からこの場にそぐわない、小さな笑い声を上げようとしたオードリーを止めたのは、涙をおさめ、オードリーの両頬を叩くように両手で強く挟んだマリアンヌだった。

 それは、泣き虫のマリアンヌが双子を叱る時の癖で――マリアンヌは鞭が嫌いで、双子を折檻する時は専ら音の割に痛みの少ない平手打ちを使っていた――そうされると、滅多に打たれるような悪い言葉や態度を取らないオードリーは、叩かれたことと痛みに驚いて、子どもらしい癇癪も、反抗的な態度も、その驚きで全て忘れてしまう。 

「お嬢様、いけません。それは悪い言葉です……公爵様を、奥様を貶める、悪い言葉と態度です!」

 打たれた頬の痛みと、自分を覗き込むマリアンヌの瞳の苛烈さに虚を突かれたオードリーは、怒りに燃える緑の瞳に映る自分の――しょっちゅう癇癪を起こしてはマリアンヌに戒められる、アニュゼットそっくりな顔を見返した。

 リアンには、マリアンヌのその姿が、見当違いの怒りを孕んだ、女性特有のヒステリーのように見えた。

 彼女のその反応が、医者の卵として、兵役の軍医として、実際の医者として。
 何度も立ち会って来た死の現場で時折見かける、悲しみの強さに理性が負けた女性の姿に似ていたからだ。

 今まで身も世も無く泣き叫んで悼んでいた、主人夫婦の、義理とはいえ近しい兄姉の死。
 その悲しみに浸る時間を終え、今度は同じ悲しみを共有したいという心を――共有出来る唯一の人間である筈のオードリーの冷静さと冷たい聡明さ、そして死人への嘲笑と取れる言葉に裏切られ、今度は悲しみを怒りに変える段階に来たのだと、リアンはそう思った。

「ミセス・マリアンヌ――」

 だから、リアンは一度目を閉じて眉間を親指と人差し指で軽く押さえると、マリアンヌがオードリーにこれ以上危害を加えないように、つとめて冷静な声で名前を呼び、そっとその肩に触れて、オードリーから引き剥がそうとしたが。

「ごめんなさい、マリアンヌ。わたくしが、悪かったわ」

 マリアンヌに頬を捕まれたまま、一つ大きく、意識してゆっくりと瞬きをしたオードリーは、怒りに燃えるマリアンヌの瞳をじっと見返し、一つ一つ言い聞かせるように言い、自分の頬に掛かったその手に、自分の両手を添えてそっと引き離して膝の上に置かせ、宥めるようにその肩を叩いた。

 その姿は端から見たなら、叱られてしおらしく反省する子どもというよりも、逆に、急に暴れ出した幼い子どもを宥め、尚かつソレを許す、オードリーより遙かに年長のナースメイドのように見えた。

 尤も、この場所で唯一の観客であるリアンには、彼女を一目見たその日から、裡にある物が起こす作用によって、それよりも何十倍も尊い、人に例えるのも烏滸がましいある存在のように見えたのだが。

「ねぇ、リアン様――」

 だけれど、リアンの裡に科学変化のように起こったその感慨は、漸くその側を許されたその当人の呼びかけによって霧散した。

「リアン様、答えて。あなたの――お医者様の口から聞きたいの。みんな、わたくしの敬愛する家族は、みんな、今夜限りでみんな、死んでしまったのね」

 そう言ったオードリーの瞳は、やはり宗教画の中の天使のように真っ直ぐで、今までのような、よく言えば人間や子どもらしい揺らぎは一切見られない。

 自身も少なからず怪我を負ったというのに、未だ涙一つ流さないまま、静かに家族の死を、自分の言葉で受け入れ、現実として飲み込んで行くその様は、運命に殉じることを決めた聖女のように痛々しい。

 寧ろ、公爵令嬢らしくなく、身も世も無く泣いてくれたら良かったのに――そう考え、リアンは澄んだその瞳から何度めかも分からない逃げを打って目を逸らした。
 愚かなことだ。そうやって泣かれたのなら、彼はきっと、『医者』として、彼女の従者として、今のようにここに立ってなど居られまい。

「残念ながら――」

 その言葉がオードリーの言葉に宛てたものなのか、それとも彼女の、何度揺らいでも決して頽れない心に対しての物なのか。

 リアンには今この時も、この後に思い返してみた時にも、一向に分からないのであった。
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