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 この時、オードリーが何かを口にする前に行動を起こしたのはやはりマリアンヌだった。

 彼女は空気の漏れるような短い悲鳴を上げ、ついに半分乗り上げていたオードリーの寝台からも滑り落ち、床に敷かれた赤いラグの毛を掴むように丸まって震えた。

「マリアンヌ――」

 その背中を追おうと、寝台の上で身を乗り出し、その手を寝台の下に伸ばそうとしたその時――彼女のその両頬を、薬草の匂いがするひんやりした大きな手が包み込んだ。
 見上げると、今まで寝台から少し離れた所に立っていたリアンが、床に蹲るマリアンヌの身体の分の距離をあけて、またオードリーの傍らに立っていた。

 「リアン、様」

 呼びかけて見上げると、彼はオードリーの呼びかけに応えるように、その手で軽く頬を撫でてくれた。手袋ごしでないその人間の肌特有の冷たさは、先ほど打たれたマリアンヌの手の熱と、興奮に火照った頬に丁度よい温度で、オードリーはほうっと小さく息を吐いた。

 すると、彼は何か言いたげにその唇を動かした後、その長身を急に屈めて、オードリーの額に自分の額を当て、驚くオードリーが何かを言うより前に、憂いに目を伏せて、囁くように言った。

「申し訳ありませんお嬢様、私のせいです。私が――私がもっと早く駆けつけていれば……!」
「リアン様?」
「……私は、今日、公爵様と奥様、お嬢様らにお会いする予定でした。グレイス公爵家の従医として、オペラの上映される劇場で」

 リアンは、オードリーから身を離し、泣きじゃくるマリアンヌを抱き起こして寝台の端に座らせると、胸の上に手を乗せて目を伏せて。オードリーに、主に許しを請うように、静かに話始めた。

 リアンは元々、医療学校を卒業した折には、最終的には公爵家の領地で医院を持つか、医師の仕事に就くという約束で学費の援助を受けていた。

 そしてこの約束の今年、無事に医者となった彼は、公爵から直々に、屋敷で住み込みの医者として勤めて欲しいという要請を受けた。

 リアンはそれを快諾し、今期の社交界シーズンが終わり、公爵家の面々がカントリーハウスに戻る時に、一緒に付いて行くこととなった。今日は、その打ち合わせの場であり、公爵の家族への挨拶の場として設けられた席であった。

「グレイス公爵は――旦那様は、言っておりました。お嬢様ら二人とも、そろそろ大人の男性というものの存在に慣れるべきだと思っていたから、私と生活を共にするのはいい機会だろうと」

 リアンは、彼女らを幼い頃から見ている薬師のように穏やかな年寄りという訳でもなく、かといって若すぎず、適度に分別のある年で、おまけに出自もはっきりしていて、貴族としての心得もある。

 更に十歳の年齢差とあれば、一昔前の王侯貴族ならば親子程と言って良い年の差がある。二人が公爵の予想する以上にリアンに懐いても、よっぽどのことがなければ間違いなど起こらないだろう。普通なら、そう考える。

「それに――オペラの後、会食の席で発表するつもりだと旦那様は言っておりましたが――」

 そこでリアンは言いよどみ、じっとオードリーの顔を見て、一度呼吸を止めるかのように黙り、胸元のシャツを一層に握りしめた。
 オードリーが話の続きを促すかどうか――どう考えても愉快な話じゃないとは分かっていたが――迷うだけの間が開き、口を開き掛けた時。

「来年のシーズン前には――お嬢様に、弟か妹が産まれる予定でした」

 リアンは、青い瞳に真摯な色を乗せ、オードリーに向かい、はっきりとした口調で、そう言った。
 それに息を呑んだのは、オードリーだったろうか、それともマリアンヌだったろうか。

 公爵夫人の妊娠が発覚したその時に、公爵はリアンを呼び戻すことを決めたらしい。
 というのも、医者に関する法整備が遅れ、今年やっと王立の医療学校から第一期生を排出したばかりのこの国には医者の絶対数が少なく、王宮の覚え目出度いグレイス公爵領といえど、正式に医者と呼べる身分の人間は居ないのであった。

 居るのは、それぞれの薬屋、または治療所に於いて、徒弟制度で教育された産婆や薬師だけで、公爵家に定期的に通い、双子らの体調を見る腕の良い老薬師もあくまで私的に活動する薬師だ。

 法の変わった今、彼らに出来るのは薬での治療や分娩の手伝いくらいで、妊娠中の経過を見たり、病気の予防をしたりといった細々とした世話や診察は出来ないのである。

 更に分娩の途中、不足の事態に陥ったとして、そうした時には監督として一人医者を置かねばいけない決まりとなっていた。

 いつか医者が必要になる――まさか自分の妻の妊娠がその時とは考えなかったろうが――そう分かっていたからこそ、グレイス公爵は、出来たばかりの在って無いような学校に進学しようというリアンに対し、少なくない額の金を『貸与』ではなく『援助』として与えたのだろう。

「……私の役割は、奥様の出産までの経過を従医としてお側で見守ることと、やがて産まれるご弟妹のことで寂しい思いをされるだろうお二人の、話し相手でした」

 決して二人が寂しくないように、デヴィユタントの時までに異性と気負わずに会話する技術を身につけられるように。

 リアンは言わば実際には、公爵が大切に愛しむ子ども達の為に――オードリーの為だけに雇われたようなものなのである。

 彼女が寂しくないように、立派なレディとして世に出られるように、やがて大人になり大輪の薔薇として咲こうという蕾を守る為だけに。

 オードリーが何処に出しても恥ずかしくない公爵令嬢となる手助けが出来、共に過ごすことが出来る――彼は、それで満足だった。

 鷹揚な公爵と、彼女の妹。その他彼女を慕い、心配する人間が彼を雁字搦めに縛り付け、結果として、それだけで我慢が出来る筈だったのに。

 近頃あちらこちらに溢れる詩や、見せ物小屋で演じられる芝居が言うように――神というのは、本当は何処までも残酷な存在なのだろうか。

「リアン、様?」
「あぁ、すみません、お嬢様」

 何処か、悲しい夢を見るように虚空に向き、眇められていたリアンの瞳が、オードリーが掛けた言葉にはっと見開かれ、再び彼女の方に向いた。

 だけれど、ほんの一瞬、とまどったように揺れたその瞳に、まだ悲しい夢から覚めやらないような、そんな暗い悲しみが宿っているのを見たオードリーは、深い青に見とれて冷たい泉に手を突っ込んだ時のように、冷えたその手を毛一方の手で包むように、はっと胸を押さえた。

 ――彼の瞳の色を陰らせた物は一体何であっただろう。

 オードリーはそれを、彼が彼女の父に受けた恩義を、医者としての職務を、果たせなかったことによって、自尊心が傷付いた故の悔しさなのではないかと考えた。

 まるで庭の温室に置かれた薔薇の蕾のように、甘やかされ愛され、公爵令嬢としての責任など知らずに育った幼いオードリーに、その重さは分からない。

 だけれど、父がそういった物に煩わされ辛そうにしていた時。
 オードリーがわざと甘えてその膝に乗り、その首を下から抱きしめると、深い溜息を吐いてオードリーの頭の上に顎を預けるように抱き込んで、張り詰めていた何かを緩めていた。

「それが、何で――リアン様のせいになるんですか?」
「それは――」

 もし、彼もそういった風に何か――まだ子どもであるオードリーの知らない何か重たい物を、沢山背負い込んでいるのなら。父にやっていたようにその首筋を撫でてあげたい。
 オードリーは十も年が離れた大人に対し、ぶしつけにも、そんなことを思った。

 だから、彼の背負っている大人が持つ複雑な何かのうち一つくらいを、オードリーが軽くしてあげられれば良い。そんな風に思いながら、彼の話の続きを促した。

 この日からずっと、他ならぬ自分自身が、彼という立派な青年の人生の軋轢となり、その目に暗い光を宿させる重荷になるなど知りもしないで。
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