> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 赤い部屋にて > 8
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「私は、先に劇場に着いて、入り口におりました。――だから、距離だけを見れば、私はお嬢様の、すぐ近くに居たのです。悲鳴が、喧噪が、聞こえるくらい近くに」

 本当に偶然だったのです、と、その瞬間を思い出したのか、リアンは続け、オードリーから見ても痛々しく力が籠もっているのが分かる程に、強く拳を握りしめた。

 劇場のロビーで待つことにしようと、中に一歩入ろうとしたその時。大きな音と甲高い悲鳴が背を向けた通りから聞こえた。

 まだ若輩とはいえ医者として、実務経験の一環の奉仕活動の中で軍医として、勤めていた彼は咄嗟にそちらに目を向け、人混みの中に歩き出し――やがて急かされるように早足になり、最後には、不吉な予感に上手く呼吸が出来なくなりながら、いつしか、人を押しのけ走り出した。

 ざわめく人々がボソボソと断片的に話す言葉が、足止めを食らった御者同士が交わし合う言葉が、近づくにつれどんどんと不吉さを増して行った。

 ――どうやら、馬車の事故であるらしい。
 ――車輪が滑って通りに投げ出された所を更に別の馬車に曳かれ、酷い有様らしい。
 ――顔は見えなかったけれど、馬車の作りも立派だし、名のある貴族だったのではないか。
 ――そういえば誰か、知人らしい立派な身なりの人間が、何か名前を叫んでいたような……。

 そのことに、事の大きさを知ったのも理由であったが、じわじわと這い寄ってきていた疑念が、彼の心臓を鷲掴んだのは、擦れ違ったとある婦人が青い顔をしながら、付き添い人の若い女性に漏らした言葉が原因だった。

「可愛そうに、男の人の下に居たアレは、まだ幼い女の子のようだった。――あの赤い衣装は、もしや流れた血の色だったんじゃないだろうか。誰かが、そう言ったのです」

 溢れる人混みのせいか、自分の足がもたつくせいか、それほど離れて居ないというのに、中々事故現場には辿り着かず、それが更に彼の焦燥を駆り立てた。
 まさか、そんな訳がない。幼い少女が居る家庭など、この王都の中であったって珍しくもないではないか。その中には、赤い色を好んで身につける子どもだって居るかも知れない。

 頭ではそう思いながらも、自分は殆ど確信を持って走っていたのだということを、彼は人が遠巻きに取り巻く事故現場に、先頭の人間を押しのけ入り込んだその時に気付いた。
 ――あぁ、やっぱりそうであったんだと、難解な幾何学の問題を解いた瞬間のように、ただその事実を受け入れた。

 そこには、見覚えのある紋章の入った馬車の残骸が横転しており、中心を赤く染め、丸くなった襤褸切れのような物の下からドレスの――スカーレット色の布地がはみ出しているのを見掛けても、彼はその場で膝を突いて慟哭したりなどしなかったからだ。

 人間は、予期していたか、それ以上の絶望に逢うとより頭が冴え、何をすべきか考える前に身体が動くものなのだと、従軍した比較敵平和な戦場で、知ったつもりになっていたことをリアンは身をもって知った。

「その後は、側溝で見つかったお嬢様と――公爵様と奥様、そしてアニュゼットお嬢様を連れ、この家に帰り、まだ温もりのあったお三方を地下に寝かせ、お嬢様に付いておりました」
「それは――やっぱり、あなたのせいではないわ」

 私が、もう少し早く気づき、動いていればもしかしたら――と、そこまでを言い、両の手の平で顔を覆って俯いたリアンに、全てを聞いたオードリーは、何とかそれだけを口にした。

 本当は、目覚めたばかりの自分がされたように、駆け寄って抱きしめてあげたかった。けれど、疲労と怪我を負い、おまけに同じ寝台の上にマリアンヌを乗せているオードリーにそれは出来ない。彼が、そこまでを考えて彼女を寝台に座らせたのかは分からないけれど。

 オードリーは、ここに来て初めて、自分に起きた悲劇ばかりを嘆いていた自分を後悔し始めていた。

 彼が、オードリーの分まで悲しんでいるだなんて傲慢なことを、気が弱っていたとはいえ、よくもまぁ言えたものだ。
 知らぬ間に家族を亡くしたオードリーより――目の前で、彼女の家族を救えなかった、彼女の家族の惨状を目の当たりにし、未だ温度のある彼らに対し、医者として何の処置も施せず、地下に置きに行かねばいけなかったリアンの方が辛かったに決まっている。

 これから、服従する筈だった恩人であり主を、その家族を、これから自分が成長を見守る筈だった、主の妻とその子ども達を、看取ることさえ出来なかったリアンの方が。

 なのに彼は、オードリーが目覚める前から――目覚めてから今までも、ずっとオードリーのことばかりを心配してくれていた。
 今も静かに涙を流し続けているマリアンヌのように、激情に駆られて泣き叫ぶことも、呆然とし、要領も聞き分けも悪く、事実と向き合おうとせずに狼狽えるばかりのオードリーを持て余すこともせず。

 しかも、彼を雇った父でもなければ、その伴侶である母でもないオードリーに、従者としての敬愛を示してくれた。
 恩人の娘であるという以外に価値のない、昔一度会っただけの、顔も覚えていなかったろう子どもにだ。

 ――その信頼に、私はどうやったら応えられるのか。

 オードリーは、目覚めてすぐに取られキスを落とされた自らの手の甲を暫し眺めると、瞬きと共に視線を上げ。

「リアン」

 と、上手く笑えないながらも、ぎこちない笑顔を向けて、彼の名を呼んだ。
 リアンは、オードリーの呼びかけに、ゆっくりと顔を覆う手の平を外し、のろのろと顔を上げて、乱れた前髪の下からオードリーを顧みた。

 大きな赤い目を細めた彼女は、軽く首を傾げ、両手を差し出して、無理をしていると一目で分かる、それでも、末恐ろしいその美貌が、全く損なわれていない笑顔をリアンに向けた。

「……お嬢様?」
「こちらに来て、屈んで戴けますか?」
「えぇ、宜しいですが……」

 求めの通り、ゆっくりと近づいたリアンは怪訝な顔をしてオードリーの顔を覗き込み、僅かに屈んでみせたその時に。

「一体、何を――」

 彼女は一生懸命に両手を伸ばし、寝台から僅かに腰を浮かせるようにしてその首筋に抱きつくと、手早くその冷たくつるりとした頬に自分の唇を軽く押し付けて腕を緩める。
 咄嗟に、そのまま寝台の上に落ちそうになったオードリーの腰を腕を回して抱えてくれた彼と目を合わせ、笑みを浮かべた。

「グレイス公爵家令嬢として、あなたの主人として――あなたの、わたくしと、わたくしの家族に対する献身に感謝します」

 ただの幼い少女であるオードリーではなく、公爵家令嬢として、彼の主人として。自分とその家族はその働きに救われたのだと肯定し、手の甲に受けた忠誠の口づけへの返礼として、頬に口づけを落とすこと。

 それが、自分より大きな身体と強い心を持ち、より重く複雑な悲しみと後悔を抱えている目の前の男にオードリーが唯一出来ることであり、慰めであろう。
 家族を失ったオードリーが、主であり恩人を失ったリアンを、主従というともすれば家族よりも親密な絆で彼の行いを肯定し、必要とすることが――。

「これからも、わたくしの為に仕えて下さいますか?」
「――えぇお嬢様、喜んで……全てを貴女の思うがままに」

 父との契約が無くなってしまったけれど、これからも側に居て欲しい――首を傾げてそう願った幼い主人に、リアンは、彼は、震える声と、苦しい程の抱擁で応えた。

 オードリーは幼い身体の全てで、彼の震えを、恐れを受け入れようと、一度緩めた腕に力を込めて、その広い肩口に顔を埋めた。

 背後でマリアンヌの感極まったような、何処か夢見るような吐息が聞こえた気がしたが、頬を押し付けた所から聞こえる低い声に聞き入り、すぐに忘れてしまった。

「私個人の財産も、能力も、医者としての知識も、心でさえ――私の全てを貴女に、貴女の為に差し出します」

 その宣誓と共に、彼は頬に添えた手で彼女に顔を上げるように促し、じっとその瞳を覗き込んだ。
 美しい、深い水を思わせる青い色の瞳の表面には、未だ生々しく、オードリーが呼吸を忘れて震える程の悲しみがはっきりと写っていた。だけれど、深い水の中で大きな魚の影が蠢くように、悲しみとはまた別の何かがチラリと過ぎったような気がした。

 だが、それが一体何なのかオードリーが確かめるより先に、今度は彼が、殆ど寝台から浮かせて、自分の腕に座らせるようにして支え、抱きしめているオードリーの華奢な肩口に額を預けた為、結局は分からなかった。

 それに、家庭教師の付く年齢になってから父からさえも受けたことのなかった深い抱擁に戸惑ったせいか、ここまでの疲労の為か。オードリーは妙に動悸が激しくなって、まるで熱い場所でずっと立っていて逆上せたようになっていた。

 そこに、触れ合った所からリアンの悲しみがそのまま流れ込んで来るような、痛みと悲しみとも付かない苦しさが心に刺さり、上手く頭が回らなかった。

「――じゃなくて、良かった」

 だから、彼女の肩に顔を埋めたまま、感慨と安堵をはっきりと込め、恍惚とした表情でリアンが殆ど吐息のように吐きだしたその独り言も、上手く聞き取れてなどいなかったのだ。
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