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「そういえば、リアン様。あの時、何か言いかけはしませんでしたか?」

 寝間着の上半分をはだけたオードリーは、リアンに入浴の代わりにと、汗で濡れた身体を香油を垂らしたお湯に浸した柔らかな布で拭いて貰いながら、オードリーはふと、そんなことを口にした

「先ほど、とは?」
「あの、リアン様のお話を聞いた後にその……リアン様が、わ、たくしを……だ、抱きしめた時に」
「――あぁ」

 丁度良い温度の、薔薇の香りがする湯に潜らせた布で染み一つ無い背と細い肩を晒し、二の腕を拭かれながら、オードリーはリアンの顔を見上げ、僅かに頬を染めて視線を逸らしながら俯き、ボソボソと言葉を発した。

 今、こうしてお湯を張った洗面器の置かれた台を傍らに、寝間着を腰まではだけてその身をリアンの手で清拭さえているという現状よりも、色々な衝撃に心底動揺していたとはいえ節操もなくリアンに抱きついていたつい先ほどまでの自分の方が、オードリーには余程恥ずかしく感じられたのだ。

 公爵令嬢であるオードリーは――流石に同性の使用人に限るが――人に身体を洗って貰ったり、拭いて貰ったりすることは物心付いたことから当たり前のことである。なので一々それを恥ずかしがるという概念や情緒は育っていない。

 その上、今オードリーの身体を拭いているのは、病人やけが人などの世話の一環として、きっと、そういったことには慣れているだろうと思われるリアンである。

 一応は侯爵家の血縁である彼に、このような事をさせていることを申し訳無く思えど、抱きしめられた時程には、気詰まりとも恥ずかしいと思うことはない。
 寧ろ、彼の親切を蔑ろにして下手に照れたり嫌がったりをする方がよっぽど失礼に当たるのではないかとオードリーは思ったのだ。だから、最初は断ったその申し出を受けた。

 ――だが、冷静に考えれば、異性との抱擁は別である。
 幼い頃から知っているごく親しい――例えばせいぜい叔父くらいか、それに近い関係までの人に――年場の行かない子どもの幼い挨拶として抱きつき、抱き上げて貰うのはまぁ良いだろう。

 だけれど、オードリーはもう十二歳で、あと二月後に誕生日を迎えれば、婚約者を持つことさえ出来る年齢である。従って、数年前から、そういった抱擁による挨拶は既婚者のみに控えるようにと父母やマリアンヌにも堅く言われていた。

 であるから、近頃は、父以外には頬に口づけすることはあっても例え血の繋がった親戚であったって、男性の首に抱きつくなんてことは、無かったというのに。

(何て、恥知らずな真似をしたのかしら)

 自分の身体を拭く、今はお湯を扱っていることで温い温度になった、冷たい、何処か清涼感のある薬品の匂いがする手。
 顔を埋めた胸の広さに、父とは違う頭の撫で方、優しい声。

 思い返せば返す程に、先ほどまでは動揺していた為に気付かなかったことにまで気付き、そんな自分の恥知らずさが居たたまれなくて、同時に苦しくて。
 オードリーは、拭かれていた腕がリアンの手から解放されると共に、熱の籠もった頬を押さえるようにして俯いた。

「――お嬢様? もしや、お湯が熱かったでしょうか」
「いえ、大丈夫、気持ちいいわ、リアン様」

 拭かれている肌が思い出した羞恥に逆上せて、湯あたりをしたかのように赤くなった来た為に、そう思われたのだろう。

 オードリーが俯かせていた顔を上げ、ブルブルと頭を降って言って笑うと、彼は一瞬目を見開いた後に「そうですか」とそっけなく言って顔を伏せ、そのままオードリーの背後へと回った。

「……リアン様?」

 その瞬間、ちらりと見た顔が心無しか何か苛立ちのような物を耐えるように顰められた気がして、オードリーは背後に首を捻りリアンを伺おうとする。

 何か、気に障るようなことを言うかするかしてしまったんだろうか。
 それとも、医者としての勤めとして行っている行為に顔を赤くしているオードリーを、気持ち悪いとでも思ったのか。

「あの、リアン様……」

 何か弁明をすべきだろうか、そう思ってオードリーが口を開いたその時。

「ひゃっ……」
「すみません、まだ熱かったようですね」

 先ほどより少し温度の下がったお湯に浸された布が、ぺしゃっと背中に当たり、オードリーは恥ずかしく間抜けな悲鳴を上げて背を強ばらせてしまった。
 どうやら、リアンが無言だったのはただ単に、お湯を含ませた布を少し冷ましていただけだったらしい。

 クツクツと自分の背後から聞こえた笑い声が恥ずかしくて、オードリーはいよいよ茹で蛸のように真っ赤になりながら、真一文字に唇を結んだ。

 いくらオードリーが子どもでも、自分がからかわれたかどうかくらいの判断は出来る。
 なのにリアンは未だ笑いに喉を震わせたまま、ご機嫌を取るように、背中に張り付いた長い黒髪を肩口へと払うそのついでにオードリーの頭を撫でた。
 その子ども扱いに、益々オードリーが口を引き結ぶときっと分かった上で。

「そうだ、お嬢様」
「な……んでしょうか」

 なので、リアンに返事をするオードリーの声は、必然、わざと低めた声になる。
 それは子どもらしく癇癪を起こすことも、侮辱されたことへの怒りを表すことも淑女として得策ではないという判断からのものなのだが。

 恐らく、もう大人であるリアンからすればどちらにしても子どもが拗ねているようにしか見えないのだろう。背後からオードリーの胸側を拭く為に再び背中に黒髪を流す時にも、彼は犬か何かの機嫌を取るようにしてその頬から首筋を撫でた。

「私のことは、様を付けずにリアンと、お呼び下さい。私は侯爵家の次男ではなく、グレイス公爵家に仕える医者で――もう、貴女の所有物。なのですから」
「つっ……」

 オードリーが息を呑んだのは、リアンのその言葉に思うことがあったからではない。
 ただ、やや甘い声でそう言ったリアンの手が、寝間着と肌の境にあるオードリーの、うっすらと肋の浮いた脇腹を――子どもらしい、陶器のように滑らかな白い肌に大きく出来た青紫色の打撲痕を、下から上に撫で上げたからだ。

 その鈍い痛みにぎゅっと目を瞑ったオードリーに対し、リアンは何も言わない。
 ただ、慰めるように――ともすれば後悔するようにそこを撫でるリアンの手が、「労しい」と、声の代わりに言っているような気がして、オードリーは僅かな痛みを堪え、されるがままにじっとしていた。

 言葉や態度にされる励ましや慰めより、肌に触覚として感じる同情の方が――特に、身分や地位、家柄や身の上に対してでなく、自分個人に向けられる優しさと労いの方が――より身に沁みるのだということを、心を動かすのだということを。

 オードリーは初めて実感で知り、目を閉じて身を任すことで、それを浅ましく貪ろうとオードリーの弱った心と体から少しだけ力が抜ける。
 今まで、こうした労りへの飢餓を感じられなかったのは――きっと、周囲から惜しげもなくそれを与えられて来たからだ。

 父に、母に常に与えられ――そして、産まれてから今までずっと側に居たアニュゼットと、心と心、肌と肌でくっつき逢うことで互いに分かち合い、足りない分を補い合って来た。

 それが自然だったからなのだろう。
 ――だって人は、神の加護にも、家族の愛情にも、持って居ないからこそ敏感になり、当たり前のようにそこに在るから気にもせず、失ってからこそその大切さに気付くものなのだから。

「――リアン」

 ともすれば、折角リアンに温かい湯で拭いて貰った身体が冷めるまで、ずっと耽溺してしまいそうなその熱を振り払う為、オードリーは薄目を開け、請われた通りに敬称を無くしたその名を呼んだ。

「はい、なんでしょう。お嬢様」

 当たり前のように返って来た返事と、今度は手の平全体で、褒めるように撫でられた脇腹が嬉しくて、オードリーは殆ど反射的に笑みを零して顔を仰向けるようにして背後のリアンを覗き込んだ。
 彼の目は、今度は驚くことなく、逆さまに見上げるオードリーの目と合わせられ、その目元には優しげな微笑が浮かんだ。

 それを見上げながら、再び「リアン」と彼を呼ぶと、胸の奥に、まるでアニュゼットと適当に作ったお呪いを互いに掛け合って遊んだ時のような、なんとも言えないくすぐったさが広がった。

 ともすれば、今、オードリーはその赤い目と言葉でもって、リアンに何か魔法を掛けているのかも知れない。魔法、或いは呪いを――。

「私のことはどうかドリーと。お父様とお母様と……アニュゼットは、そう呼んでいたから」
「ドリー……様」
「様はいいわ。だって、あなたは今日から、私の婚約者なのでしょう? ――私の、物なのしょう?」
「はい。その通りです――ドリー」
「分かればいいわ。――リアン」

 彼の名を呼ぶ度に胸に起こるくすぐったさにばかり気を取られ、程なくして清拭が終わり、すぐに寝間着を着せかけられたオードリーは、全く気付いていなかった。

 リアンにその名の呼び方を直されることで、最初に彼女が身体を拭かれながら聞いた、何の気無しのあの問いが、すっかりはぐらかされてしまっているということに。
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