> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 2
2
 オードリーがリアンの頬に主人としての親愛のキスを落としてから四半時もせず、マリアンヌは外に待たせているという馬車に乗り、自分の家のタウンハウスへと帰って行った。

 彼女は最初、丁寧な言葉で帰宅を促すリアンに子どものように首を振って「お嬢様の側に付いていたい」と言ったが、所詮はただの家庭教師であり、今は夜会を抜け出して来た良家の子女だ。

「では、貴女はここに残って、お嬢様の為に一体何を致すのですか?」

 薔薇色の美しい唇の口元だけで笑んでそう問うたリアンに何を返すことも出来ず、寧ろ、泣きはらした目を冷やす為の濡れた布と腫れを防ぐ為、瞼に塗る薬液まで渡されてしまっては、閉口する他なかった。

 それに、今はただの医者であると言ってもリアンは独身であり侯爵家の次男である。そんな男が一人で暮らしている家に、夜会を着の身着のまま抜け出した独身の、しかも結婚相手を探している最中の女性が駆け込み、朝まで出て来ないなど、外聞の悪いことこの上ない。

 オードリーもそれは分かっている為、残って欲しいと我が儘を言う訳にはいかないし、だからといって自分を心配するマリアンヌを、自分が積極的に追い返す訳にもいかない。

「では、お暇させて戴きますわ。お嬢様、どうかお大事になさって下さい」

 どちらの肩を持つことも出来ず、かといって自分の意見を夾むことも出来ないオードリーがハラハラと見守る中。

 マリアンヌは普段オードリーに教授する、『淑女然とした、本心を隠す控えめの笑顔』を泣きはらした赤い瞼のままリアンに向け、スカートの端を摘み正式な礼をし、早足でその場を立ち去ろうとした。その時。

「あぁ、お待ち下さいミセス・マリアンヌ」

 今まで、長い腕を組んで長身に似合う威圧的な雰囲気を纏い、冷ややかな瞳と言葉でもってマリアンヌを追い返そうとしていた筈のリアンがその背を呼び止めた。

「貴女のお父上には、グレイス家の皆様は馬車の事故で怪我をし、私の所で処置を受けたと。明日以降、そのまま領地に帰宅し、後は療養するとお伝え下さい」

 マリアンヌとオードリーは同時に目を剥いてリアンを見たが、リアンは顔色一つ変えずに、青い色の目を細め、自分を振り返ったマリアンヌに、見ほれるような美しい笑みを浮かべて首を傾げてみせた。

「オードリーお嬢様以外のお三方の怪我は非常に重い上、意識も全く無く――そうですね、少なくとも五月までに意識が戻らねば、残念ですが……」
「……な、何を仰ってるんですか……リアン様!?」

 リアンのその言葉に、オードリーはびくりと肩を震わせて、次に絶句しながらも何とか反論したマリアンヌとリアンの様子を伺った。

 ――五月というその月は、オードリー個人にとっては、何よりも意味があり、特別な月であったからだ。

 だからといって、それをリアンが知った上で、五月という言葉を出したのか、まだ判別が付かないオードリーは、決定的な一言を聞くまでは、彼らの会話を黙って聞く以外にない。

 と、不意にリアンが目線だけでちらりとオードリーを一瞥した。そして、不安に揺れる赤い瞳を捕らえた途端。

(リアン様、今、笑ったかしら?)

 不安に、強ばった顔をしていただろうオードリーを安心させるように、先ほどマリアンヌに向けた物と比べると、光の加減で起こった錯覚とも取れる程に僅かに。

 だけれど先ほどよりもよっぽど人間らしく、まるで可愛い動物などを相手に思わず漏らしてしまったかのような笑みを浮かべ見せ――そして、オードリーにとっての決定打を口にした。

「全ては、お嬢様が安心して生活する為なのです。――どうか、ご配慮下さい、マリアンヌ様」
「――リアン様!」

 リアンのその言葉に、マリアンヌが応えるより先に、オードリーは思わず裏返った声で名前を呼び、驚きを露わにリアンを凝視して赤い瞳を潤ませた。

 何故なら、その一言でオードリーにはリアンの発した言葉の意図を、恐らく、ほぼ正確に読み取ってしまったからだ。
 三月の半ばである今から二ヶ月後――五月はオードリー達の誕生月で、その月、オードリーは数えの十三歳に――成人ではなくとも、異性と婚約を結べる年になるのだ。

 本日付けでグレイス公爵家の唯一の血縁で令嬢となった、未だ十二歳の――まだ成人を迎えておらず、叙爵することが叶わない年齢のオードリーが公爵領に今のままの生活を公爵家の領地で生活するには、いくつかの方法がある。

 一つは、自分とより近い血縁の、成人した男子にその爵位を渡し、オードリーをそのままカントリーハウスに住まわせて貰うように嘆願すること。

 一つは、信頼出来る、釣り合いの取れた家庭――公爵令嬢であるオードリーの場合は侯爵位以上――から一人以上の後見人を付け、領地経営をその人間に任せること。

 しかし、この二つはあくまで相手の善意に縋る方法であり、少女でしかないオードリーは下手したら、意に沿わぬ結婚や、寄宿学校や修道院に追い払われて家を奪われる可能性がある。

 それを踏まえれば、オードリーにとって一番負担の少ない方法は一つだけ――婚約可能となる十三歳の誕生月までに、婚約者を決め、その婚約者が時期グレイス公爵になるという『暗黙の了解』を貴族の間に作ることだ。

 ――その為に、公爵令嬢オードリー・グレイスが、他に家を継ぐ家族を持たぬ身になるには、家族と書類の上で死に別れるには、あと二ヶ月を『待たねばいけない』のだ。
 ――そして、家族と死に別れるその時に、オードリーは、例えそれが口約束だとしても、誰かと婚約を結ぶこととなる。

「リアン……様、それ、は……」
「えぇ、そう取って戴いて結構です。お嬢様」

 驚愕が過ぎ、今度は真っ赤になったオードリーの顔を見て、リアンは照れくさそうに笑い、それから、神妙な顔でオードリーを見つめ、すっと視線を逸らした。

 逆に視線を逸らせなくなったオードリーは、彼の切れ長の目の端が、ほんの僅かに淡くい桃色に染まったのように見えた。
 それに気付けば、まるで熱に浮かされたように、オードリーの頬は更に赤みを増し、熟れたイチゴのようになった。

「あくまで当人同士の約束ですから――別に、守る必要もありません。もし、お嬢様に良い人がおりましたら、私は身を引きましょう」
「で、でも、それではリアン様が……!」
「そ、そうですわ! お嬢様と十も離れた貴方だなんて!! どうせお嬢様の相続する地位と財産目当てなのでしょう!?」

 漸く事態を飲み込んだ様子のマリアンヌはオードリーに走り寄り、リアンから守るようにしてその前に両手を広げて立ちはだかる。

「よしなさい、マリアンヌ! 失礼だわ!!」 
「で、でもお嬢様!!」
「いいから、よしなさい。――リアン様は親切で言って下さっているのよ」

 オードリーが静かにそこまで言うと、激高していたマリアンヌはしょんぼりと肩を落とし、それでもオードリーとリアンの前に立ったままで俯いた。
 口先だけではマリアンヌを諫めたオードリーであったが、彼女が口に出した言葉こそ、オードリーが尤も懸念した言葉だった。

 この、口先だけの婚約で傷が付くのは、オードリーではなく、彼女より十歳も上で、しかも生まれは良くとも、今はあくまでただの医者であるリアンなのだ。

 彼は、このままオードリーと婚約の後結婚したとしたら、侯爵次男からグレイス公爵という身分に――実の兄であるレオニス侯爵に勝る身分になってしまう。

 医者という、未だ認知度が高くない――学校にも通えない、適正があれば、読み書き計算も満足にできない平民さえもなれる薬師などと同一に考えられているような――職業に『わざわざ学校に通ってまで』なった、爵位の継承権が無い酔狂な次男坊。

 それが、自分より十も年下の少女、ともすれば自分で考える能力さえ無いような年端の行かないような少女と結婚し、兄に譲った爵位よりも大きな位に即く。
 口さがない貴族がそれをどう感じ、妬みと嘲笑を込めて何を言うかなど、それこそまだ年端の行かない幼いオードリーにだって何となくは理解出来る。

 また、仮にオードリーが良い人を見つけ、リアンとの仮初めの婚約を解消したとしても、だ。

 三年後の成人以降、すぐに次の結婚相手を見つけることが出来るオードリーとは違って、その時二十六になる、しかも自分より十も下の娘袖にされるという不名誉が社交界中に広まるだろうリアンに、良い縁談など無いかも知れない。
 彼ほど美しければ、それでも良いという娘だって居るかも知れないが――誰が好き好んで、王族を除けばその次に身分ある公爵令嬢の元婚約者と付き合おうと思うだろうか。
 周囲の人間や、下手をすればリアン自身にも、何かに付けて常にオードリーと比較されることになり、肩身の狭い思いをすることであろう。

 ――相手の女性に、彼の花嫁の座を射止めることに、周囲の目など構っていられない理由があるか、己がリアンの愛を確実に得る自信でもなければ。

「っ……?」

 そこまでを考え、オードリーは自分の胸の辺りから、何か引き攣れるような痛みを感じて僅かに首を傾げ、胸元を押さえた。

 まだ自分の目では確かめていないが、もしかして、お腹や額だけでなく、胸の辺りも打ち付けたのであろうか。そう思って見下ろしたが、胸がそれ以上痛むことは無かった。
 そうやって自分の痛みに気を取られたオードリーは気付かなかった――オードリーの言葉を受けたリアンも、眉根を寄せ、自身の胸元に手を添えて、苦しげに吐息を吐きだしたことに。

「まぁっ……」

 彼のその顔を見たマリアンヌが、驚いたように目を瞬いて、両手を合わせて感嘆の息を吐いたことに。
piyopiyoPHP