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「……リアン様は、何故、そこまでして下さるんですか?」

 互いに暫しの沈黙の後、そう聞いたオードリーに彼は、先ほどまでの苦しそうな顔は一切隠し、事も無げにそう言って破顔し、事も無げに言ってのけた。

「――お嬢様。私は先ほど言った筈です。『私の全てを貴女に、貴女の為に差し出す』と」
「……リアン様は、わたくしには勿体ない程に素晴らしい従者ですわ」
「ありがとうございます」

 真っ赤に染まった頬を誤魔化す為に両手で押さえ、唇を尖らせながらぷいと顔を背けたオードリーの稚さに、リアンは苦笑を漏らしながらもそれを声に乗せず、完璧な従者の礼でもって応えた。

 そんな、主従のやり取りを目の当たりにしたマリアンヌは、その緑の目に複雑な色を宿らせながらも、大きな溜息と共に肩を落として俯くと、やにわにオードリーの方を振り返った。

 そして、本日初めて、いつも家庭教師としてオードリー達を見る時の、教育者としての冷徹な瞳をオードリーに向ける。

「オードリーお嬢様」
「――はい」

 彼女の視線を受け、条件反射で背筋を伸ばして姿勢を整え、何か言いたげに揺らぐ緑の瞳を、赤い瞳がまっすぐと捕らえたのを確認し、マリアンヌはふっと表情を緩め、困ったように笑いかけた。

「お嬢様、マリーはこれでお暇させて戴きます」
「えぇ。……あなたもお気を付けて……お帰りになって。ミセス・マリー」

 いつもはオードリーに呼ばれることはあっても、自分から名乗ることは無い愛称で離席を告げたマリアンヌを怪訝に思いながらも、オードリーはいつかマリアンヌに習った通りに、その手をマリアンヌに差し出して、その小さな手の甲に口づけを受けた。

 マリアンヌはオードリーの手の甲から顔を上げると、その手を両手で握り、そこに額を置いて、消え入るような声で言葉を発した。

「どうか、お大事にお過ごし下さい――旦那様と奥様、アニュゼット様の……快、癒を……願っております」
「マリー……」

 最後は例によって涙声となってしまったその言葉は、マリアンヌがオードリーを心配しつつも、先ほどのリアンの提案を呑んだという了解の意味だった。
 オードリーは溜まらず、マリアンヌに屈んで貰い、その頬に小さく口づけを落とした。

「あなたは私の、本当に素敵で、何者にも変え難い素晴らしい先生です――マリー」

 ついにまた、ボロボロと涙を零し出したマリアンヌは、リアンに肩を抱かれ、支えられるように退室し、アパートメントを後にした。


 程なく、マリアンヌを見送り、戻って来た彼は、彼女に頼んだ伝言と殆ど同じ言葉を手紙にしたため、もう既に――オードリーが気がつくより前に――グレイス家のタウンハウスに送ったことを告げた。

「グレイス公爵家の面々は、私の家から領地に帰る、と。ですので、あちらはあちらで、撤収の用意をして欲しいとをお伝えしておきました。――詳しくは、明日領地に戻ってから、執事だけに話しましょう」
「えぇ、それで結構です」

 その後、一言二言、オードリーの分かる範囲で、周囲の細々としたことや、明日の予定を告げたリアンは、じっとオードリーを見、ふと、何か大切なことを思い出したように星のように青い目を瞬いて、小さく息を呑み、非常に申し訳無さそうに眉を下げて肩を竦めた。

「すみませんお嬢様。……つい昨日、この家を引き払うつもりで解雇してしまったので、この家にお嬢様のお世話を出来る女手が無いのです」
「まぁ!」

 聞けば、このアパートメントの家事を任せる為、若い頃に少しの間だけ、貴族の家でメイドとして従事した経験のある中年の女性を一人、通いで雇い入れていたのを、公爵家に従事することとその日取りが決まった折に解雇してしまったのだという。

「残っているのは、留守の間の、資料や薬品の見張り役に雇った男手ばかりで……」
「そうなのですか……?」
「えぇ。明日のお支度については、夜が明けたらお嬢様に着替えを届けさせるようにと手紙に添えたので大丈夫だとは思いますが……」

 呼び戻そうかとリアンは言ったが、今はもう夜も遅い時間であるし、その女性は夫も子どもも居る身だという。
 たった一日にも満たない時間、オードリーの世話をさせる為に叩き起こしてここに連れて来るというのは、彼女にしても彼女を雇ったリアンにしても、気まずいだろうし面倒なことだろう。

 恐らく、ここでオードリーが否やを言えば、リアンはオードリーを世話させるに相応しい女手を得る為に奔走するだろう。しかし、オードリーは、そうしたいとは思わなかった。

 使用人は家具や道具と同じだと、そう言う人も少なくはないし、実際、幼い頃に使用人自身にそう言って説教をされたこともある。

 だけれど、普段はその繊細さで人を振り回す、想像力豊かなアニュゼットに言わせれば、家具にだって一つ一つ、魔法のランプのように精霊が宿っていて、だから大切にしなくてはいけないのだという。

 だからオードリーは、目に見えない精霊を大切に扱うのに、目に見える使用人を自分の都合で粗雑に扱うのは余り好まないのだ。それに――。

「……今日一日だけでしたら、平気です。お風呂だって、一日入らないでいたって死にませんでしょう?」

 今この瞬間も含めて、オードリーはリアンに、オードリーが公爵家令嬢、オードリー・グレイスであることで、彼女の望む望まないに関わらず色々な迷惑を掛ける事態に陥るのだから。
 こんな些末事で彼を悩ませたくなど無かったのだ。

「本当に申し訳ありませんお嬢様……では、せめて入浴の代わりに――」

 そうしてリアンから提案されたのが、お湯を使っての簡単な清拭だった。
 相手はそうしたことに慣れた医者であり、別に、丸裸になって身体を洗われる訳でもないのだからと、オードリーはその好意に甘えることにしたのだった。
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