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「所で、ドリー?」
「何ですか……リアン」

 濡れたオードリーの肌を乾いた布で軽く拭い、清拭を終えたリアンは道具を片付けながら、自然にオードリー愛称を名を呼んだ。
 対するオードリーは、やはり上手く呼べず、口を小さく動かして、呼吸の音だけで『様』を付け足してしまった。

 リアンは、両手で口を塞いで恥ずかしがるオードリーの様子にクスリと笑って目を細めながら片付けを終え――そのままオードリーの傍らに歩み寄り、身体と同じように拭ったことで、少しだけ湿った艶やかな黒髪を手櫛で撫で、指先で弄びながら口を開いた。

「ドリーは私に――貴女の婚約者候補である、この『医者』である私に、何か頼みたいことがおありなのでは?」

 その言葉にハッと顔を上げたオードリーの見上げたリアンの顔は、もう笑ってなど居なかった。

 ひんやりとした青い瞳にはきっと、ただの子どもでしかないオードリーの言いたいことなど――『公爵令嬢』の彼女が、『医者』である彼に聞こうとしていることが、何であるかなどお見通しなのだろう。

 オードリーは小さく鍔を飲み込み、未だ自分の髪を弄ぶリアンを見上げながら、せめても意趣返しに、リアンの漠然とした質問に、同じく漠然とした質問を返した。

「それは――私がリアンに願えば、すぐに叶えられるようなものなの? こんな夜遅くに……」
「私個人としてはおすすめしかねますが……。――婚約者の初めてのお願いを、出来れば迅速に叶えて差し上げたいとも思っておりますよ」

 オードリーのせめてもの強がりにそう返したリアンの顔に表情は浮かんでおらず、オードリーの髪の先に口づけられた形の良い唇は、それ以上、何の言葉も発さない。
 それでも、長い睫と共に伏せられた青い瞳は語っていた――今、オードリーにそれを願われるのは、大変不本意であり、辛いのだと。

 或いは――リアンはオードリーの願いに心を動かされている訳ではなく、彼女よりもはっきりと、彼女が今やるべきことと、それによってもたらされる苦しみを、分かっているだけなのかも知れない。

 オードリーが、幼いながら立場ある人間として。婚約者である以上に自分に忠誠を誓った従者であるリアンを使役する為に――彼が信用に値すると、情にほだされず公平な立場で判断する為に必要な情報を。

 彼の瞳を見つめながら、そう、オードリーは思った。そのするべき言動によって結果として引き起こされる、オードリーの、リアン自身の情動――苦しみとか悲しみ――は別として。

「――ねぇリアン、その通りよ。私はあなたに、お願いがあるの」

 だからオードリーは、自分の髪をしきりに撫でるその手とは違う手を両手で取り、その手の甲に額を預けて目をつむりながら、言うべき言葉を、その切っ掛けとなる一言を口にした。

 それで、もう痛みが麻痺してしまい、痛みと感じられなくなるまでに弱った自分の心が、それ以上に傷付いたリアンの心が、また引き裂かれると分かっていながら。

「私、わたしね、お父様とお母様と、アニュゼットの――『お見舞い』がしたい。お父様達のお加減を、アニュゼットがいい子で寝ているかを、自分の目で確かめたい」
「……今から、ですか? 皆様の『病室』は地下にあるから、夜は特に冷えますよ?」
「いいの、それでも――私は、みんなに会いたい」

 ――オードリー・グレイスが、唯一生き残った『公爵令嬢』が、ゆくゆくはその爵位を渡すこともある、婚約者という立場に『医者』を置く為に、その為に駒を動かす為にまずやらねばいけないこと。

 それは、当主とその婦人と娘――彼女以外の、爵位と、その継承権を持つ者ら――の治療を担当する『医者』に当主の名代として立ち会い、彼らの『治療』が適切に行われているかを確認し、容認することだ。

 彼らの怪我の具合を『医者』が――リアンが詐称しており、手元に置いた『公爵令嬢』――オードリー・グレイスを傀儡に、グレイス公爵家を乗っ取ろうとしているという、誰もが思い描くシナリオを真っ向から否定する為に。

 オードリーは滑稽且つ残酷にも、家族の死体を見舞い、その状態を確認する必要があるのだ。

 ――適切な処置を行えば、命が助かる可能性のあった者を、未だ息のあった者を。
 爵位欲しさに、リアンが見殺しにした可能性を疑いながら。

 家族を亡くしたことを中々受け入れられなかったオードリーが、家族を救えなかったことを悔いるリアンを疑って、家族の死がリアンの言葉通りにもたらされたのかを検分する。

 リアンはそれを、今すぐ、こんな夜更けでなくて良いのではと――こんな時でも、オードリーを気遣って言うのだ。
 そしてオードリーはリアンのその気遣いを、何かの工作として疑って掛からなければならない。

「おねがい、リアン。お願い……!」

 オードリーは、リアンの手の甲を強く握りしめ、痛みを覚える程に額を擦りつけながら――その痛みで心の痛みを誤魔化しながら、頑是無い子どものようにそう願った。

「――分かりました、ドリー。麗しい私の婚約者。その代わり――地下の『処置質』はとても寒いので、私の上着を羽織って温かくして下さいね」

 そうしてリアンも、そんなオードリーの懇願を、「年下の婚約者の可愛らしい我が儘」といった体で受け入れ、オードリーに寝間着の上から自分の上着を羽織らせ、しっかりボタンを留めてから、彼女を寝台から自分の腕へと抱え上げる。

「地下への階段は、足下がとても悪いですから。ちゃんと私の首に捕まっていて下さいね。約束出来ますか?」
「はい、大丈夫……です」

 リアンの腕に座らせるようにして抱えられたオードリーが素直に抱きつくのを確認し、リアンは部屋の隅にあったランプをオードリーを抱えるのとは別の腕に掲げ、寝室を後にした。

 グレイス侯爵家の面々を『見舞う』為に。
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