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 リアンは片手にランプを掲げ、もう片方の腕にはオードリーを抱えたままで器用に扉を開け、絨毯の敷かれた廊下へと出た。廊下の右端は壁や窓ではなく、飴色をした木製の柵になっていた。

 オードリーの居た部屋は端に位置するらしく、数歩歩くと、壁に作り付けの燭台が置かれた、曲がり角へと辿り着いた。
 その角を曲がる時、リアンに抱えられながら少し首を伸ばすと、下に数本の蝋燭で明るく照らされた、小さな玄関ホールらしき場所が見えた。

 今度はランプだけで照らされた行く先を見ると、ランプが丸く切り取る廊下の向こうに、これまた壁に作り付けられた燭台に淡く光るドアが一つと、廊下を挟んだその向かいに、飴色をした階段の手すりのような物がある。

 どうやらその奥にも廊下は続いているようで、恐らく、階段を真ん中にして回廊のように廊下が延び、その左右に一部屋ずつ、部屋ののある間取りなのだろう。
 リアンはここをアパートメントだとオードリーに言ったが、その部屋数から言って、多少手狭であっても、屋敷と呼んで差し支え無いのではないかとオードリーは思った。

「階段の左右は客間、真ん中の部屋が私の寝室と書斎になっています」
「そう、なのですか?」

 気付けばあっという間に階段の前まで辿り着いたリアンは、背後のドアを振り返りながら、オードリーの疑問に答えるようにそう口にした。
 そんなに分かりやすい顔をしていただろうかと、オードリーは少し気恥ずかしくなって顔を伏せた。

「えぇ、グレイス公爵のお屋敷と比べますと手狭で申し訳ないですが」
「そんなことありません! 寧ろ、アパートメントとはこんなに広い物なのかと思ったくらいで」
「それは光栄ですね……まあ、私一人が過ごすには、少々贅沢な建物かも知れませんが」
「あっ……申し訳ありません」
「いえ、拙宅をお褒めにあずかり光栄です」

 少し強めに腕を回した太い首が、漏れ出た苦笑に揺れるのが厚い上着の生地からも伝わり、その振動に、オードリーは自分が捉え方によっては無礼な言葉を吐いたのに気付いて羞恥と申し訳無さに益々うなだれた。

 思えば、オードリーは今日会ったリアンに淑女として失礼な態度ばかり取っているような気がする。
 そこまで考え、恐らく自分の足で歩けるだろうに、こうやって部屋から階段までの短い距離を抱き抱えられて移動して来てしまった事に気付いて、いよいよ恥ずかしくなってきた。

「尤も、滅多に客人も来ない家なので、奥の客間は殆ど物置のように使っておりまして……とても見せられた物ではないのですがね」

 だから、どうかあのお部屋で我慢して下さい、と、冗談めいた言葉を言い添えながら、自分の顔のすぐ横で項垂れるオードリーの横顔に笑いかけたリアンは、階段を下る為にオードリーを抱き直そうと身じろぎをしたが。

「あの、リアン……下ろして下さい。自分の足で歩きます」
「あぁ、そうですね。――すみません、淑女にそんなことを言わせてしまって」

 そう言って、階段のすぐ前にしゃがみ、顔を覗き込んだリアンに、オードリーは申し訳なさに俯いたまま、左右に顔を振ることで答えた。

 オードリーのその動きに合わせ、顔を覆うように垂れた癖の無い黒髪と、その両手を覆い隠す長さのリアンの上着の袖が揺れる。
 リアンはその稚い姿に目を細めながら、自分の上着に隠れたオードリーの右手を取り、丁寧にその裾を手首まで小さく折って捲り上げた。

「では、せめて手を繋ぎましょう。あと、地下への階段は大変暗く、滑りやすくて危ないので、その時にはまた、今のような無礼をお許し下さい」
「お約束……でしたわね」
「えぇ、そうです」

 その白い顔に掛かった黒髪を丁寧に払い、耳の横に掛けてやりながらも。
 あくまで紳士が淑女に物を頼む時の礼儀を守りながらそう言うリアンに、オードリーは「はい」という返事と共に顔を上げ、リアンに袖を捲られた右手を差し出した。

 階段には、廊下と同じように絨毯が掛けてあり、それは、寝台からそのまま抱き上げられたせいで靴を履くことができず、はしたなくも素足で歩くことになったオードリーと、彼女の手を引いてエスコートするリアンの靴の音とを吸収した。

 互いの呼吸の音とと衣擦れ、包まれた手の平の静かな体温ばかりに気を取られるうち、階段の三段手前で立ち止まったリアンが徐に手を離して、そこにオードリーを残して、残りの段を下った。
 そして、階段を下り切った所で振り返り、ランプを足下に置いて、背後の――困惑を顔に写し、彼と殆ど同じ視線の高さの場所に留まったままのオードリーに向けて両手を広げた。

「ここからは、絨毯が途切れますので――おいで、ドリー」
「はい、リアン」

 オードリーはその行動の意味を聞くことなく、腕を伸ばして、その身体に倒れ込むようにして首に抱きつき、大人しく先ほどのように抱え上げられた。


 幅の無い代わりに、吹き抜けのようになり、天井の高い玄関ホールの端、階段の真裏に当たる壁にある扉が入り口になっていて、扉を開けると、物置程の広さの場所があり、その天井にはランプが一つ吊されていた。

 そこには、既に明かりの点されたランプに照らされて、石造りの床と――そこから繋がる、石造りの階段があった。
 穴の縁から覗き込んだ階段は、光の届く数段だけがランプの明かりの下で黒く光り、残りの部分は闇に包まれているようだった。

 広がる闇の奥からは、冷たい風が、オードリーの髪を揺らすか揺らさないか程度、僅かに吹き上げており、その冷たい風からは気のせいか、川のすぐ横を通ったかのように生臭い臭いがした。

 その臭いが何であるのか――ふと、その答えを思いついたオードリーは、小さく息を呑み、咄嗟にリアンの首筋に抱きついて目を閉じた。
 オードリーにはその穴が、まるで地獄に繋がっているかのように恐ろしく感じられた。

「――お戻りに、なりますか?」

 だけれど、塞がった両手の代わりに、縋り付くオードリーに頬を寄せるようにしてそう言ったリアンの言葉に、オードリーは一層強く目を閉じながらぶるぶると額を押し付けるようにして首を振った。

 そして、首に縋っていた方の手を片方外し、リアンの頬に寄せ、赤い目でもってその目をまっすぐに覗き込んで、言い放った。

「私を、家族の下へ連れて行きなさい。リアン」
「――全て、ドリーの思うままに」

 ランプの僅かな光に剣呑に燦めいた、血のように赤い瞳を見返しながら、リアンはそう言い、オードリーを一層強く抱き寄せて階段へと足を踏み出した。
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