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"Down, down, down."

" She kept on falling."

下に、下に、下に……。

彼女はどんどん落ちて行く。
 地下室への階段は、時折途中の壁に蝋燭の点された燭台がある以外は、リアンの持つランプ以外に明かりはない。

 しかしリアンは慣れているのか、迷いの無い足取りで、時折、明るい場所でオードリーを抱え直す為に足を止める以外、迷いなくどんどんと階段を下って行く。
 階段が何処まで続いているのか、リアンの手の中の明かりや燭台だけでは全く見えず、オードリーには、それが地の底まで無限に続いているようにさえ感じられた。

 下から吹き込む冷気は益々冷たさを増し、頬を撫でるような気がする。
 生臭い臭いには途中から鉄さびのような臭いが混ざりだした気がしたが、リアンに拭かれた身体に残った香油の匂いと、上着からするリアンの香水らしき甘いような煙たいような不思議な匂いが、上手くオードリーの鼻を誤魔化していた。

 そうやって誤魔化されるうちに、空間に広がる臭いは余り気にならなくなり――今、オードリーの身体を苛むのは、限界まで張り詰めた為、急速に緩もうとする緊張と、ぼんやりとしか見えない薄暗い視界。
 そして、それらと共に、リアンの立てる規則的な靴音がもたらす、抗い難い程に強い眠気であった。

 ――カツン、カツンと、音が鳴り、階段全体に反響する。
 ――ランプの光は専らリアンの足下を照らし、視界は殆ど、眠る時と変わらない薄暗さ。
 ――ふと、音が止まったことと、下からお尻を支える腕が動いたことにはっと目を見開く。
 ――だけれど、再び響いた足音に、また意識はぼんやりと霞んでいく。
 ――目を閉じても開いても代わり映えしない視界に、自分が起きているのか、眠っているのか、段々と分からなくなって行く。

(まるで……ウサギ穴に落ちて行くようだわ……)

 オードリーは、立て直し、糸をつむぐように、張り詰め直そうとすればするほど、急速に緩んで行く意識の中。ふと、前にアニュゼットと読んだ本を思い出していた。

 アニュゼットがお気に入りで、何度も何度も読んでいた、おかしな世界に迷い込んだ、小さな女の子の冒険譚。
 彼女はそれをいたく気に入り、アニュゼット程には物語というものに熱心ではない姉のオードリーを同じ世界に誘い込むべく、自分の気に入りのシーンを、何度も何度も読んで聞かせた。

 今の自分は、その絵本の中で、ウサギを追いかけウサギ穴に飛び込み、どこまでも落ちて行く少女のようだ――夢うつつの中、我ながら何と緊張感の無い思考だろうか、と、オードリーは思った。

「下に、下に、下に……」

 だけれどオードリーの口は、疲労に微睡むうちに無意識に、アニュゼットの朗読を聞いていて覚えてしまったその一説を、小さな声で諳んじていた。

 双子の姉妹であるアニュゼットの朗読と、丸っきり同じアクセントと声をした声で――それを諳んじているのが、自分か彼女か分からなくなりながら。
 そのうち、二人で額を突き合わせ、本を交互に暗唱して遊んでいるような気さえした。

 ――いい? ドリー。先に、目を開けて本を確認した方が負けよ。

 あぁ、アニュゼットならきっとそう言うだろう。

 そして、そっと目を開けたなら、オードリーと全く同じ顔をしたアニュゼットが、同じ赤い目を閉じ、綺麗な眉間に皺を寄せ、必死に次の行を思いだそうとしているのだ。

 程なくして、オードリーが目を開けて自分を見ていることに気付いたアニュゼットは、赤い目を眇めて、口を尖らせて言うのだろう。

 ――狡いわドリー。私の見ていないうちに、勝手に目を開けるだなんて。

「――流石に、私の家の階段は四千マイルもありませんよ、ドリー」

 そんなオードリーを覚醒させたのは、何度目かにオードリーを抱き直しながら、リアンが耳元で言ったそんな言葉だった。

 気付けばオードリーは完全に眠りに付き、目を閉じていたらしい。目を開けたそこには、今までよりはっきりとした明るさと、困ったように笑うリアンの顔があって、オードリーは何度も瞬きを繰り返して目を擦った。

 どうやら、足を止めたリアンが、足下に向けていたランプを掲げて、オードリーの顔を確認していたらしい。
 ――恐らく、自分がリアンに身体を預けて完全に眠ってしまっていたから。

 そう、理解した途端、かぁっと顔を真っ赤にし、恥ずかしさに、リアンの首に縋り付いて小さく唸った。

 まさか、自分の独り言が全部、声に出ていて、しかもそれに律儀に返事が返って来るだなんて思わなかったのだ。

 更に、もしも完全に眠っていたのだとしたら、間近で寝顔を見られたことになる――リアンに淑女らしくない失態を見せる度、これ以上恥ずかしいことは無いと思うのに、結局は更に酷い失態を見せているような気がする。

「あの本は面白いお話でしたね。友人に勧められて、私も読んだことがありますよ」
「……っ」

 だけれどリアンは、オードリーのそんな様子を、幼い子どもが寝ぼけてむずがったのだと思ったのだろう。

 赤ん坊を宥めるようにトントン、と、オードリーの背中を叩き、軽く揺すり上げる。

 ――その、幼い子どもを甘やかすような仕草に、余計に恥ずかしくなって、双眸に負けないに耳まで赤くして、余計顔を上げられないというのに。

 と、何度めかに揺すって宥められた時に、オードリーは漸く、今までランプで塞がっていた筈のリアンの手が、自分の背中に回っていることに気付いた。

 だけれど、乱れた髪の間から見える視界は、ランプを向けられた時のまま、はっきりと明るいままだ。
 それを訝しく思って、オードリーは漸く、熱の引いた顔をリアンの首もとから上げた。

「この地下室が地球の向こうと繋がっていない証拠に――ほら、もう付きましたよ」

 その気配に気付いたリアンが手で指し示したその先。
 長い階段の終点であるそこには、煉瓦を積んで作った壁と、堅牢な金属製のドアがあり――先ほどまでリアンがその手に持っていたランプは、そのドアの上にある金具に引っかけてつり下げられていた。
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