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プロローグ:薔薇の下の秘密
 グレイス侯爵家の待望の第一子にして長女と次女である、オードリー・グレイスとアニュゼット・グレイスの双子は、互いの物心が付くか付かないかの頃から、それは仲の良いことで有名であった。

 また、父譲りの濡れたような光沢を持つ癖のない理知的な黒髪と、母譲りの石榴石より尚赤い情熱的な瞳、そして、それらを存分に幼いうちから匂い立つ艶やかな美貌でも。

 黙って二人並んでいるとまるで対の人形が立っているように見目麗しいその姿は、仲睦まじい様子と相俟って誰もを虜にした。
 だから、侯爵という立場上、決して少なくはない客人達は、幼い今のうちにグレイス家の双子に気に入られようと、こぞって彼女らに会いたがった。
 公爵と親しい人間はその気の置けない友人や付き合いの立場を生かして双子に会いたがり、双子を見るだけでなく公爵とのコネクションを得たい人間は双子をダシに公爵との面会を希望した。

 身分も、年齢も違う彼らに唯一共通することといえば、大体が貴族か羽振りのいい商人であることと、
まるで珍しい動物やそれこそ人形でも鑑賞するかのように、何かと彼女らの顔を見たがっては、こぞって「人形のようだ」とか「外国の女王様のよう気高くに麗しい」とか誉めそやすことだった。

 しかし、当の彼女らといえば、幼い少女らしく己を飾り付けることや磨くことに興味を持ってはおれど、誰もが美しいと誉める両親と自分と全く同じ顔の姉妹が居る屋敷の中が世界の全てであった。

 なので、己らの容貌をいくら贅を尽くした言葉で誉められた所で、そこに特に何の感慨もない。

 客人の前で、それこそ対の人形のように、すましてじっとしていられる時間など、毎回、客人がお茶を飲み終わるまでの、せいぜい数十分くらいのことだ。
 それよりも、と、姉妹で手を取り駆け出して、黙ってすましていれば艶やかな美貌も遙かに霞むように子どもらしい、ともすれば憎たらしいとも取られるような、悪戯とお転婆を発揮するのみ。

「それではわたくしたちは、しつれいしますわ」

 どちらともなくそう言って、スカートの裾を摘んで揃ってぴょこりとお辞儀をすれば、
後は何処へなりとも駆けて行ってしまう。
 立派な女王様の住まう王都から比較的離れた田舎の、しかし国内の羊毛と酪農とをほぼ一手に任された広い酪農地ばかりの領地にあるカントリーハウスの、美しく手入れされた花の咲き誇る庭や、白い壁と赤の煉瓦の屋根、がアシンメトリーに作られた屋敷の廊下。

 それらの場所を、その小さな背格好だけでなくその見目麗しさまでもが定規で図ってしつらえたようにそっくりな二人が、朗らかに笑いながら駆け回るその姿。
 それは、洗練されたレディの姿とも、大人の理想とする従順な子どもの像ともかけ離れている。

 しかし、かけ離れていながら何処か、手入れの良い黒い子猫のじゃれ合うような無邪気さと気品があって、父であるグレイス侯爵や母である侯爵婦人や使用人だけでなく――当の双子にすげなく振られた客人をも微笑ましい気分にさせるのである。

「またやってしまったわね、ドリー」
「またやってしまったわね、アン」

 互いの手を引っ張り合いながら、綺麗に磨かれた廊下を走るオードリーとアニュゼット。しかし、殊勝な言葉とは裏腹に、そっくりな顔はどちらも、申し訳無さとは無縁の輝きを放って見つめ合う。

 幼い双子にだっていくら丁寧に淑女の礼を取った後だとしても、客人を放り出して外に駆け出すことがどんなに不作法かは勿論分かっているし――絶対に失礼があってはいけない客の場合には、大人しくしておくように前もって言われている――父や母を訪ねて来た客の目的が自分達だというのも重々と承知している。

 でも――分かってはいても、それを受け入れるかは全くの別というものだ。
 何故なら、幼い双子にとって、二人で過ごすこの時間は無限の物ではなくて、寧ろ、いくらあっても足りないものなのだ。

 だからこそ、今日も双子は、姉の俊敏なオードリーが好奇心旺盛だけれど少しおっとりしたアニュゼットの手を半歩前から引いて、黒髪に栄えるお揃いのスカーレット色のドレスの裾を揺らして、今日も今日とていつの間にか互いに本気になって順番を競い、庭に向かって廊下をひた走るのだ。

「はやく、はやくアン! ひつじさんがいっちゃうよ」
「まってよドリー。そんなにいそいだら、おかがのぼれないよ!」
「なら、ドリーがアンをおぶるわ! だからはやく!!」

 しかも予定の押している今日という日などは特に時間がない。
 二人はこれから、日が上り切る前に庭の真ん中にある、芝で覆われた小山を上ってその頂上にある東屋のテーブルに登って、使用人や両親に見つからないように背伸びをして。柵の間から遙か向こうの草原に放牧される羊の群を見なくてはいけないし、お茶の時間の前には部屋に戻って、「王子とお姫様ごっこ」をしなくてはいけないのだ。

 大抵の場合、王子様を引き受けるのは聡明で俊敏な姉のオードリーで、お洒落が好きでおっとりしているアニュゼットがお姫様役だ。

 けれど、たまには自分は侍女や女王様の役を引き受けて、オードリーを思うさま飾り付けてお姫様にしたいとアニュゼットは思っているし、そう思えばオードリーを説得しておめかしをする時間も設けなければならない。

 ――やはり、幼い自分たちの時間なんてものは、いくらあってもぜんぜん足りない。

 だって――来月の六歳の誕生日には二人に家庭教師があてがわれる予定であるし、それから十年経とうものなら、二人とも十六歳になってデヴィユタントの年を迎えて、今までとは違い、色も形も何一つお揃いじゃないドレス与えられて。

 それぞれ、全く似ても似つかない、別の男の子にエスコートされなければならない。
 ひっきりなしに来るお客様や、双子に毎朝、お揃いのドレスを――二人とも瞳と同じスカーレット色が好きで、しかも同じデザインじゃないと納得できないからどうしても多くなる――着付ける使用人が感嘆混じりに言う「美しい」や「麗しい」という賞賛の言葉を素直に信じるならば。

 そうやってレビュタントを迎えたのならすぐ、美しい互いにはあっという間に結婚相手が出来て、コルセットの紐を緩める間もなく婚礼衣装を着せられて、別れの挨拶もそこそこにバラバラの家に嫁がされてしまうだろう。
 だから――鏡に写したようにそっくりな二人が一緒に居れて、同じ家で同じように遊んで同じように学び、同じ誉め言葉に胸を張って、同じ部屋の同じベッドで寝ていられる時間なんて、もうこの世界に殆ど無いに等しいのだ。

 二人が二人と家族だけを愛していられる時間なんて、瞬きする間に過ぎて行き――二人はきっと、他の皆が言うように、互いを愛するより激しい恋を知ってしまう。

「さぁ、アン、もーちょっとよ」
「うん、ドリー。わたし、がんばるわ」

 こうやって、小山の頂上で大げさな仕草で膝を突いて、中々坂が上れないアニュゼットに右手を差し出すオードリーがアニュゼットの王子様で居られる時間も、その右手に縋って引っ張り上げて貰うアニュゼットが、オードリーのお姫様で居られる時間も、限られている。

「わぁ! ねぇドリー、まるでしろいうみみたいだね」
「もう、アンったら、わたしたち、うみなんてみたこともないじゃない」

 こうやって二人で並んで座った芝生に立った丸い柱の東屋の石造りのテーブルの上で、遙か遠くの地平線を埋め尽くすかのように走り回る羊の群に感嘆の声を上げていられるのんびりとした時間も、明日には誰かに「そんな子どもっぽい遊びはやめなさい」と叱られて、取れなくなってしまうかも知れない。

 だからこそ、双子は誰よりも互いを愛していた。

 いつか自分たちの夫に注ぐ分まで、大人になるとするという、恋に対する憧れと恐れの分だけ。

 そして、未来に彼女が後にそれを悟った時――その時にはもう、彼女は恋というものに飛び込んだ後だった。

 愛情も友情も友愛も人生も、全ては、限りがあるから美しい。幼い少女に誰も、そんなことを教えてはくれなかった。
 先にそれを知っていれば、あんな約束などしなかったのに、そう後悔出来る年齢になった頃には、何もかもが遅かったのだ。

「ねぇ、ドリー」
「……なぁに、アン」
「ねぇ、やくそくしない?」

 いや、彼女だけは――アニュゼットだけは分かっていたのかも知れない。
 聡明なオードリーさえも気付かないその事実を。

 自分たちの絆の強さの裏側にある物を、自分の姉妹がいつか、自分の愛情を裏切るということを。

 だから、オードリーより想像力が豊かで絵本とごっこ遊びが大好きなアニュゼットは、羊に夢中のオードリーのスカーレット色をしたドレスの裾を引っ張って、そんなことを言い出したのかも知れない。

 石造りの東屋のよく磨かれた半円の屋根に掛かる、二人が大好きな深紅の薔薇の気を見上げて指さして、「ばらのしたでのひみつをつくろう」と言って、悪戯っぽく笑い、口の上に人差し指を添えて。

「あのね、わたしたちがおおきくなって、おばあちゃんになって……どちらかが、しんでしまったらね、そのおはかにね、かたほうが、おはなを、まいにち、ささげにくるの」
「はなって……なんのはな? しろいゆり?」
「ううん。あのね、わたしたちのおはなは、アレにしよう?」

 そう言って、アニュゼットは、くすんだ青空に枝を伸ばす蔓薔薇の上に沢山付いた赤い花をまた見上げて、クスクスと笑った。
 それだけで、オードリーにはアニュゼットの言いたいことが分かって、ぱっと顔を輝かせたから、アニュゼットも自分が言いたいことが伝わったのだと分かった。
 それで、嬉しくなって、一層興奮して自分の思いつきを早口でオードリーに言って聞かせた。

「あのね、スカーレットのドレスをきてね、まっかなばらをささげてね、ちかうの、わたしたちしまいのあいはえいえんだって」
「まぁ! それって、ふくしんのとも、みたいね」

 聡明なオードリーは、最近、寝る前にお母様が読んでくれる、オードリーやアニュゼットより、少しお姉さんが読むような絵の少ない本に出て来た難しい言葉を使ってみた。

 たまにお父様がお仕事の手紙を読みながら呟くのと同じ言葉だから覚えていた、ふくしん、が何か。オードリーは実の所全く知らないが、多分、使い方は間違っていないだろうと思った。

「えぇ、でも、わたしとドリーは、とも、よりおもいし、こいびとよりあいしあってるわ」
「そうね、わたし、アンのことが、だんなさまよりだいじだわ!」
「えぇ、わたしもドリーが、どんなおとこのこよりすきよ!」

 だって、たまに家に来る男の子達は、意地悪だし、仲間に入れてくれないんですもん。
 そう言って膨れるアニュゼットに、オードリーは苦笑して、「この屋敷のどんなに素敵な場所を教えてあげたって、退屈だとしか言わないものね、男の子って」と呟いて、テーブルに行儀悪く座って、アンに習って空と、空に伸びる赤い薔薇の花を見上げた。

「ね、やくそくね、ドリー」
「うん、やくそくね、アン」

 そうして二人は、誰も見ていない薔薇の下で小さな秘密を誓い合った。
 この先、二人はどんな風に引き離されても、誰のお嫁さんになったとしても「腹心の姉妹である」ことを。

 お互い、どんなに遠く離れても、誕生日にはどちらかの家に集まること。
 そして――どちらかが死んでしまったら、その墓にスカーレット色のドレスで駆けつけて、見つからないようにして、深紅のリボンで束ねた赤い薔薇を捧げること。
 薔薇に誓った姉妹の絆は、死んでからも永遠で――死後の魂は夫や子どもの為でなく、互いの為にのみあること。

 それらを互いに声に出し合って確かめ合い、ドリーはアンの、アンはドリーの足下に交代で騎士のように跪いて。騎士が女王様に忠誠を誓う時のようにして、互いの指に口づけた。

 死が二人を分かつ日までの、他言無用のその誓いが、一生果たされることがないなど知りもせずに。
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