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 リアンが開けた、重い鉄の扉を抜けて、真っ暗な部屋に入ったオードリーが、まず最初に感じたのは強い刺激臭だった。

 階段の入り口に立った時の生臭ささと金属の混じった物とも違うその臭いは、それらと違って不愉快ではないけれど目が痛くなる程に強烈で、オードリーは思わず、上着の裾でぎゅっと両目を押さえた。

「すみません、研究の材料が何処からか漏れたみたいです」

 リアンの首から両手を離したことでバランスを崩し掛けたオードリーをしっかり抱き留めたリアンは、そのまま早足で部屋の中へと進み、腕の中で目を押さえるオードリーを何かの台に座らせ、ハンカチを渡した。

「明かりを付ける前に、ちょっと確認して参ります」

 オードリーが貸して貰ったハンカチで顔を拭いながら、乗せた台のより、更に奥に歩むその背中を見つめていると、立ち止まった彼はしゃがんで何かを確認して、再びオードリーの方へと戻って来た。
 そのまま、オードリーの頭を一つ撫でると、その横にある何かを操作し出しす。

「お待ち下さい、もうすぐ明かりが点く筈です」
「リアン様、一体、何を……」

 困惑したオードリーが、一体何をしているのか聞こうとしたその時。カチリという音と共に、部屋全体が一気に明るくなった。
 真っ暗な部屋の中で、突如浴びせられた、先ほど顔にランプを近づけられた時など比でも無いくらいの明るさに、オードリーは呻きながら咄嗟に袖で顔を覆った。

「……? まぁっ!」

 瞼の中で、色々な光がチカチカと瞬く、目が眩んだ時特有の感覚が落ち着いて来た頃、腕を顔から外しながら、恐る恐る顔を上げたオードリーは、思わず感嘆の声を上げた。

 色々なガラスで出来た管や瓶、医療器具らしい、水の張られた長方形の皿に沈んだ金属などが置かれた、テーブル程の広さがある台の上に乗せられたオードリーと、同じ台に腰掛けるリアン。その間で煌々と、眩しい程の橙色の明かりを放っている、管に繋がれた、それ事態が太陽のように温かい熱を持った、ランプの灯心を剥き出しにしたようなそれは。

「もしや、電球を見るのは初めてですか?」
「いいえ。でも、火が点いた物を見るのは初めて……!」

 おや、と、その秀麗な眉を僅かに上げて自分を見たリアンを目の端に捕らえながらも、オードリーは台の上の物を倒さないように気をつけながら両手を突き、その熱を頬に感じる程に近づいて、まじまじと覗き込んだ。

 リアンに言った通り、オードリーは電球自体ならば、一度、父と懇意にしている行商人が持って来た物を、商談をする公爵の隣でアニュゼットと共に見せて貰ったことがあった。

 その時、行商人に「小さな太陽のようだ」と説明を受けたオードリーとアニュゼットは大変な興味を持ち、それを買って貰うべく父に懇願した。
 だけれど、公爵家くらいの歴史が深く大規模な屋敷となると、電球を買って仕えるようにするよりも、必要に応じて蝋燭とランプを使い分けながら、常夜の点灯が必要な所にはガス灯を置くようにした方が経済的だからと断ってしまったのだ。

 貴族の習い性らしく、何でも珍しい物に飛びつかないグレイス公爵の賢明さを、オードリーは娘として尊敬してもいたけれど、それを少し残念に思っていた。
 だからまさか、こんな時、こんな所でアニュゼットと共に夢に見た、この『小さな太陽』に出会えるだなんて思っていなかった。

「正確には、火じゃなくて電気ですよ、ドリー」
「凄い、本当に太陽みたい……あたたかいわ、リアン」

 そんな冷静なリアンの指摘も届いていないらしい、上の空の様子で、オードリーは一つだけ点ったその橙色の明かりに見入り、そっと手を翳してみた。
 電球の与える熱は、蝋燭の火から洗濯室のボイラーのように上る物とも、ずっと点けっぱなしのランプの表面に手を翳した時ともまた違った温もりがある。

「不思議っ、まるで血の色が透けているみたい!」
「ドリー、火傷だけはお気を付け下さいね」
「本当ね、手を翳しているだけなのに、火傷しそうな程熱いわ……」

 電球に手を翳しながら、ドリーは、リアンと相まみえてから初めて、年相応の好奇心と喜びが混ざった、女性らしく理論より自分の感情を優先させた――故に少女にしか浮かべることが許されない、輝かしいばかりの笑顔を浮かべた。

 きゃらきゃらと、男にも、淑女にも有り得ない鈴のような笑い声が愛らしい口から漏れる。今まで何処か控えめに表現されていた、素直な感情に後押しされてキラキラと、それこそ宝石のような輝きを放った赤い瞳。

 リアンもまた、電球が照らし出したオードリーの顔を、腕を組んで作業台に寄りかかったまま、口を挟まずに暫し見入った。

「ねぇリアン、……さっき言ってた研究材料って、あの、お酒の樽みたいな物のこと?」
「えぇ、そうです。特殊に作らせた、火が点くくらいに強い蒸留酒です。呑んではいけませんよ、ドリーが火傷しては大変です」
「いやだわリアン、女の子はお酒なんか飲まないわ!」
「おや……ドリーが成人したら、晩酌に付き合って貰おうと思ったのに残念ですね」

 程なくして、オードリーの興味は、電球から、次第に照らされた石造りの部屋の中へと徐々に向いて行った。

 机の色々な器具や、先ほどリアンの居た側の壁に作り付けられた、壁や棚に置かれた棚にぎっしりと並んだ薬瓶の、不思議な色をした水薬や粉類。
 そして、その側に積まれた、この部屋を満たす、強いアルコールの臭染みついた樽や袋など。

「ねぇ、リアンはその強い蒸留酒で、一体どんな研究をしているの?」
「そうですね……今は、特殊な金属を溶かし込んで、ある薬を作っている最中です」
「そうなの? お薬も作れるなんて、リアンは凄いのね」

 リアンの説明は、オードリーにも分かるようにかみ砕いた言葉になっていても、どれも難しくて、オードリーは聞いたことの半分も理解出来なかった。
 だけれど、どれもがオードリーの初めて見る物ばかりで、リアンに説明を聞くだけでも楽しかった。

 そうやって、台の上にはしたない座り方で脚を投げ出して座り込んだまま、アレはコレはと聞き続け――まるで、言葉を覚えたての幼子か、アダムに自分の生み出した生き物の名付けをさせる唯一神のように。

 好奇心の赴くままに――または、好奇心を満たすことによって何かから逃避するように――部屋の隅々までを見渡した。

「ねぇリアン、あの、寝台みたいな台の上に乗った、白い布の固まり達はなぁに? 奥の方にあって、よく見えないわ?」
「あれは――」

 そして、自分が座る台から左側に設けられた、オードリーとリアンが居る場所より一段低く作られた、電球の光が届かない薄暗い空間に置かれたソレに目を留めた時、オードリーはいよいよその時を迎えた。

「あれは――あの方々は、貴女のご家族ですよ……ドリー」
「あれ、が……?」

 この部屋に足を踏み入れた時の衝撃と、目の前にある物への好奇心にかこつけて忘れた振りをしてはしゃぎながらも――オの頭の片隅に常にあった、グレイス公爵令嬢として、自分の運命と向き合う時を。
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