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「こちらの三体が……旦那様、奥様、そして――アニュゼットお嬢様……になります」

 台から抱き上げたオードリーは、再びリアンに抱え込まれるようにしながら、今まで居た研究材料らの置かれた場所とそこを隔てる段差の上に一旦座らせられた。

 研究スペースと安置所とを分けるその段差は、深く座ればオードリーの爪先が床から浮く程度に高さがあり、リアンはそこら床に掛けて、半分に折ったシーツを掛けて覆い、その上に抱き上げたオードリーを下ろした。

「床は冷えるかも知れませんが……少しばかり、こちらでお待ち下さい」

 リアンは、オードリーをそこに残して数歩進み、彼女の斜め前に立ち、初めてオードリーに会った時と同じ、シルクで出来た薄い、白の手袋を嵌める。男性的で美しいその横顔には一切の表情というものがなかった。

 オードリーはまるで氷で出来た作り物のような硬質の美しさを持った、その彼を暫し見つめ、怜悧な色の宿る青の向く先を無意識に追い――そして、小さく息を呑んだ。

 彼が何の色も表情も無く見つめる、電球の光が辛うじて届く闇の中。そこにソレが――つい先ほど自分で確認し、視界の端にも納めた、三台の台とそれぞれの上に乗ったシーツの固まりが――あることに対して。

 彼女はここまで、家族を見舞いに来たのだから、それがそこに居るのは――いや、在るのは当たり前のことなのだ。
 なのに、オードリーは、確かにその存在を、家族とは別の物と考え、そこにソレがあるだけで緊張し、どうしようもなく意識していた。

 同じ空間にあるだけで、目を背けたくなるような、だけれど目を背けることを許されない程の威圧感と、心臓を握りつぶされるような不安。

 彼女より少し長じた者ならば、死という現象に対する畏怖や、死という現象への嫌悪と認識するのだろうそれは、オードリーにとっては背筋を氷がなぞるような緊張と、ただの不快感でしかなかった。

 ――在ると分かっていても、何であるかを頭で理解していても、無い物として扱いたいと思ってしまう――その癖どうしようもなく意識してしまう――それが、死者の、死体の持つ重さだということをオードリーは初めて知った。

 祖父母も生まれる前に鬼籍に入り、父母の知人とは葬儀に行く程の付き合いもない。親しい人間の死体など、初めて見る、オードリーだからそうなのだろうか。

 それとも――その職業柄、常に死体という物とふれ合い、時に、今日のように親しい人に目の前で死なれることもあるだろう、リアンでも、そうなのだろうか。

 見極めようにも、今までより鋭い表情で手袋の端を引き、やや乱れたままになっていた黒髪を革紐で首もとに結い直した、『医者』としてのリアンの後ろ姿から、子どもであるオードリーの読み取れることなど殆ど無かった。

「全体が見える所まで、引き出します」

 そのリアンの言葉で、薄暗い場所に目を凝らしてよく見れば、シーツの載った台の脚にはちょうど、カトラリーを置く台のように小さな車輪が付いていることが分かった。

 三つ並んだ一体目の『家族』が載った台にリアンが手を掛け、オードリーから二フィート程離れた、明かりが届く場所に引き出した。
 オードリーはそれが薄暗い場所から、光の下に現れる様を、益々増す寒気を堪えるように両腕を身体に回して背を縮こまらせながら、呆然と見つめた。

「まず……こちらが、旦那様です」

 ガラガラという、良く響く車輪の音と共に、オードリーの背後で未だ煌々と点る電球の光に、徐々に全体を写して行く、一番大きなシーツの固まり。

 それは、電球の光を跳ね返す程に磨かれた、金属の台の端から端までを埋める大きさで――その中心には赤黒い水たまりが出来、その赤が目に焼き付くと共に、オードリーは喉と口を押さえ、小さな背を折り曲げ嗚咽した。

「ッ……げほっ、ぐぅうっ……」
「っ、ドリー……っ!」

 涙より先に漏れたそれに、捲ろうと手を掛けていたシーツの端から手を離し、一歩も空いていないその距離に、すぐ側に駆け寄った。

 しかしリアンは、自分が苦しみと悲しみを堪えているような心地を覚えても、目の前で咳き込み続ける小さな身体に、手を差し伸べたりはしなかった。

 ――いや、出来なかった。死者を触ったのと同じ手で彼女を触るのが憚られたのだ。一度は見逃した死の運命が、再び彼女に擦り付けることになるような気さえして。

「……どうぞ」
「……」

 何も言わず、彼が伸ばせない己の手の代わりに静かに差し出したハンカチに顔を埋め、嗚咽と共に咳き込み続けるオードリー。

 その姿は、哀れでありながらも、生と死の狭間に在る昔の神話の女神のように毅然とし、気高くも見えた。

 ――冥界の王、ハデスさえも、愛情や執着以上の哀れみを見せ、彼女だけを死の国に連れ去らずこの場所に、リアンの手元に捨て置いたのではなどとさえ思える程に。

 だけれどリアンは、冥界の王でも、ただの医者でもない。彼女の従者であり、彼女の求めを叶えることを誓った婚約者候補である。

 ――彼が彼女に出来ることなど、たかが知れている。

「……他の二人も、引き出します。少し、このままお待ち下さい」
「……」

 彼は、顔を上げないオードリーに向かい、悲しげに一つ微笑んだ後は、また彼女に背を向けて淡々と、彼女が彼に望んだ家族との『面会』の場を整える準備へと戻った。

 己が彼女に唯一してあげられる、彼女の『願い』を叶えるという行為に従事する為に。自分が彼女の側に居る為の理由を達成せねばならないという己のエゴを満たす為に。



「奥様と……アニュゼット様です」
「……」

 断続的に響いた、カラカラと鳴る車輪の音と、リアンの淡々とした声を聞きながら、オードリーはリアンに渡されたハンカチに顔を埋めたまま、膝に肘をつき俯いていた。

 恐らく、俯かせていた顔を上げれば、そこには三つの大きさが違うシーツの固まりが三つ、オードリーに脚を向けるようにして、並べられていることだろう。
 オードリーがなるたけ不快感を覚えないようにと、色々な配慮や処置もされているかも知れない。

「――ドリー、大丈夫ですか?」

 甘く、優しさがたっぷりと含まれたリアンのその低い声。その裏には、確かに戸惑いと気遣いの気配がある。

 その戸惑いの理由は、自分の態度だとオードリーは分かっている。
 だから、今オードリーがすることは、顔を上げ、笑顔を作り「大丈夫よ、リアン」と、無邪気に彼の名を呼ぶことだ。そう、分かっている。

「……っ」

 頭ではそう分かっているが、オードリーは顔を一切上げないまま、小さくブルブルと頭を降るだけで応えた。

 嗚咽も、それによって生理的に目尻に浮かんだ涙も、一時の発作のように、起こった時と同じくらい唐突に引いて行き、もうとっくに止まっている。
 だけれど、リアンのくれたハンカチに染みた僅かな香水の匂いに集中し、目を強く閉じたまま、オードリーは顔を上げられなかった。
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