> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 9
9
 最初に引き出されたシーツの上にある、赤い沼が、何で出来たのかを聞き、そのシーツの下に居る人間が本当に父なのか、確かめなくてはいけない。

 残り二つのシーツも同様に、中がどうなっているのか、その下にあるのが見知った顔であるのかを、顔を上げ、のぞき込んで見なくてはいけないと思うのに。身体が動いてくれない。
 ここまでオードリーを連れて来てくれて、今も辛抱強く待ってくれているリアンの為にも、公爵令嬢としての自分の義務と矜持の為にも、今ここで顔を上げなければいけいと分かっているのに。

 オードリーは、自分で思っていたよりも、遙かに打ちのめされていた。
 リアンから聞いた、『背中を踏み抜かれた』という言葉の重さと、実際に自分の見た赤く光沢のある血だまりとの差異に。言葉と現実の重さの違いに。

(お母様と、アンの『怪我』は……どんな、だったかしら……)

 母は確か馬車の車輪に引きずられて頭を打ったと聞いた筈だ。そして、妹は――アニュゼットはどうだったろうか。どうにも思い出せない。
 それが、リアンに一切の詳細を聞いていないから思い出せないのか、聞いたのに思い出したくなくて思い出せないのか、さえ。

 ――引きずられ、頭を打った死体とは、一体どんな有様なのだろうか。

 人の死体は勿論のこと、オフシーズンに領地で行われる狩りでも、少女であるから参加出来ず、血抜きし捌いた後の獲物か、猟犬が咥える小動物を遠目に見るくらいのオードリーには全く想像が出来ない。

 だけれど今、想像出来ない事態が、確かに彼女の身には起こっている。
 起こっているからには、立ち向かわなくてはいけない。しかし、今のオードリーにはそれが出来ない。

 動作にすれば簡単なことだ。
 シーツを捲って、その中に居るのが他人でもなくお化けでもなく、自分の家族であると証明出来ればいい。

 なのに、腰掛ける石畳にジワジワと熱を吸い上げられたオードリーのお尻は根が生えたように動かせない。 
 行動と精神の間にこんなにも隔たりがあるのだと、今日この時までオードリーは知らなかった。

 ――思えば、目覚めてから今までの、たったの数時間の間に、知らないことばかりが起こっている。知らない事態に、知らない気持ち、知らない感情。

 その全てに、オードリーは一人で、何処か感情を麻痺させたまま、公爵令嬢として適切な道を思い描いて、流されるようにして対応してきた。

 気絶して、怪我を負い、家族の死を知り、初めて当主という立場から使用人へ命令を下し、口約束とはいえ婚約し――そして、今度は、無理を言って、こんな夜更けに生まれて初めて人間と死体と対峙し、検死の真似事をしようとしている。

 それらは『公爵令嬢』には、対応出来て当たり前の事態なのかも知れない。
 だけれど、オードリー・グレイスという、たった一人ぼっち、この先の運命も知れない、今日限りで孤児になってしまった少女に対しては、些か辛すぎる現実なのではなかろうか。

 立ち向かえなくて、当たり前なのではないだろうか。
 きっと、今の自分のような境遇の子どもが出て来る物語をアニュゼットと二人で読んでいるのだったら、繊細なアニュゼットなど、その子の行く末が心配になってご飯も喉を通らないかも知れない。

 そして、当たり前であるが、オードリーは物語の少女などではない。

 彼女は、身分以外に特筆した才能も経営能力も無い、ただの普通の少女で――これは、普通の少女なら到底経験することも無ければ対応も出来ない事態だ。

 だから――自分がどんな状況に居るか、どんな立場の人間であるか、全く知らない振りをして、逃げ出してもいいのではないだろうか。

(……!)

 そんな卑怯な気持ちが、今まで見ない振りをしていた弱音や恐怖と共に唐突に浮き上がり、オードリーの小さな胸を突いた。

(そんなの、卑怯な振る舞いだわ……子どもであることを利用して、成すべきことを……しないだなんて)

 成すべきを、顔色一つ変えずに成す。それが貴族の矜持であり、紳士淑女として取るべき態度だ。だけれど。

 そんなことは、身分も何も持たない、親と妹を亡くしたばかりの、子どもには関係ないことではないか。
 このまま顔を伏せたまま、普通の貴族の令嬢らしく、メソメソ泣いてリアンにここから連れ出して貰い、後はふかふかのベッドの中に倒れて寝かしつけて貰ってもいいのではないか。

 リアンの立身出世に利用されるでも、遠い親戚に身ぐるみを剥がされるでもしてしまって、公爵令嬢としての責任など放り投げ、誰かのよすがに縋りながら。
 家族を亡くしたただの可愛そうなオードリーとして悲劇に呑まれて泣き暮らせば。

 そうして、成人を待って親族に決められた結婚をして子を成すか、修道院で喪に伏して――女、しかも無力な少女である自分には、そんな暮らしも許されている筈だ。

 ――馬鹿で、無力で、愚かでも、許される筈だ。

「――お部屋に、戻りますか。ドリー?」

 そんな考えに陥り掛けたオードリーを現実に呼び戻したのは、皮肉にも、何とも歯切れ悪く、だけれど優しく、オードリーがいつの間にか望んでいた、この場所からの逃避を示唆したリアンの声だった。

 リアン――ドリーらと同じ黒い髪で、同じ綺麗と言われても、卵形のオードリーより怜悧で、男性的な顔の、静かなサファイアの色をした瞳の青年。
 彼女が目覚めてから今までの、たったの数時間の間。知らないことと対峙する様を見守り、その中から適切な道を選ぶのを、公爵令嬢らしく振る舞うのを、横で助けてくれた人。

 年端の行かないただの少女でしかない、公爵令嬢という身分以外に何も持って居ないオードリー・グレイスに従者として忠誠を誓い、あまつさえ、彼女の為だけにデメリットしか無い婚約を提案してくれた優しい人。

 ――そして、そんな優しい人に『婚約者のお願い』と言って縋り、こんな所に連れて来たのは。こんな深夜に死体に触れさせ、あまつさえ、こうして自分の世話までさせているのは。他でも無いオードリーだ。

(なのに、私は逃げようとした……リアンを置いて)

 ただの少女であるオードリーは、馬鹿で傀儡でしか無い公爵令嬢は、悲しみに暮れ、祈りに耽溺して社交界から忘れ去られることも、誰かの駒となることも出来るだろう。

 ――だけれど、そんな彼女の従者として、婚約者として名乗りを上げたリアンはどうなるのか。

 仕えるべき主を、手の届く範囲の場所で、理不尽な馬車の事故で奪われた挙げ句に。馬鹿で、無力で、愚かな公爵令嬢に振り回されて、親切を踏みにじられて。

 そんな幼く卑怯な子どもを受け入れたが為に、二度も主従関係を破棄されることになるだろう従者の末路は。

 きっと、優しい彼は受け入れてくれるだろう。今、彼女に掛けてくれた優しい声のように、「そうですか」というただ一言で、オードリーの選んだ道を肯定してくれるだろう。

(だけど、そんなのは、いけないわ!)

 オードリーはただの少女かも知れない。無力な、馬鹿で、愚かな。だけれど――オードリーは、リアンの主であり、仮初めとはいえ婚約者なのだ。
 彼のその献身に応え、その為に、公爵令嬢としてふさわしい振る舞いをすべきである。

 ――リアンに、軽蔑されたくない。

 少し前に感じたその気持ちと、それを感じたその時、彼によってマリアンヌに向けられた冷たい目をもう一度思い出し、オードリーは一つ、身を震わせた。

「――リアン」
「ドリー、大丈夫ですか!?」

 そして、ゆっくりと深呼吸をすると、顔を上げて、その長身を僅かに折って、自分を正面から覗き込むリアンに――まだ優しい色を湛えている優しい瞳に――自分の決断がまだ遅くなかった事に安堵しながら、その両手を彼に向かって差し出した。

「連れて行って。私を――公爵令嬢オードリー・グレイスを、みんなの『顔色』と『具合』が分かるくらい近くに」
「……宜しいのですか?」
「えぇ、だってそうでしょ? 私はここに、家族の『お見舞い』に来たのだから、顔を見なくっちゃ始まらないわ」

 だから、連れて行って欲しい、と、膝を突いたリアンの首に腕を回し、抱き上げられながらオードリーは言った。

 みんなの――三体の死体の、顔と損傷箇所が、はっきりと分かる距離に行きたいと。
piyopiyoPHP