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"死は、全ての人に平等に訪れる、復活の前の安らかな眠りである"

 その文言をオードリーが最初に聞いたのは――あるいは最初に読んだのは、何処だったろうか。

 ある日に領地の教会で開かれたミサでのお説教であったか、物心付く前に出席した誰かのお葬式での話だったか――教養として、さわりだけ教えられた神学の授業で読んだ本だったか。

 それについて、今のオードリーの見解と意見を求められたのであったら、その答えは、たった一つだけだった。

 ――それを臆面も無く言ったか、或いは書き綴った大人も、それをオードリーを始めとする子ども達に信じ込ませようという大人も。きっとみんな、主の復活の日にはラッパの音と共に棺桶の中で貪る惰眠から天使に蹴り出され、地獄の業火に焼かれる程の大嘘つきだ、と。

 寝台の傍らに置かれた椅子に座ったリアンの膝に後ろから抱き抱えられながら、オードリーの見た『安らかな眠り』に付いている筈の両親の姿は、そんな優しく美しい言葉でなど、到底表現出来ない程に凄惨だった。

 母は、その双子よりも柔らかな印象を与える、人間らしい美しさを持った顔に浮かんだ表情だけならば、それらが教える文言通り、『眠っている』と言っても通じたかも知れない。
 ただし、綺麗な顔のあちこちに泥に汚れた石畳のいつも綺麗に結っている栗色の髪の一部が血で汚れて背中まで下ろされて――オードリーらと同じ色の目を隠した瞼の上に巻かれた包帯が赤黒く変色し、その包帯の下にある、いつも父がキスを送っていた理知的な美しい額の一部が、子どもの拳一つ分、茹で卵の殻を叩いた時のように陥没していなければの話だが。

「ねぇ、リアン……ここに、赤ちゃんが、居たの?」
「えぇ」

 シーツに隠れたお腹に手を当ててみたが、そこには何の膨らみも無く、勿論、命の脈動も――人間にあるべき温度さえ、一切感じられなかった。

 父は――顔だけは痣と切り傷が少しで綺麗なものだったが、その眉間の間には深い皺が刻まれ、いつもオードリー達に向けて、緩やかな弧を描いて笑いかけていた唇は苦悶のままに時を止めて歪んでいた。

 顔が確認出来るようにリアンが胸元まで――致命傷となった、馬に踏み抜かれた傷が辛うじて見えないくらいまで――捲ったシーツの下に隠れていた身体は、それが正装であったなどと分からない程あちこちに汚れと鉤裂きが出来て、首元の、いつでも洗濯が行き届いて白かったネッカチーフとシャツにはべったりと赤黒い染みが広がっていた。

 その汚れ方から、恐らく、血を吐いたのだろうことは何となく分かった。顔が綺麗なのは、きっとリアンが拭いたのだ。
 忙しい時などたまに、剃り残した髭でザラザラとした、精悍な頬に手を伸ばそうとして、オードリーは一度、手を止める。
 腕から身を乗り出したままリアンを見上げると、こくりと小さく頷いたので、オードリーは、父に向き直り、手の平でそっと触れた。

「ゃっ……!」

 地下の温度に、冷えて震えるオードリーの小さな手の平よりも冷たいその冷たさに、思わず手を離し、また父の顔を凝視する。

 ――ただ、その頬に触っただけ。そしてそれが予想以上に冷たく、人間らしくなく、堅かっただけ。

 たったそれだけのことで、寝台の上に苦悶の表情で横たわるそれが、父ではなく、『父と同じ顔をした別の誰か」のように見えるから不思議で――そして、とてつもなく恐ろしかった。

 体温や柔らかさが在るか無いかだけで、父を父でない物のように思えてしまう自分の薄情さも。

 たったそれだけが無くなっただけ、それだけで、今まで互いに慈しみ合い、抱きしめ合っていた人とは全く別の、物になってしまう『ヒト』という生き物も。

 ――それは、オードリーが初めて体験する、生き物の死という現象だった。

「ドリー、」
「あ……」

 ふいに、オードリーを抱く腕にぎゅっと力が込められる。
 それと共に、心配そうに呼ばれた自分の名に、オードリーは初めて、自分の身体がカタカタと小刻みに震えていることに気付いた。

 腹に回されたリアンの堅い腕を思わず両手でぎゅっと掴むと、手の平に触れたその堅い皮膚と筋肉の下に、確かに命の温度と鼓動。そして生き物特有の弾力を感じて、オードリーは知らず、小さく息を吐いた。

「――リアン」
「はい」
「冷たいわ、お父様……」
「えぇ、ドリー。死体は――魂の召されたヒトは、皆、冷たいのです」
「みんな……?」
「えぇ。どんなに立派な人も、偉い人も、浮浪者も、女性も男性も――貴女より、もっと幼い子どもも」

 オードリーの旋毛に顎を寄せるようにして、頭の直ぐ上で聞かされたその声に。
 オードリーはある可能性に――もしかしたら今ここに在ったかも知れない未来に気付き戦き、リアンの腕に一層強く縋り付いた。

 その可能性に気付いた途端、心臓がぎゅっと絞られ、折角拭いて貰った背中に生ぬるい汗が噴き出し、赤い瞳孔は大きく見開かれ、呼吸は浅くなり――オードリーの心身は今、確かに強く恐怖していた。
 体温が凍ったように下がり、カタカタと歯の根が合わない程に震え、目の前が霞む程に強く。強く。オードリーは恐怖し、その心身は、頭で考えるより先に、確かに怯えていた。

 今この時までは、ただ家族のことだけで頭が一杯で、置いていかれたことへの悲壮と、これから起こる未来への不安しか無かった。

 だから――今まで忘れていられたのだ。オードリーは、その可能性を。
 オードリーも、魂を失い、体温と柔らかさを失って。身体を裂かれ、苦悶の表情のまま時を止めていたということを――人間が本能的に恐れる、死への、自己を失い、損ねることへの恐怖を。

「リアン、リアン……っ」
「ドリー?」 

 急に、縋り付くように腕に捕まって来たオードリーの様子にリアンは、その理由を促すように頭を撫でながら、俯いて、ずっと自分の父であった物を見下ろす彼女の顔を覗き込んだ。
 オードリーは、リアンを見上げ、こくり、と喉を鳴らすと、腕から身を捩り、蠍の心臓にある赤星のように凍り付き、恐怖の滲んだ目で彼を見つめ、その首もとに縋り付いた。

「ねぇリアン――私は、温かい?」
「――一体、どうしたのですか……?」
「ねぇ、ちゃんと温度がある? 冷たくない? 柔らかい?」

 縋り付き、彼の頬に、子どもらしく丸い頬を寄せたまま、震える息の合間から矢継ぎ早に耳元で囁かれたオードリーのその質問。

 それらの意図を、恐らく彼女よりも正確に理解したリアンは、瞠目し――殆ど反射的に、小動物のように震え上がるオードリーの背中を撫で、子どもらしい柔らかさを残したその身体を、強く強く抱きしめ返した。

「大丈夫、ドリーは柔らかくて、温かくて――魂のある、人の身体です」
「ほんとう? 私、あたたかい? ちゃんと、」
「えぇ、ドリー。貴女は生きています。ちゃんと、生き残った……!」

 ――あなたは生きている、私が抱きしめているのは、生きて呼吸をしているドリーだ。貴女は助かった。私は貴女を助けられた。

 だから、もう大丈夫。

 そういった言葉を震えて怯えるオードリーに何度も何度も言葉を変えて辛抱強く。
 震えて冷える小さな身体を撫でながらリアンが言い聞かせ続けると、何度目かに漸く、彼女の身体の震えは止まり、リアンの首もとに預けられていた頭は、漸く離れた。

「――落ち着き、ましたか?」

 リアンは、やっと体温と、人間らしい赤みの戻って来た柔らかな頬にまた頬を寄せ――自身も、腕の中にある、その温度と柔らかさに安心し、堪能するかのように。
 目を閉じて、深く息を吐き出すと共にそう聞いた。

「ごめんなさい……取り乱してしまって」
「大丈夫ですよドリー、死は、誰でも等しく怖い。大人でも――医者でも」
「リアンでも?」
「えぇ、いつも怖くて仕方ありません。自分の死も、親しい誰かの死も。誰かの死を見れば尚更に恐れは増して行きます。死ぬのが怖く無いのは、死なない人間だけでしょう」

 寄せられた頬に、更に頬を寄せ返しながら聞いたオードリーの質問に、リアンは苦笑を滲ませて答え、その頭を撫でた。
 オードリーはその感触を受け止めながら、赤い目をゆったりと細め、再び首もとに顔を埋めた。

「――私と、リアンは生きているわね」
「えぇ、私も貴女も生きて、ここに居ます」

 だから、何も怖くはない。少なくとも――今、は。
 怖がっても仕方ない。不老不死でも無い限り、人はいつか必ず死んでしまうのだから。

 オードリーは、リアンの言葉に、こくり、こくりと頷いては、背中を軽く叩く手の感触に、段々と恐怖が落ち着いて来るのを感じた。

 よく考えれば、死への恐怖を覚えるのも、こうやって怯える度、辛抱強く、幾度と無くリアンに慰めて貰えるのも、皆、オードリーが生きているからなのだ。

 ――過程はどうあれ、オードリーは今、生きている。
 魂が肉体に留まっているから。父や母のように、魂の抜ける程に大きな損傷を身体に受けることがなかったから。

「……でも」

 オードリーは、リアンの肩に小さな顎を乗せ、膝立ちになり、彼の後ろ――三台目の寝台に置かれた、未だに捲られていない、他の二人と違って小さな――恐らくオードリーと一インチも違わない大きさをしているのだろう――シーツの固まりをじっと見つめた。

「アニュゼットは――私と同じ身体に、私の半分の魂を持った、あの子は死んでしまった」

 視界が歪むのを、深い呼吸で誤魔化しながら、何かを探るように、分け合うように、ただ一心に。
 自分の半身が辿った死への旅路を、その魂の行方を、自分の目で見定めるかのように。
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