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――アニュゼットは、オードリーのただ一人の半身であり妹は、綺麗な顔をして眠っていた。

 今ここに、生きてリアンの手を握るオードリーと、同じ人形師の手によって作られた人形よりよほどそっくりな――いつか、誰かが二人を見て言った、『神様の定規できっちりと計って作られた』顔に、何の表情も浮かべず、静かに瞑目して。

「……アン? アニュゼット?」

 永久の眠りに落ちたアニュゼットの枕元で、生きて魂を持ち、彼女の名前を呼びながら浅い呼吸を繰り返し、血の気がない白い顔を縁取る長い黒髪を撫でる。

 そんなオードリーとは違い、アニュゼットは擦り傷一つ無い綺麗な顔で、ただ眠っていると言われても信じそうな程に穏やかで――同じ顔のオードリーから見ても、素直に綺麗な顔だと言えた。

 もし、今ここで二人並んで胸の前で腕を組み、目を閉じたなら、恐らく誰もが――顔にはいくつかの小さな傷、脇腹を始めとしたあちこちに打撲傷。震える唇からは色が失せ、青白い顔で震える――オードリーの方を魂の無い死体だと思うことだろう。

 きっと、醒めることのない眠りについているのは姉の方で、その妹は、揺り動かせば簡単に眠りから目覚めるものだと、そう信じ、本当に起こそうとする人間も居るかも知れない。

 実際、オードリー自身も、今彼女を目の前にして、見下ろしていても信じられない。散々言葉で確認し、父母の無残な遺体を見た直後だというのに。
 アニュゼットのことはこうして触れることが出来るし、やれと言われたならば、その額や赤い唇に、昔よく一緒にやったごっこ遊びのように、目覚めの口づけを送ることだって出来るかも知れない。

 または誰かに――お前の身体はこれで、お前はこの身体から抜け出た魂なのだと言われたら、オードリー自身も、それを信じてしまうかも知れない。

「――ねぇ、何でアニュゼットは死んでしまったの?」

 だから、オードリーはアニュゼットの額に掛かった髪を手櫛で撫でつけてやりながら、首を巡らせ背後のリアンを見上げ、無垢な――見る人によっては虚無を宿した――澄んだ赤い瞳を向けて、そう尋ねずにはいられなかった。

 二つ並んだ同じ顔が鏡合わせに並ぶことで、その身に触れながら、死体が上げることの出来ない声を上げることで。
 それが、ただ眠ってだけ見えるアニュゼットの死体に検死を施して、『死体』という名前を付けたリアンにとって、居心地の悪い問いかけだと自覚しながらも。

 死体と同じ顔をした人間が、その死因を尋ねる。それはまるで、死者が自分が物言わぬ身になった理由を医者に――リアンに聞いているようにも見えるだろう。
 ――ねぇ、教えて、どうして私は死んでしまったの? 何であなたは私を助けられなかったの? と。

「……身体は恐らく、旦那様が庇ったから無事だったのでしょう。だけれど、投げ出された時に、強く頭を打ったようで、心臓の音と呼吸は止まっておりました……体温も」

 澄んだ赤い瞳にじっと見上げられながら、リアンは己の言い分がどうにも言い訳じみているような気がして、目を逸らし、途中で言葉を止めた。

 オードリーが疑うのも無理は無い。

 彼女とうり二つの顔をしたもう一人の公爵令嬢、アニュゼット・グレイスは、目立った外傷も一切無く、ただその身から魂と温度、そしてその二つが作る生き物の弾力だけを無くして、それこそ眠るように動かない。

 この世界には極たまに、致命的な外傷は何一つ無いのに、強く頭を打ったり等した直後、呼吸と心臓だけがあっという間に止まり――場合によっては呼吸だけは続けて数日掛けて衰弱し――医者が検死をするか、数日が経ち腐敗しないと、死んだのだと分からない者がいる。

 それは、医者や薬師といった職業の人間であれば、立ち会うことが決して珍しくはない現象であり死に方で、医者同士では、手の施しようが無い状態である、と暗黙のうちに認められている。
 勿論、そういう死体は埋葬の後『起き上がる』ことも珍しく無いので、検死だけは念入りにやるようにというのも、実際に医者として働く人間の暗黙の了解だ。

 ――だが、目の前の、まだ幼さが残る少女はどうだろうか。

 年齢より賢くても、まだ子ども。しかも医学の知識が無いオードリーに、結果として息をしていないから死んでいる、という理屈が通じるのだろうか。

 もしも――オードリーと、彼の大事な主と同じ顔をした妹を、何の手も尽くさず見殺しにしようとしているのだと思われたのなら。
 きっと自分は耐えられないことだろうとリアンは思う。

 側溝の中からやっと見つけ出して拾い上げ、今のようにして腕に抱え込んだ体温が、呼吸が、心音が。

 彼が助けられなかった命とは違い、このまま消えて行かない確かな物だと、確信を持って言えるようになるまでの数分の間より遙かに。
 今この時、糾弾するでも悲しむでもなく、ただ見上げて来る赤い瞳に、次に浮かぶ色が何か、見当が付かない今この時でさえ、余りに辛いのだから。

「――そう」

 だけれど、リアンの言葉に、そう鷹揚に頷き返したオードリーが次に取った行動は、彼の予想とは全く違っていた。
 彼女は彼の腕の中でやにわに身を伸ばすと――ばさりと長い髪を靡かせながら、自分と全く同じ顔、同じ身体をした死体の胸に倒れ込むように左頬を当て、そのまま静かに目を閉じたのだった。

 ――そうして、アニュゼットの胸に頬を預けたまま、オードリーは、ぴくりとも動かなくなった。

「――ドリー?」
「………」

 呼びかけにも応えず、身動きもしない彼女の丸い右頬には幾筋かの黒髪が張り付き、その乱れた髪の下には、やはり身動きなど一切しない、彼女そっくりの少女が目を閉じて眠っている。

 ジ、ジッ、と時折僅かな燃焼音を立てる電球と、リアンとオードリー、どちらの物とも付かない呼吸の音以外に、音の発生しないその空間は、どちらが生者で、どちらが死者なのか、一瞬分からなくなりそうになる。

 このまま――もしこのまま、そっくりな二人がくっつき合い、この地下で、双子にしか分からないであろう静寂を分け合っている様を許容するうち、今リアンが掴んでいる筈の熱が、寝台の上の物言わぬ身体に移って行ったなら。
 助けた筈の者が、焦がれた筈の者が、入れ替わってしまったのなら。自分は一体どうなるのか。

 普段の自分なら一笑に付すだろうその戯れ言じみた発想は、だけれど、こと、彼女のことに関してだけは、どうにも妙な――だけれど逆らえない圧迫感を持って彼の身に、心にのし掛かって来る。

「ドリー、そろそろ……」

 それが明確な恐れという名の輪郭を描く直前。
 リアンはそう言って、動かないオードリーの肩を少し強めに揺さぶってみた。

 実際、彼女が己の妹に耳を押し付けてから、そう時間は経って居ないだろう。だけれど彼はその時既に、一刻も早く、彼女と彼女の妹を引き離さなければいけないような焦燥に駆られていた。

 そういった野性的な、直感的な不安は女性の――それも貴族の、不安を訴える他に自分の意向を示せない人間の専売特許だとさえ思っていたのだが。

「さぁ、これからもっと、冷えますよ……もう、帰りま――」
「……心臓、お……、ない」

 夜の冷えと、訳の分からない焦燥を振り切る為、いよいよ、その小さな肩に手を掛け、無理にでも抱き上げて外へと連れだそうとしたリアンは、ぽつりと聞こえたその声に、手を止めた。

「……ドリー?」

 彼女の顔に掛かる髪を、この短い間で馴染んだ仕草で顔から払ってやりながら、リアンは目を閉じたその顔をのぞき込み、そして彼女の顔の横に置いたままの手を止めた。
 ――彼女は、オードリーは泣いていた。顔に掛かった髪と少ない明かりで分からなかったが。

 閉じ合わせた目と長い睫の影の間から、頬を寄せたシーツに染みが出来る程に激しく、ボロボロと涙を流しながら、だけれど歯を食いしばり、嗚咽を堪えて静かに泣いていた。

 ここまで、どんな時も、目を涙で潤ませる事や、身体が受けた苦痛の反応として涙を流すことはあっても、年相応、子どもらしく、感情を吐露するかのように泣き出すことだけは絶対にしなかったオードリーは。

「リアン、心臓の音、しない……よぅ」
「……そう、ですね」

 鼓動の聞こえない妹の死体に頬を寄せ、泣いたことで一層赤さの増した赤い瞳をうっすらと開いて視線だけで見上げたリアンに髪を撫でられ、いよいよ大声を上げて泣きじゃくり始めた。
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