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12
 ずっと一緒に居られなくても、二人で年を取ろうと約束した。
 互いの死を看取ろうと約束した。

 だけれどそれは、大人になってからの話。
 その筈だったのに、あなたはもう、大人にならないんだという。

 何で私だけが大人にならなければいけないの?
 全く同じ日、同じ場所に、同じように生を受けて、それからずっと一緒に生きて来たのに。

 何で、死ぬ時は別々でなければいけないの?
 何で、死ぬまでずっと一緒ではいけないの?

 私と鏡写しのあなたは年を取らないのに、何で鏡の向こうの私だけは年を取らねばいけないの?
 私があなたと別れるなんて、あなたと私の見た目も年齢も違ってしまうだなんて。
 ――そんなことは、絶対に許されない。

 例え誰もが、私からみんなを奪った神様さえもそれを許しても。
 ――私は、私だけは絶対に許さない。

 ねぇ、あなたもそうでしょう? アニュゼット、私の半身。
 あなたがそう望んだから、私は、こうしたいと思うのよね?
 だって、私たちの意見が、心が、別れたことなんて、今まで一度もないのだから。


「……り、あん」
「――はい、ドリー」

 ――どれくらい、泣いていただろうか。

 蝋人形のように冷たい自分の半身の胸に顔を預け、一生分と呼んでも生ぬるい程の涙を流し続けたオードリーは渇いた喉を震わせて、背後で自分の背を撫でていた人の名前を呼んだ。

 ずっと口の中で顎に押し付けるようにして嗚咽を防いでいた舌は縺れ、眉間と両目に力を込めすぎたせいで頭はガンガンと痛み、アニュゼットの胸から、持ち上げることが出来ない。

 その痛みと泣きすぎたのとで焦点の合わない目でアニュゼットの細い喉から顎先に掛けての繊細な線を半目で茫と見つめながら、オードリーの頭は驚く程に冷静だった。

 ――少なくとも、自分では、冷静だと思っていた。

 散々泣いて火照った頬から喉に掛けての熱とは裏腹に、シーツをべったりと濡らして染みを作り、その下にある温度の無いアニュゼットの肌に温度を分け与えるまでに流し続けた涙によって冷やされた頭は――その胸の中にある幼い魂は。

 その小さな身が、周囲の気温に負けない程に冷え込んで、涙に暮れる最中から、オードリーにある一つの考えを啓示していた。
 あたかも、涙に暮れる彼女に、身体から離れたアニュゼットの魂が、その考えを囁き込んだように。

 ――ねぇ、ドリー、こうしましょうよ。

 と、あの無邪気な声が発するのは、いつだって、彼女の願いであり、同時に、オードリーの願いだった。
 どんな突拍子も無い発言も、くだらない悪戯も、思いつくのはアニュゼットで、止めるかどうかを決めるのはオードリーだったから。

 そして、アニュゼットに啓示されたかのような、その考えを口にするには、オードリーは良い子どもであり、賢すぎた。何時だって、その賢さと良識が、彼女達の枷であったのだ。

 だけれどその枷も、今この時、涙と一緒に溶けてしまった。
 アニュゼットを戒め、オードリーに我慢を強いる良い言葉も、堪えた嗚咽と共に喉の奥に張り付いてしまった。

 だから――滴る程に濡れて、泣きすぎて腫れたた赤い瞳はただ、幼い己の欲望だけをその瞳に写して妖しく煌めき、美しい宝石のように光る、それだけをただうっとりと見つめていた。

 手を伸ばせば届くかも知れない宝石の、そのすばらしさを――。

 オードリーは、幼い顔立ちに悦然とした頬笑みを作ると、目の前にある半身の喉から顎に掛けてを、まるで子猫の喉をくすぐるように、細い指で何度も辿った。

「……り、アン」
「はい」
「リぁ、ン」
「……はい」

 ――それでも、何処かに少しだけ残る、自分の立場を正しく理解し、良識を弁え、神の教えを敬虔とは行かずとも信じ、いつか落とされるかも知れない地獄に怯えていた善良な魂はそれを声に出すのを躊躇う。

 そうして、言葉を覚えたての子どものように、一つの単語だけを発し続け、妹の肌を名残惜しむように撫で上げながら、躊躇って、躊躇って。

 本当に口にしたい願いの代わりに、頬笑みながら無心に物言わぬ妹の喉を擽り続ける自分を正しい道に呼び戻すように抱きしめて。

 頭を撫で、神を掻き上げ、額に口づけまで落としてくれる、優しい人の名前を、何度も、何度も、呼び続けた。

 嗚咽を堪える以外に使い道の無かった喉と口が、彼の名前の正しい発音を思い出させようとするかのように。

 彼女の欲望を叶えてくれる人間が誰であるのか、それを彼は本当に成してくれるのかを、その律儀な返事の間隔と声を元に見極めようかとするかのように。

「――リアン」
「はい」

 やがて、上手く動かなかった口が流暢に彼の人の――彼女の婚約者であり従者であり、もしかすればこれから、もっと長い付き合いの運命共同体となろうとする男の――名前を呼べるようになり、指先でなぞっていた妹の喉もとに摩擦で仄かな熱が生まれる頃。

 彼女は赤い舌で唇を一つ舐め、妹だけを見つめていた頭を傾け。
 まるで夢を見ているようにうっとりと細められた赤い瞳から一筋だけ目尻に残った涙を流しながら、自分を見下ろす悲壮な色を纏った青い瞳の男を見上げ、無邪気な頬笑みを作った。

「私ね、アニュゼット――アンから離れたくないの。一生、ずっと一緒に居たいの。冥界のハデスにも、屋敷の納棺堂にも――神様にだってあげないわ。アンは私の側に、私はアンの側に居なければいけないのよ。……アンが生きてたって死んでたって、私達は今までと同じよ。二人で一生、あの屋敷で寄り添って居られればそれでいいの……ねぇ、リアン。これは冗談とかそういうのじゃないの」

 そこまでを一息に言った後、オードリーは言葉を切り、困惑に揺れる青を見上げながらクスクスと喉の奥から笑いを漏らし――そのうち、幼い子どもらしく、抱きしめられた身を捩る勢いで笑いながら、身を乗り出して腹ばいになり、アニュゼットの身体の上に重なった。

 そうして、自分と全く同じ顔をした死体に額をくっつけ、「ねぇ、そうよね、アニュゼット」と、姉妹同士仲良く内緒話をするように色の褪せた唇に吐息の掛かる位置で呟き、両手を冷たい頬に当てたまま、その蠱惑的な瞳で、じっとリアンを見上げた。

「私は――『私達』はね、あなたにそれが、出来るか出来ないかを聞いているだけのよ?」

 ――ね、どうする、リアン。
 そう続け、唇同士を合わせそうな程、顔を寄せ、まるで二人で考えた悪戯の仲間に、大人のリアンを巻き込もうとするように囁き合うように見える姉妹の様子に、リアンはまず、状況を忘れて見入り――次には、腹の底を突き上げるようにどす黒い、殆ど人間としての本能に近い、純粋な嫉妬を覚えた。

 彼は、今まで何かを欲したり羨んだりしても、自分の手に入らない物には早々見切りを付けていたし、幼い頃も年の離れた兄が上に居るせいで、何を出来なくても持っていなくても、それが当たり前であり、何かや誰かに嫉妬したことなど無かった筈なのに。

 その感情は、幼い子どもが親しい人間から仲間はずれにされたような、本来自分の物である筈の物を人に取り上げられたかのような強く、そして純粋な、冷静な彼が心から持て余すように強い感情だった。

「ねぇ、そうよね、アン。えぇ、分かっているわ」

 ――彼女は自分の物になった筈なのに、何故、お前が触れるのだ。まるで恋人のように親しげに話すのだ。

 片方は物言わぬ死体である、自分よりも遙かに幼い少女に持つ感情では無いだろう。だけれど彼は、その時、自分の内側にあるその感情を可笑しいとは微塵も思わなかった。
 ついさっきまで慰める余地もなく泣きじゃくっていた少女が、娼婦もかくやという悦の籠もった瞳で自分を見上げ笑いかけたことも、その少女と死体の妹が今、目の前で彼には分からぬ言葉で楽しげに会話していることも、全て自然と受け入れていた。

「誰が可愛い妹を、遠くになんてやるものですか」

 ――お前は、生まれてからの十年、私が彼女に出会ってから今日までの六年もの間、ずっと彼女を独占して於いて尚、彼女の心を縛ろうというのか!

 ずっと焦がれ、仮初めであっても、やっと彼の物になろうという彼女を、目の前で今度こそ奪われる。

 瞬間頭の芯を沸騰させたその怒りは、医者としての年月の習い性で、表に出さないようにと出さないようと拳を握り堪える内にやがて、如何ともしがたい焦燥へと変わり、いよいよ彼が無理矢理にでも双子を引き離すべきだと思い始めた丁度その瞬間。

「ねぇ、それでリアン。あなたは私の『お願い』を、聞いてくれるの?」

 見計らったかのように、今までアニュゼットにばかり意識を取られていたオードリーが顔を上げ、両手はアニュゼットの頬に掛けたまま、リアンの瞳を、石榴石の赤色でじっと見つめ、小首を傾げて頬笑みながらそう問いかけた。
 ――入れて欲しいと欲した遊びに、いよいよ混ぜて貰えるように頼み込もうと思った瞬間に引き入れられたなら。唯人は、一体何と返すのだろうか。

「――えぇ、出来ますよ。ドリー。ちょうど、そういう研究をしている所なのです」

 彼は――リアンはその瞬間、この後、彼と彼女の一生を賭けて行われることになる、その、良識を踏みつけて、人の死を踏みにじるような『遊び』に、その瞬間、飛び込むことを決意した。

 どちらにしろ、そんなことを出来るのは彼一人、彼女らの遊びを成就させる為に、彼女達が望む生活をさせる為に、技術と立場を尽くすことが出来るのは彼一人。

 例え大金を積まれようと、彼女らがやろうとしていることは、リアン以外にどんな人間にも出来はしない。いくら片割れが彼女を縛ろうと、いつだって、『彼女』を助けることを出来るのは、世界に彼一人、リアンだけなのだから。
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