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 その年、よく晴れた五月の中頃――。
 グレイス公爵とその妻、グレイス夫人、そしてその娘の一人であるアニュゼットの三人の葬儀は、グレイス公爵家の領地内にあるカントリーハウスにて、唯一遺された幼い公爵令嬢オードリー・グレイスの主催でしめやかに営まれた。

 主催である令嬢がまだ後見の必要な未成年であることもあり、葬儀は、新聞で大々的に告知することもなく近隣の貴族と親族だけを呼んだ規模の小さな物であった。

 にも関わらず、その日、グレイス家の治める領地の領民は全て喪に伏し、前日の雨を受けて若草色に光るクローバーが一面に生え、種類も色も様々な見事な薔薇に彩られたカントリーハウスの庭には、黒い波が押し寄せるようにひっそりと、沢山の人が集まっていた。

 重厚で、グレイス家と縁のある、、狼の顔を象ったドアノッカーの取り付けられた両開きの扉と白い二段の階段の玄関ポーチの前に用意された白い布が掛かった台には光沢ある黒塗りの蓋が閉じた三台の棺が並べられている。

 人々は、それぞれ大きさの違う棺――特に、一つだけ小さな主催である令嬢の双子の妹の棺の哀れさ――にハンカチでも拭い切れない程に涙しながら、その前に用意された献花台に各々、入り口で手渡された花を捧げていた。

「二ヶ月の間床に伏し、病み疲れて亡くなったという、邸の入り口で我々を迎え入れてくれた令嬢とうり二つ、可憐な顔をした少女の死体は。その死は、どれ程に儚くもの悲しいことだろうか」

 ――誰ともなく、そう囁き合いながら。

 入り口で主催の少女が直々に渡した、この邸の庭で咲いたという初夏の日を照り返す白い薔薇が、本来入れられるべき棺の中ではなく、その前の献花台にのみ置かれて行くその理由を。

 本来ならば別れの抱擁やキスを受ける為に、人々に向けて開け放されているべきである三台の棺の蓋がしっかりと留められているその理由を。
 ここに招かれ、彼らを見送ることを許された、親交、または身分のある賢明な客人は皆、等しく理解していた。

 ――例え、根も葉も無い噂や、状況から読み取った多少の脚色や憶測、または醜聞を交えながらであったとしても。

 緑に広がった黒の中で知人を見つけては涙を拭く為のハンカチで、目元だけでなく内緒話をする口元までを覆って、レースの帽子や薔薇の作る茂みの影で、まことしやかに囁き続ける程度には、彼らは皆、『事情通』であった。

「二ヶ月前に馬車の事故に遭い、打ち所が悪かった上に傷が化膿して今まで寝込んでいたのですってね」
「余りに酷い状態だから使用人に見られることも良しとせず、看護は令嬢と彼女が雇った医者だけが行っていたそうだよ」
「アニュゼット嬢などは、生きながらその身が腐って行くのに耐えられず、毎夜狂ったように泣き叫んでいたと使用人に聞いたよ」
「あら、わたくしは皆、意識の無い状態で心臓だけが動き続ける生ける屍のようだったとも……」
「夜中に起きた行儀見習いの子が、汚れた包帯の入った変な臭いのする盥を抱えた医者を見たとか」
「まさか! ……よくもまぁ、そんな怪我の世話を二ヶ月も」
「――どちらにしても、オードリー様は気の毒なことであるね」
「えぇ、全く」

 そして今回の葬儀の主催にして、先週無事に満十三歳となり、家族の看護を手伝い死を看取るその過程で、献身的に助力してくれた医師と互いに恋情を抱き婚約したグレイス公爵の忘れ形見。

 公爵令嬢オードリー・グレイスは、父と学生時代から懇意にしていた友人だという男性とにこやかに握手を交わしながら、頭の片隅の冷ややかな部分でそのうわさ話に耳を傾けていた。

「――余り、気にしてはいけないよドリー。君の、いや、君ら二人の献身は、あいつ……君のお父上や、君達と懇意にしていた人間にはしっかりと伝わっているからね」
「えぇ……ありがとうござます、パトリック伯」
「君も……どうかこの哀れな令嬢を変わらず支えてあげておくれ、リアン・レオニス君」
「えぇ、勿論です伯爵」
「ふふっ、これは心強い。良い婚約者を得たね、ドリー」

 どうやら彼らの囁く噂は彼にも聞こえていたらしく、パトリック伯はオードリーの肩口など簡単に覆ってしまえるグローブのように大きな手で彼女の背中を優しく叩くと、傍らに立つリアンに目を遣り快活に笑ってその場を後にした。

 その、幼い頃はアニュゼットと喜んで抱きついた、まるで熊が正装をしたようなずんぐりした背が消えて行くと、オードリーは小さな溜息を吐いて、傍らで彼女の腰を抱いてエスコートする男を、小首を傾げながら見上げた。

「ねぇ良い婚約者様、うちの邸から余所に噂を振りまいたのは誰かしら?」
「さぁ。伯爵の言う通り、どうでもいいことではありませんか」
「それもそうね、みんな、家に帰しちゃったもの」

 あっさりとそう言ったオードリーは、自分を見下ろすリアンににっこりと笑うと、自分の腰に当てられた腕から逃れ、彼に向き合って、腰元に甘えるようにすりよって正面からその青い瞳を見上げて頬笑んだ。

 四人家族だったものが、オードリーとリアンの、たった二人になったのだ。

 最低限、家を維持出来れば、身の回りの世話をする使用人はそう沢山必要無いと、この二ヶ月の間に幾人か、昔から仕えている使用人だけを残し――特に噂好きで年が若く低くても爵位持ちの実家から来ているような少女らは――みんな暇を出していた。

 思い出の残った邸に残るのが辛いという母付きだった若く優秀な侍女も――前回のシーズンで、偶然、結婚が決まった家庭教師マリアンヌも。

「今考えるべきは、これからの『三人での』生活と、お父様とお母様に捧げるスピーチの内容よね――ねぇリアン、約束通り……」
「えぇ、ドリー。全て済みました。今晩にでも『面会』は可能ですよ」
「まぁっ、そうなのね!」

 にこやかに笑ったリアンに対して手を打ち鳴らして、余所から余り分からないよう小さく――それでもリアンだけが覗き見られるその石榴石色の瞳の中に隠し切れない喜色を滲ませたオードリーは、だが、次には俯いて、控えめにリアンの服の裾を引いた。

「どうしましたか、ドリー? 何か心配事でも?」
「……ねぇ、リアン、馬鹿なことを聞いてるとは分かっているんだけれどね……」
「はい」
「……二ヶ月ぶりに会ったら、『あの子』と私が違ってしまってたなんてこと、無いかしら……」

 おずおずと顔を上げ、不安そうに――だけれど羞恥に顔を赤らめて聞いて来る、少女の可愛らしさに思わず緩みそうになった口元に目ざとく気付いた少女の頬が、余計赤い色を増し。
 笑われたと思ったのか、僅かに口を開いて何かを言おうとして絶句する。

「酷いわリアン! 何も笑わなくてもいいじゃない!!」
「い、いえ、決してドリーを馬鹿にした訳じゃないのですが……」

 その様子を一頻り眺めた彼は、「すみません、ドリー」と声を掛けながら、彼女が滅多に着ない黒のドレスから覗く白い二の腕を軽く撫でながら弁明する。

「久しぶりに誰かと会おうと思えば、誰でも不安になるものですよ――特に貴女方の年齢ですと、たった一ヶ月が一年のように感じられるくらい目覚ましい成長をしますしね」
「や、やっぱり変わってしまったの私っ!」

 先ほどまで赤かった顔を青くして、次には不安そうに眉を顰めたオードリーの変化を一頻り愉しみながら、リアンはその頬に手を伸ばして手の平で包み込むようにして上向かせた。

「ドリー、大丈夫。貴女は初めて会った時から何一つ変わらない。高貴で、美しく、貴族の矜持とそれに見合う強さを持った立派なレディです」

 その一言と、額に落とされた口づけに、オードリーは破顔して彼の首筋に抱きついた。
 そんなオードリーを、リアンは愛しい者を見る目つきで見つめ、礼服が汚れるのも厭わずに新緑の上に膝を突いて抱きしめ返す。
 互いには互いしか居ないということを確かめ合うように。

 ――この婚約に於いて、優位なのは、リアンを選んだのは、あくまでオードリーの方であり、政略結婚ではなく、互いに愛し合った末の婚約であると知らしめ、つい先ほどまで二人の話していた会話の意味を悟られないように。

「ねぇリアン、私、泣かないように一生懸命さよならを言うわ!」

 ――尤も、己のその認識自体が後から付け足した建前で、少なくとも自分は心からリアンに甘えてしまっている、ということに、オードリーは何処かで気づいていたが。
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