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この話のモデルに使われている薬は本来かなりの劇薬なので、皆さんは素手で触れたり直接臭いをかいだりしないで下さい。

このお話はあくまでフィクションであり、書き手に理系的センスはありません。
「……皆様には、いよいよ明日亡くなって頂こうかと思います」
「……そう、なら葬儀は明明後日かしら」
「新聞に、死亡広告を載せてからですから……それくらいでしょうか」

 葬儀から数日前――。
 淡々と、葬儀の手順について話すオードリーは一切の涙を見せず、いつものようにランプを携えて、淡々と準備をするリアンを見ていた。

 彼の助手として、明かりや器具を用意するのは、オードリーがこの事案に対し、なんとか勝ち取った唯一の手伝いであり、実質領地経営もリアンに任せながら学習中の彼女の、唯一といっていい仕事であった。

 といっても、「ガラスが割れ、気化したアルコールに引火したら大変なことになる」と何度も脅されているから、池に殆ど腰まで浸かるようにして作業しているリアンからは少し離れた岸から精一杯両手を掲げるくらいだが。

 散々駄々をこね、その仕事を与えられた最初の日、「つまり池の中に貴女がランプを投げ込んだのなら、その時は全てを終わりに出来るのですよ」と見惚れるような笑顔で言った時、オードリーは彼が優しそうに見えて実は少し意地悪だということを知った。

「ドリー、こちらに明かりを下さい」
「はい」

 その時のことを思い出して、岸に座り込んだままややふくれっ面を作ったオードリーは、リアンのその合図にあわてて立ち上がり、落とさないように持ち手を両手で掴んだランプを背一杯水面に向かって差し出した。

 ランプの下、照らし出されたのは壁に沿った側面と楕円形の岸を持つ、地下室の殆どを埋める幅がある、グレイス公爵邸の地下に作り付けられた人口の池であった。

 オードリーなら胸まで浸かってしまうそこは、先々代までは、壁に作られた狼の顔をしたエンブレムの口から水が出るように地下水を汲み上げて、池に貯めて生活用水として使っていたと聞いたことがある。

 その時の名残で、この池に続く階段のすぐ横には洗濯室とボイラー室がある。なので、今のような夜深い時間にしか訪れることは出来ず、部屋の上部、地上に面している明かり取りの窓は殆ど意味を成さない。

 毎朝ここから水を汲み上げて階段を上り、家のあちこちにある水瓶に水を満たして行くのが勤めたばかりのメイドの日課だったと、幼い頃、ナースメイドだった女性に聞いた覚えがあった。

 もしも今もここに水が満ちていて、上部にある窓からの光と空の色、または月明かりと星明かりをその水面に写したならば、きっとアニュゼットが喜ぶような幻想的な眺めだったろう。

「枯れた落ちて頭などを打っては大変ですし、一人で這い上がれなくなるかも知れませんから、決して中には入らないようになさって下さい」

 そう言われて、常に使用人が入り口近くを歩いているような、いわば当主しか知らないような部屋を、何故リアンが知っていたのかは分からないが、現在その部屋はリアンの研究室として明け渡され、毎晩ここでアニュゼットの『看病』を手伝うリアンの手伝いをするのがオードリーの今日までの日課となっていた。

 そうして、この二ヶ月の間、そうした日課を淡々とこなすことによって、オードリーの悲しみは少しずつ麻痺して行き、今のようにリアンと家族の話や――この、死体の無い葬儀の打ち合わせまでが出来るまでに回復していた。
 尤も――誰か別の人間が見たのなら、麻痺していた、と表現するのかもしれないが。

 グレイス公爵家の納骨堂は、領地で一番大きい教会ではなく、カントリーハウスの敷地内にあった。

 成果貴族ではなく、血統での公爵であるグレイス公爵家は昔からの由緒正しいカントリーハウスらしく、邸と同じ敷地の中に、使用人の家、果ては彼らが礼拝する為の小さな教会、墓地までが揃っていて、屋敷の後ろには狩りを楽しむことの出来る森が広がっている程に広大だ。

 だけれど、実際に使っているのは邸の建物とその前にある緩やかな丘になって毛織物や酪農農家の放牧場となっている草原と面した庭だけで、納骨堂にも命日や葬儀でもなければ身内が赴くこともない。

 ――だからこそ、グレイス公爵と、公爵夫人の死体は、領地に帰り付いたその日の夜に、ひそやかに納骨堂への仕舞われた。

 雨の降る中、信頼の置ける使用人に運ばせる棺桶が、平地にぽつりと建てられた納骨堂の奥に消えて行く光景を、レースの付いた帽子と使用人に怪しまれない程度に落ち着いた色合いである茶色のドレスを身につけ、レースの帽子で顔を覆ったオードリーは、傘をさすリアンに凭れながら、涙をためた目で見送った。

 その後、一人ぼっち、納骨堂には運ばれず自室に寝かされ、シーツに包まれたアニュゼットを抱えたリアンの腰に縋り付くようにして訪れた地下室。

 昼間はリアンと彼直属の使用人だけが入り、何かをしていたそこには、昼間のうちにリアンの研究や治療の道具、材料が持ち込まれ、枯れていた筈の池は水を湛えて水面を揺らめかせていた。

 ただし、青く澄んだ、今にも噛み付こうと牙を剥き出す狼の口から漏れる清浄な水ではなく、つんと刺激臭を漂わせる、嗅いでいるだけで頭がクラクラとしてくる程の臭気を漂わせる茶色の液体で。

「ねぇリアン、これはなぁに? お水じゃないわよね?」
「以前にお見せした、蒸留酒に特殊な金属の粉を少しだけ溶かし込んだ物です」

 そうして彼は、とまどうオードリーにそう言うと、雨に濡れた軽装のまま、アニュゼットを両腕に抱えたまま、躊躇なくざぶざぶと自分の腰まであるその茶色の液体の中に歩いて行って、そしてオードリーを振り返りながら、一糸まとわぬアニュゼットを液体に落としながらオードリーを見上げて、アニュゼットの髪を手のひらで丁寧に抄き、その水の中にそっと落とし込みながら微笑んだ。

「よく覚えておいでなさい、ドリー。貴女の願いを叶えるのは、誰でもなく、何時だって私だということを」

 まるで全てが成就したように満ち足りた、思わず見惚れ、なのに悲しくなるような、美しい顔で。
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