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「――ドリー?」
「あぁ、ごめんなさい、リアン」

 呼びかけに、オードリーは水面に掲げていたランプを離れた場所に下ろし、傍らの台にあるタオルと着替え、そして水で満たした重たい桶をどうにか引き寄せて、岸に上がろうとするリアンに差し出し、背中を向けた。

「ありがとうございます」

 背後でリアンの着替える気配を感じながら、オードリーはその間、彼に背を向けたまま、研究所を見回して過ごす。

 最初の時、軽装で池に入ったリアンは、あの日以来、何処かで仕入れた漁師の使うような胸辺りまである長靴や、目を覆うゴーグルなどを用意し、一々完全防備の姿に着替えてから池に入るようになっていた。
 池から上がった後は、桶に汲んでいる水で手足をよく洗い、更に道具も洗浄して、着替える。

 そうして同時に、オードリーにもゴーグルと、これもまた、何処からか調達したガスマスクの着用を命じ、どうやっているのかは分からないが、空気を入れ換える為の天窓も、夜間だけは開けるようになった。
 開けて、独特の臭気が薄まった頃を見計らい、リアンはオードリーを呼ぶのだ。

 理由を聞けば、実験段階の薬で、アニュゼットの状態を見ながら濃度を少しずつ変えている為、いつ毒性を発揮するか分からないからという答えが返って来た。

 勿論、オードリーが池に触ることも、池の中に沈むアニュゼットに触れようと手を伸ばすことも禁止している。

 といっても、日々濃度を増す琥珀のような色をした液体はランプの光くらいではその底を見せることなどなく、オードリーには池の底で包帯に巻かれた物体が固定されてるということしか分からない。

 ただ毎日、リアンだけが池まで入り、彼女に何かしらの処置を施している。わざわざ、オードリーから見えないように背中を向けて。
 ――まるで、夜だけの恋人との逢瀬を楽しむように。

「……ドリー?」
「きゃっ!」

 ふと頭に浮かんだ想像を振り払うように頭を振うように頭を振った時。リアンに上から怪訝な顔でのぞき込まれ、オードリーはその想像が自分に与えた物が何であるかを理解するより先に顔を上げた。

 なので――今、自分が物言わぬ妹と、己の婚約者に感じた物が何だったのかをちゃんと理解することが出来なかった。

 ――ここで理解していれば、次のリアンの質問への答えは、この先の運命は変わっていたかも知れないのに。

「それで、何の話でしたっけ」
「宜しいのですか、と聞いたのです」

 恐らく先ほどから着替えながら話しかけていたのを、オードリーが聞いていなかったから心配したのだろう。
 この場所に充満する、強い薬の臭いはアルコールの臭気と相俟って、どうにも頭をぼうっとさせる。リアンはどうやら、その中毒症状がオードリーに出ないかどうかをとても心配しているらしい。

 毎回、こうやって実験室を訪れた後には、アニュゼットが療養している『ことになっている』、共通の寝室でオードリーに診察を行う。
 それだけ強い薬なら、リアンにだって何かしらの後遺症が出るのではないかと思うのだが――オードリーは結局、それを聞けないままにこの二ヶ月を過ごしている。

 とかく、これ以上リアンに心労を掛けない為に、オードリーはつとめて無邪気な笑みを作り、「すみません、少しだけぼうっとしていました」と続け、こちらが苦しくなる程に眉根を寄せたリアンが、何かを言う前に続いて口を開いた。

「えぇと、葬儀ですか? それはリアン様らに任せると…」
「いいえ、そうではなくて」

 やはり全然聞いていなかった、と、大げさにため息を付いて、だけれどそう言いながらも細められた青い目に宿る色が凪いだ海のように優しかったから、リアンが新しい絹の手袋ごしにオードリーの頭を撫でながら、言ったその言葉の意味を彼女は一瞬、正しく理解できなかった。

「――このまま本当に、私との婚約を公にして、アニュゼット様をここに留めても、宜しいのですかと。私はそう聞いたのです」
「えっ……」

 いや、正しく理解出来ていたのに、理解したくなかったのかも知れない。
 何時かと同じく、理解したくなかったというだけで。
 その証拠に、オードリーは、その一言に呆然としながらも、微笑んで自分の頭を撫でる彼を見上げていた視線を――正しく、床に置いたままになっているランプへと定めたのだから。

『つまり池の中に貴女がランプを投げ込んだのなら、その時は全てを終わりに出来るのですよ』

 リアンが何時だか言っていた、冗談交じりのその言葉をオードリーの心は、しっかりと覚え、冗談の中に混じった本当の意味を理解した上で、いつも頭の中で繰り返していた。
 本当にこれでいいのか、後悔をしないのか――自分には、アニュゼットを守り続ける力があるのか。

 ――教義によると、死体は、いつか来る審判の日に棺から起き上がり、神の裁きを受け、永遠の命を得るのだという。
 ――そうやって一度、神様の元に返さねばいけない妹を、果たして自分は、公爵令嬢という立場だけで自分の元に縛り付けておけるのであろうか。
 ――妹の死体を人形のように手元に置くのは、ただの子どもじみた独占欲ではないのか。
 ――その独占欲に、人を、リアンを巻き込むのは本当に正しい選択だったのだろうか。

「……何を言ってるの、リアン。私はリアンとアンと私で、三人仲良く生きていけたならそれでいいの」
「そうですか……ならば、そのように手配しましょう」

 だけれど、オードリーは努めて冷静に、そう言って首を傾げ、立ち上がった。
 リアンも、アニュゼットから解いた包帯をいつものように盥に入れ、それを抱えて立ち上がり――薬液に満たされた池に一人沈み続ける少女に、僅かばかり目を向けた。

「私は――終われるのなら、貴女の手によって終わりたい。罪人は、私だけなのですから」

 その言葉に、先を行くオードリーは気づかなかった。
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