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「――皆様どうか、わたくしの、気高い紳士であった父と、その父を支え続けた優しい母。そして、いつもその陽気さと機知に富んだ話題でわたくしたちを愉しませてくれた、小さな妹のことを覚えていて下さい。そしてどうか、祈って下さい。わたくしの知る唯一に善良なる彼らと、いつか審判の後に楽園で再会出来ることを」

 一際大きく響いた声にリアンが顔を上げると、オードリーは丁度、式の最後のスピーチを終え、執事に手を引かれながら用意された壇上を降りる所であった。

 拍手と涙に見送られた彼女は、次にスピーチを行う公爵の友人に、擦れ違う際に軽く淑女の礼を取り、その他の弔問客の群れの中へとしずしずと歩いて行く。

 椅子など用意せず献花と、彼女らが洗礼から世話になっている老神父による祈りの言葉、そして喪主であるオードリーを始めとし、寄付や献花という形で尽力してくれた人々が順に別れのスピーチを行う。

 オードリーたっての希望で、そんな極力まで簡略化した式は、申告されない限り椅子など一切なく、弔問客は皆、家と向かい合うように芝生に立っている。

 五月の優しい太陽の下、黒を基準とした地味な礼服に身を包み、顔を覆う人々の間に於いても、その中に混ざったオードリーは美しく、そしてはっきりと人を引きつけていた。
 公爵と個人的な付き合いのある人間以外は、ほぼ初めて見るだろう、噂だけは聞こえていた美貌の公爵令嬢。

 それが、今回の家族の死を切っ掛けとして公の場に出て、しかも葬儀の数日前に自分より十も上の侯爵家次男と婚約、しかも婚約を理由に彼を正式な後見人に指名となれば、それも仕方ないことであろう。

 人を見る目があって立派な紳士であった公爵とはコネクションを作れなかった人間も、婚約者があっても未成年の少女ならば御しやすいと思うだろう。
 更には――十歳も上の男と婚約するような、しかも数年後の目覚ましい成長が本人の資質的にも血統的にも証明されている美しい少女とくれば、あわよくば彼女の婚約者より年が近い自分が、または自分の息子が、と思う人間も多いだろう。

 現に、オードリーを囲んで先ほどのスピーチの感想を言い、握手を求めたり何かの約束を求めたりしているのは、オードリーと年の変わらない息子を連れた男だったり、兄に付き添われた幼い少女だったりする。

 仮初めとはいえ婚約者が異性を始めとし、大勢の人間に囲まれていたら、本来良い気はしないのだろうが――無理も無いことだ、とリアンはそれを、人垣から離れ、静観することにした。

「――おや、随分余裕だね、婚約者殿」

 その時、背後から掛かった声と肩に置かれた手に、リアンはわざとらしい程に怜悧な無表情になり、その手を丁寧に解いて、捕まれた肩を軽く振り払いながら振り返った。

「あなたこそ、いいんですか? 確か彼女と年の近い息子が居たでしょう」

 振り払われた――撫でつけた黒髪に髭とやや日焼けた肌、精悍な顔立ちをした男――は、リアンの無礼を気にした風でもなく、目の端にうっすらと皺を見せながら目を細めて頬笑んで、手を挙げて答えた。

「あぁ、確かにうちの息子は君よりも優秀だが……生憎、今は寄宿学校に通っていてね」
「それは良かった。叔父が甥に婚約者を取られたとなっては面目が立ちませんからね」
「いやいや、そう気にすることはない! 君は俺の息子の次くらいにはいい男だよ」
「……またまた、ご冗談を」

 手を払われた男は、リアンの冷ややかな視線や言葉を一切気にする様子もなく、特に許可を貰わないまま、半歩後ろから彼の横に回り、今度は彼の肩を抱いて引き寄せようとして。
 また、一本一本の指先を肩から外すようにして至極丁寧な手順でもって、その手を払われた。

「貴方が一番いい男だと思っているのはご自分ではありませんか」
「あぁ、バレたか……やはり君は優秀な弟だよ――おっと」

 そう言い、今度こそ軽くリアンの肩を叩くことに成功し、振り払われる前に両手を挙げて逃れた男はいつもの飄々とした笑いを浮かべながら肩を竦め、上着の内ポケットから煙草とマッチを取り出した。
 その姿に、リアンは初めてはっきりとその顔一杯に不愉快を浮かべ、秀麗な眉を顰めて男を見た。

「レオニス侯爵、こういった席で煙草とは如何な物でしょうか?」
「なに、お前も吸うかね? それとも、煙草は初めてかい? いい年をしてお子様だね」
「……医者としては、吸わなくて済むなら子どものままで結構です」
「本当に君は……医者より修道委員長の方がお似合いだったのではないかね? 全く、グレイスのお姫様も可愛そうに。これじゃ修道院の方がマシだったかもしれんな」
「……兄上こそ、その人を食ったような物言い、お変わりないようで何よりです」
「いやだね、君のような骨と皮ばかりで抹香臭い青年を食べなきゃいけない程、危うい領地経営など僕はしていないつもりだけどね」

 数年ぶりに再会したというのに、相変わらずの飄々とした憎まれ口と共に、マッチで火を付けた煙草を深く吸い出した兄――現レオニス侯爵の様子に、今度がリアンが肩を竦め、やがて、兄の頬に固定していた視線を、再び人垣の中のオードリーに向けた。

 侯爵は、その様に呆れの混じった溜息と共に煙を吐き出し、リアンが見ていないのをいいことに、わざと大げさに肩を竦めてみせた。
 いくら年端の行かない子どもだからいっても、そんなに見つめていなくたって大丈夫だろう。君の視線で溶けてしまいそうだ、などという軽口を飲み込んで。

「ねぇ、君、君は僕に興味が無いのかい?」

 代わりにそう言って、彼の肩にまた手を掛けようとして――今度は止めて、代わりに軽く拳で背中を叩いた。
 リアンは、何も言わずに叩かれてくれた代わりに、今度は侯爵に顔を向けず、青い目の視線だけを動かしてよこした。

「……レオニス侯爵家は安定しているから、グレイス公爵家との婚姻の必要は無い、ということを言いに来たのでは?」
「全く、君は少しも変わらない」

 先ほどの、息子とオードリー・グレイスの婚姻のことを言っているのだというのはすぐに分かった。故に、侯爵は苦笑を禁じ得ない。

 確かに、グレイス公爵家の領地に一番近く身分が釣り合い、しかも令嬢と年の近い男児が居るのはレオニス侯爵家だけだ。
 なので、レオニス家の嫡男が婚約者として名乗りを上げないのならば、リアンの十歳差という年齢もそう大きなネックにはならない――少ない情報からそんなことを読み取る癖に。

「素直に、兄が弟の婚約を祝福しに来たとは考えないのかい?」
「――または、私が居なくても領地も侯爵家も、順調に回っているから心配するなと?」
「……」

 そう皮肉げに唇をつり上げてから、リアンは珍しく、少し言いすぎただろうかと、年の離れたこの兄の顔を見遣った。
 彼の奥方に頼まれたのとで、グレイス公爵への連絡のついでに、この兄とも定期的に手紙のやり取りをしているが、こうして実際に会うのは五年ぶりくらいだった。

 なので、どうにも加減が思い出せなかった。
 昔から口の減らない兄との舌鋒は当たり前の儀式だったが――よく考えれば今のリアンが、リアンが親しんでいた兄くらいの年齢なのだ。

 人間、年を取ると少しくらいはしおらしくなるかも知れない。

「ふふっ、そうだよ。領地は安定、私には美しく思慮深い妻と立派な息子も娘も居て、後継者にも問題はない――だから、君は医者でも、法的に合法でも傍目に違法な婚約でも、好きに結べばいい」
「――言われなくても、そうしますよ」

 しかし、リアンの向き合った彼は、人好きのする――実際の中身は置いておいて持ち前の美貌が崩れることでどこか親しみを覚えさせる――笑顔を浮かべ、最後に会った少年らしさの残った面影から大分様変わりしたリアンを見遣った。

 まるで、丹精込めた植物か何かの成長を心から慈しむようにして。
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