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 リアンの八つ上のこの兄は、リアンにとっては兄というより、父のような間柄であった。
 父が兄を教育し、その兄がどういう訳か、自分が正式に後を継ぐ年齢になってから、リアンを構いたがったのだ。

 彼が生まれた時には既に、彼が家督を継ぐことが決まっていたので、リアンは教師やナースメイドの世話になっている間は、比較敵自由に育てられた。

 ――いや、正式にはそう育てられた筈なのだが、何故かこの兄はソレを良しとせず、リアンを鍛えるという名目で、家の中で学問をしている方が好きな性質である彼に色々なことを教え込んだのだ。

 当時の家庭教師に言わせたならば、恐らく「吹き込んだ」とか「落とし込んだ」とか「引きずり込んだ」とか言われそうなことばかりを。

 その内容は、彼が学校に行き、やがて社交界に出る頃になると余計に酷くなり、彼は年端の行かないリアンに悪い遊びや、今のようなにこやかな中にも棘があるような議論や嫌みの応酬を要求するようになった。

 リアンが医者になることを決意した頃の彼の口癖といえば「この世で堕落していない者は、堕落した者によってやがて地獄に突き落とされる」などという、何処かの詩人に影響された、物騒であり斜に構えた、貴族の子女として許されない物だった。

 それが、リアンの、貴族らしからぬ善良さをおもんばかってのことだということは、賢い彼には分かっていたのだが――社交の場に出ることなどまず無い自分に、そういった俗悪な物を教える兄を、ちょうど反抗期に差し掛かったリアンは煙たがるようになった。

 ――そして後に、リアンは彼のその破天荒な性格に心の底から感謝をすることになる。

 医者になりたいと言った彼を、「なら資金を調達せねば」と言って、あの日、突然グレイス公爵の家へと連れて行ったのは、他でもなく、彼を自分の息子のように教育した兄だったのだから。

 手紙一つでアポイントを取り付けた彼が、何処に行くのかも言わないまま、気が変わらぬうちにとグレイス公爵家の引っ張って行かれなければ。

 事情が飲み込めないまま、グレイス公爵の前に引き出され、本題に入るどころか挨拶もそこそこに、兄の采配で公爵の娘達を庭に呼びに行かされなければ。

 兄が「聖職者のように潔癖」と評して、口では医者になりたいといいつつも。
 医者という職業が出来る前の幼いうちは、きっとそうなるだろうと思って欲望というものに極力縁の無い生活を送っていたリアンが、あの薔薇が咲く丘の上で、自分の欲しい"者"を見つけることなど出来る筈もなかったのだから。

 自分を見て、見開かれた大きな赤い瞳、ウサギのように頼りなく華奢な身体、今日のように温かな日差しの中で、背中を流れる艶々とした黒い髪。緊張の面持ちと共に差し出された柔らかそうな手の平の温かさ。

 ――それらを、どんな手段を使ってでも、誰にも渡したくなんて無いと思えたからこそ、彼は今まで、今日まで横道に逸れずにやってこれたのだから。

 勿論、それが無理であることも同時に分かっていた。だけれど、それでも、見守りたかった。自分が初めて焦がれた者の、美しい者のその行く末を。 

 だけれど――彼は今、最初に思い描いていたよりも悲惨で不本意な状態ながら、自分で思い描いていたよりももっと近く、少なくともあと三年以上は彼女を自分の物に出来る場所に来ることが出来た。

 ――皮肉にも、あの日、初めて欲しいと思った"者"を、彼の目の前で易々と奪い去った、彼女の半身、彼女の最も愛する双子の妹の気まぐれによって。

 もしかしたら彼女は、彼に気まぐれに彼に与えた美しい彼女を、その美しさが満ち満ちたその瞬間にまた奪い去る為に、彼が彼女の側に仕えるのを許したのかも知れない。

 全ては彼女の気まぐれで、幼い少女特有の遊技――例えば、子どもが自分の宝物を別の子どもに存分に見せつけてから取り上げる、そんな遊びなのかも知れない。

 人と人が長い時間や執着で引き合う力より、一つの腹で生まれる前から共に在る半身同士の絆の方が強いのだと、彼に証明してみせたいだけかも知れない。

 それでも――彼は、リアンは、そこから、その挑戦から逃げる気などは無かった。
 いくら目の前にちらつかせられたからと、手に入らない物に手を伸ばす滑稽さは、生まれとしても職業としても、彼はよく知っている――実際、伸ばした手から掴もうとした命が散ったからこそ、彼と彼女の今の関係はあるのだ――けれど、それでも。

 ――少なくとも今、彼女に一番近く、そして彼女の秘密と、その命の半分である娘を握っているのも、彼女の願いを叶えるのも、自分だけなのだ。

 彼にとっての彼女程ではなくとも、彼女にとっての彼は、必要とされ、求められる人間である。
 そして――求められなくなったその時には、彼女の罪を引き受けて、『彼女』諸共その口を永遠に噤む覚悟もある。

「――しかし、こうやって見ると君同様、暫く見ない間に益々美しくなったね、君の婚約者殿は」
「……」

 いつの間にか俯き、思案に耽っていたリアンの憂いを払ったのは、二本目の煙草に火を付けながら、心底感嘆したという風に溜息を付いた兄の溜息と、その視線の先で、老貴婦人と歓談するオードリーの姿だった。

 艶やかに波打つ黒髪も、五月の緑に映える白い細面も、楽しげに細められた赤い瞳に弧を描く赤い唇も――最初に見た頃より大分大人びた表情を作るようになったのだと、この二ヶ月の間に知ったけれど――初めて出会った時と何ら変わらず、絶妙な配置でそこにある。

 あの時と同じ光の下で、けれどもあの時の無邪気で無防備な様よりも淑女然とした、三年後、何処に出しても恥ずかしく無い程に立派に成長するだろうことは誰にも明らかな。
 だけれど――リアンだけは知っている。

「……益々、何で君なんかと恋仲になったのか不思議になるよ。大人の魅力で落としたかい? それとも、何か弱みを握ったとか」
「まさか! 私達は純粋に愛し合っていますよ。今は婚約しか出来ませんが」
「どうだか」

 兄が指摘したことは間違ってはいない。だけれど、リアンは言う必要は感じていない。
 彼が『弱み』と呼ぶそれこそが、若い頃の彼が兄として父の代わりとして、善良で詰まらない人間であったリアンに、より人間らしい感情として求め続けた物を、リアンに与えたのだということを。

「で? 結局君は、どうやって婚約を取り付けたんだい?」
「それは内緒です。……彼女と、私だけが知ってれば良いことですから」

 ――汚れない彼女の裡にある、どうしようもない悲しみに歪んだ、幼い魂の形作る、気高さに覆い隠された歪みを。
 ――その歪みに犯されながらも、気高い淑女で居ることを止められない彼女の苦悩を。

 彼は、彼だけは知っている。
 そしてそれを、終わらせることも止めることも出来る。

 ――兄の言葉を借りるなら、こんなに堕落し、俗悪な、それでいて強い恍惚を与える悦びは、他には無いだろう。

「それは惚気という奴かね? いやはや、まさかあのリアンがねぇ……」
「ふふっ、私もただの俗物だということですよ」

 そんな矛盾に入り込み、彼は今日、いよいよ、焦がれた"者"を手に入れる。
 ――愛しい人と、共に堕落の道を歩むことで。
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