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「お兄様、面白い方だったわね」
「……そうでしょうか」
「えぇ。何だかお兄様と話している時のリアンは、なんていうか……人間らしかったわ」
「そう……ですか?」
「えぇ。私の婚約者は、大人だけれど完璧ではないのだって、私とても安心したの!」

 片手にランプを持ち、手を繋がれて地下への階段を降りながら、オードリーの浮かべた晴れやかな笑顔に、リアンは苦笑と共に後ろに結ったままの髪を撫で付けるように項に手を当てて苦笑した。



 その日、葬儀の後にリアンとオードリーが私的且つまともな会話を交わしたのは葬儀と納棺、その後の立食会と婚約の簡易的なお披露目も兼ねた晩餐会の終わった夜のことだった。
 侍女によって寝間着を着せられ、部屋の照明を消され、布団に入ったまま息を殺して目を閉じ――時計の針が天井に届く頃。

「――ドリー?」

 そっと音を立てずに細く開いた寝室のドアから、僅かなオレンジの明かりが差し込み、静かに自分を呼ぶ声がする。
 家族の『介護』を始めてからの日課の通り、今日も訪れた訪問者に、オードリーはいつものように、寝返りを打つような振りで、ベッドヘッドを手の甲でコツコツと叩くことで答える。

 すると、ドアは更に開き、訪問者は音を立てずにすっと室内に入り、彼女のベッドの天蓋の前で立ち止まり、再度声を掛ける。

「開けても、宜しいですか?」
「えぇ、大丈夫よ」

 その声と共に、天蓋の向こうに見える飴色の明かりに抄かされた影がごそごそと動き、程なく、カーテンに繊細そうな指先が掛かる。その間にオードリーは半身を起こし、着替えの手伝いが来るより前に上掛けの下に入れておいたガウンを羽織る。

 もう二ヶ月も繰り返していることなのに心の底からドキドキするのは、葬儀の前に今日これからの予定を知って、会食の終わりから気もそぞろになる程楽しみにいたからだろうか。
 それとも、リアンとオードリーの関係が、今日、書面の上でなく、人々の意識の中でも変わったからだろうか。

 オードリーはこくりと喉を鳴らし、いつもより殊更ゆっくりに感じる手つきに天蓋が開かれるのを待った。

「そんなに緊張しないで下さい。婚約者相手に『初夜』を得ようなんて思ってませんから、ね?」
「……わ、かってます」
「婚約者には――まぁ、この程度で」

 少なくとも、天蓋を開けたなり、晩餐会の時のまま未だ髪を背中で結ったままのリアンに、暫し青い目を見開いてまじまじと見られた後、笑い混じりでそう言われるくらいには緊張していたらしい。

 だけれど、ぴんと伸びた背筋をからかうように撫でられた後、頬に小さくキスなどされてはその緊張も長く持たない。
 しかし、それに羞恥を覚える間もなく、リアンはオードリーの背中に伸ばした腕ともう一方の腕とを彼女の脇の下に通し、上掛けから引き抜くようにしてベッドに座らせると、足下にあった赤いエナメルの靴を恭しく差し出した。

 促されるまま伸ばした白い素足の足の甲を捕らえたリアンは、両手で恭しく上げたそれに、まるで教会の、皆に敬愛されるべき聖職者にそうするように額を預け、小さな口づけまでして見せた。

「リアン、」
「では、早く行きましょう婚約者殿」

 オードリーがそれを咎めるより前に、今まで見た中で一番晴れやかありながら、その青い瞳に妙な熱と艶のある笑顔でもって黙殺して、手早く靴を履かせた彼は、素早く身を起こして彼女の身体を床へと下ろす。

 いつもの冷静さと比べて、何処か浮かれて、少年のように無邪気に振る舞う自分より十も年上の婚約者に、ただ茫然と、されるがままに立ち上がったオードリーは、ベッドの中に隠していた上着を羽織らされ、ここまでリアンの持って来たランプを渡される段になって、やっと口を開いた。

「ねぇ、リアン、一体どう――」
「さぁ、ドリー、早く」

 けれど、それが言葉になるより早く、ランプを持っていない方の手を引かれて外への歩みを促され、数瞬、繋がれた手と己のランプの明かり、そして明かりの向こうで軽く、でも有無を言わさない力で己の手を引く婚約者を見比べ、小さく肩をすくめて歩き出した。

「リアンってば、まるで遊びに行く子どもみたいよ!」
「おやおや……随分若く見て頂けたようで光栄です」

 暗くて顔が見えないのをいいことに、頬を膨らませて繋いだ手を揺らしながら精一杯吐いた嫌みは、その一言と、ランプの明かりの下、口元だけ見えた笑顔に黙殺され、オードリーは一層に頬を膨らます。

 結局、今みたいに子どものようにはしゃいで見えようが、いつものように冷静に振る舞われようが、彼がオードリーより余程大人であるということと、十歳もある年の差は絶対的に縮まることは無いのだ。

 それは、オードリーがこれからリアンに見合うような素敵な淑女になろうが、リアンが貴族にも認められるような素晴らしい医者になろうが変わらない。
 ――リアンという人間が、十歳も下の貴族の少女と婚約したという現実は。

(……別に、いいじゃない。リアンが立派な人だってことは、私とアンが知っていればそれでいいのよ!)
「……ドリー?」
「……よく見たら、正装なんかしちゃって、馬鹿みたいだわ」

 自分はリアンより遙かに年下の子どもであり、それがリアンの名誉を傷付ける。
 その現実を肯定するように――ここ二ヶ月の間に、アンに言うようにして言えるようになった――年相応の憎まれ口を叩いたオードリーは、今更気付いたリアンの、目の色に似た青い瑪瑙のカフスと、滑らかな絹の手袋だけがランプの明かりに浮かぶ彼の手と繋ぐ手に力を入れた。

 今更気付いて思い返せば、彼女の寝台の天蓋を捲り、彼女を迎えに来たリアンはいつもの、綿のシャツと茶色のズボンという、使用人のように作業のしやすい服ではなく、二ヶ月前に初めて見た時のように、カフスと手袋だけでなく、上着にタイ、そして革紐で縛った髪を整えた姿だった気がする。

 それに対して、使用人の目を盗まねばいけないオードリーはいつもと同じ寝間着姿。
 一人で着られないし、だからといってリアンに手伝わせる訳には行かない。それは仕方ないし、まさか「夜中に婚約者に会いたいから着替えさせてくれ」とも言えない。
 けど。

「――アンはそんなこと、全然気にしないのに」

 自分とアニュゼットの『お見舞い』に行く時にはラフな格好の癖に、彼女をオードリーに『お披露目』する時には正装なのだ。そう思うと益々面白くない。
 ――何故面白くないのか、それは分からないのだけれど。

「いえ、私が気にします」

 愛らしく唇を尖らせ、ふて腐れたオードリーの頬を、リアンの絹の手袋が撫でる。二ヶ月の間に慣れたその感触をもってしては、オードリーも、そう長くは頬を膨らませてはおられず、はぁと大きく頬に溜めていた息を吐いた。

「――大事なご挨拶に、ラフな格好ではいけませんから」

 その息の音で、リアンのその言葉はオードリーの耳には届かなかった。
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