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「ドリー、兄と仲良くなるのは構いませんが、余り仲良くし過ぎないで下さいね」
「えぇそうね、お兄様もお忙しいでしょうし、社交辞令を真に受けてはご迷惑よね」
「――まぁ、そういうことにしておきましょう」

 二階の寝室から階段を下り、正装をしたリアンと地下へと続く階段を慎重に降りながら、オードリーは気付いていることがあった。
 部屋に迎えに来てから、子どものようにはしゃいで居ると思ったリアンは、多分ではあるが、愉しんでいるのではなく、緊張しているのだ。

 その証拠に、いつもより口数の多い喉は、何度かこくりと鳴り、オードリーの手を握っていない方の指先は、彼女の頭や頬を撫でる以外に、何度かタイと頸の間に差し入れられている。
 握った絹の手袋の手は、いつもよりひんやりとしており、何より僅かに汗でしめっている。

 きっと、オードリーがランプを自分の頭より上に掲げたならば、緊張に強ばる彼の顔を映すことだろう。
 いつだかの授業で家庭教師であるマリアンヌが「殿方は己の矜持を傷付けられることを嫌います」と言ったのを覚えているオードリーは、そんなことをするつもりも、彼の緊張を言い当てるつもりも無かったが。

 ――それにしても。

「ねぇリアン」
「何でしょう、ドリー」
「あなた、晩餐会の後、ずっとアンの所に居たみたいだけれど……アンに何かあったの?」
「それは……」

 一体、彼女の妹をどうしたのか。
 その疑問は、愛する妹への二ヶ月ぶりの再会に沸き立つ心と共に、侍女に寝室へと促されるまでの間、オードリーの心を支配していた疑問であり――当人も気付いていない焦燥だった。

 葬儀の後、ささやかな婚約の祝いも兼ねた晩餐会が親戚縁者だけで行われた。
 その席でしかし、オードリーは婚約者らしくリアンに寄り添うことを禁止され、分別の無い高慢な女王のように振る舞うことを約束させられた。

 「それが貴女の為ですから」と、散々言い含められての仕打ちであったけれど、自分の婚約者を物のように扱うのは――殆どの人は彼に同情的な視線を投げたが、その中に僅かに混じる、彼女の無意識を装った蔑みを模倣する同じ血が流れているとは思えないような浅慮な人間を見るのは――善良な魂を持つ少女にとっては耐え難い苦痛であった。

 しかも、未成年であるオードリーを理由に八時には切り上げられたその晩餐会の後、リアンは「お会いさせるまでに準備がありますから」と言って、何かしらの資材と共に、オードリーが寝る支度を調える今の今まで自室に引っ込んでしまった。

 ……オードリーは、アニュゼットとは勿論会いたいと思っている。リアンがいつも自分の為に動いてくれていることは知っている。

 それでも、分かっていても。

 アニュゼットよりも、自分を優先して欲しかったという、子どもじみた我が儘を覚えたのも事実だった。

 自分が、高慢で立場を弁えない、薔薇の花のような少女なのではなくて、自分よりも年上で、立派な男性である仮初めの婚約者に純粋な愛を注ぐ、雛菊のように純真な子どもだということを、彼に肯定して貰いたかった。

 この婚約に愛は無くても、自分に彼がその身と知識、更には今後、少なくともオードリーが成人を迎えるまで続く、碌でもない社交界の噂の的となるべき不名誉までを差し出す程の価値があるのだと、いつものように抱きしめて、優しく慰めの言葉を囁いて、実感させて欲しかった。

 ――そうでないと、あの事故の前、誰からも褒められた、美しく無邪気なアニュゼットと鏡映しの片割れ、善良な公爵が治めるグレイス家の公爵令嬢として、相応しく、善良で無知であった自分には戻れないような気がして。

 折角この世に止めた、美しい妹と並んで盛装し、済まして座るという、今までのような生活が、もう叶わないような気がして。

(善良さ……そんな物を持っている人間が、死体を邸に置きたがるかしら?)

 だけれど、頭に浮かんだ、その皮肉な言葉に、オードリーは愛らしい唇を皮肉に歪めて、うっそりと頬笑んで、殆ど無意識に、繋いだままだったリアンの手を、軽く引っ張り、縋るように両腕で抱きしめた。

「……ドリー?」
「ねぇ、暫くこうさせてちょうだい」
「……分かりました」

 正装を纏った、オードリーにされるがままになっている腕。骨張って堅くて頼りがいがあり、薬品で荒れているのに指先の形と短く揃えられた爪の形には品があり、いつも壊れ物のように自分の頬に触れる、綺麗な手。

 歩きながら、余り躾の良くない令嬢がやるように、差ほど重くない体重をそれに預け、彼女は自分の願いを叶えてくれた美しい婚約者に猫のように身を寄せて、オードリーは機嫌良く紅色の目を細めた。

「なんだか、ドリーにまで私の緊張がうつったようだ」
「違うわ、私、緊張なんかしてないわ」
「そうですね、自分の家族に会う人間に緊張する必要はありませんね」

 リアンは照れた様子も狼狽した様子も何も無く、何も言わず、空いた方の手で、いつになく甘え付くオードリーの前髪を上に上げるようにして撫でつけた。

 どうやら、甘え付く彼女の様子に、彼も緊張を解いたらしい。最初は、器用な彼にしてはぎこちなかった手の動きは、次第にいつもの、慈しむような手つきに変わって来る。

「……あなたの家族でもあるのよ、リアン」
「そう……ですね」

 美しい自分と瓜二つの妹と、器用な指と優しい声、そして宝石のように美しい青い瞳を持つ婚約者。
 それらは、もし、オードリーに年相応の善良さと、分別、そして思いやりとがあったなら、手に入らなかった物だったろう。

 ただ、彼女には年相応の、悪徳への誘惑があった。

 ――だからこそ今夜、彼女は全てを手に入れる。
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