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「わぁああっ!」

 地下室に入る扉を開け、背中でおさえたリアンに促され、一歩を踏み出したオードリーが上げたのは、喉から漏れた賞賛の籠もった歓声だった。

 いつもは、オードリーの持つランプ以外には、明かり取りと換気の為の窓から入る月明かり以外、全く明かりの無い地下室は、いくつかの明かりに照らされて、そこに在った。
 正面にある琥珀色の池は置かれた明かりにきらきらと水面を輝かせ、入って左手の台にいつも置かれている、実験器具や素材には、目隠しの為に真っ白なリネンが掛かって居る。

 蝋燭を灯せないその部屋を、真昼のように照らすその明かりは全て、いつか見た、太陽のように温かい電球であり、部屋の中は燭台に沢山の蝋燭を点したダンスフロアのようにとても綺麗で明るかった。

 だけれど、後から入室したリアンが促すように押すまでオードリーの目を奪い、彼女の小さな身体を、この部屋の入り口に縫い付け続けたのはそれだけではなかった。

「リアン! 凄いわ!! この沢山の薔薇……あなたが飾ったの?」
「えぇ……庭師に少しだけ、分けて戴きました」

 目隠しの布や、明かりの周りだけでなく、琥珀色の水面の中にまで浮かべられた、沢山の深紅の薔薇だった。

 深紅――スカーレット色。
 オードリーとアニュゼットが心から愛し、いつも身につけていた色。

 今、胸の前で両手を合わせて感極まった顔でリアンを見上げる少女の両方の瞳に宿り、電球の明かりに潤む、石榴石と同じ、深い、血のように鮮やかな色。

「素敵だわ! 葬儀だから白薔薇しか用意出来なかったけど、アニュゼットは赤い薔薇が好きなのよ!」
「貴女も、好きでしたよね」
「えぇ、勿論よ! 凄いわっ、今日の晩餐会に飾り立てられていたお花よりよっぽど綺麗っ!!」

 実際、今日の近しい親類だけの集まった晩餐会はオードリーとリアンの婚約の正式な場ではあったけれど、午前中、庭で行われた食事会の延長のような物で、ホールに飾られた花も控えめな色をした百合などであった。

 清楚な母にはそれでいいかも知れないが、「やはりアニュゼットの華やかさには赤い薔薇でなければ釣り合わないのではないか」と、二人を知る人々と彼女の間で小さな話題になったのだった。

 たった二ヶ月の付き合いであるリアンが、それ程までに彼女と妹を理解しているということに、幼くとも淑女としての心をときめかせ、頬を僅かに薔薇色にへと上気させてはしゃぐオードリーを、リアンは黙って頬笑み、完璧なエスコートで更に一歩促す。

 すると、どうやら一杯に飾られたかに見えた薔薇が、よく見れば扉から左右に並び、すぐ目の前の琥珀色をした池に突き当たって、白い布と薔薇とで目隠しをされた作業台の前を通り抜けるようにして向かって左へと曲がる通路を作り出しているらしいということに気付いた。

 そして、通路の終点は、障害物と内開きのドアとに阻まれて、オードリーの側からは、ドアを超え、二フィート先にある、曲がり角の上に立たなければ、そこに何があるのかは分からない。

「ねぇ、これは通り道になっているの?」
「えぇ、そうですよ」

 振り返り、気付いたことを問えば、鷹揚に頷かれ、背に当てられた手で更に一歩を促され、オードリーはやや混乱しながらもそれに従った。

 というのも、彼女の記憶が正しかったのならば、作業台の前を抜け、左手にオードリーの背よりやや高い、書架を使った薬品棚を頂くその通路の突き当たりにあるものは、ただの煉瓦で固められた壁であった筈なのだから。

 とまどいながら、エスコートされるまま、一歩、あと一歩。ついに曲がり角に立ち、明かり取りの窓から入る風に波打つ琥珀の水面から目を逸らし、深紅の薔薇が示す方向――左手側に顔を向け、薔薇の花を追うように視線を上げて行く。

「うそ……っ!」

 その視線の終点にあったものに、オードリーは石榴石色の目を大きく見開いて、両手で己の口を塞いで戦いた。

 オードリーが目を向けた先、書架と作業台、そして薔薇の花に飾られた通路の突き当たり。周囲の床より一段高くなり、赤いビロードの敷かれたそこには――この二ヶ月、会いたくて溜まらなかった妹が立っていた。

 薔薇や、足下の織り布に負けない程鮮やかな、リボンで絞られた殆ど括れの無いウェストから下が、幾重にも膨らんだ深紅のドレスを着て、裾に掛けてやや広がるように作られた袖から出た小さな指先が、揺れるスカートの裾を摘み、礼を取るような位置で両手を伸ばして。

 ――大きな、今まで見たこともないような、窓のように大きな、蓋を金の縁取りがされたやはり赤のビロードでギャザーを寄せるようにして覆われた、丸口のガラス瓶の中一杯に広げたスカートを、水中花のようにユラユラと揺らしながら。

 人形のようと湛えられたその美貌を惜しげもなく晒し、祭壇の上に上げられた聖女の像のように微動だにしない、だけれど像には決して出せない、少女らしい円やかな頬の曲線を、周囲に点った飴色の明かりに照らされた。

 生前と何一つとして変わらない、何一つ損なわれていないアニュゼット・グレイスが、確かにそこに、オードリーから一ヤードも離れて居ない場所に『立って』いたのだ。
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