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「……ドリー?」
「……っ」

 オードリーが、赤い薔薇に示された角を曲がったのは、後ろのリアンに、怪訝な様子で声を掛けられた時だった。
 その間の数分、オードリーはずっと、行く先に聖女のように清らかな微笑を見せ、慈しみ深く何物を――それこそ肉親を失った子どもの、頑是無い我が儘まで――も受け止めるかの如く、静かにそこに立つ、妹に見惚れていたことになる。

「――ほら、アニュゼット様が、待っていらっしゃいますよ」

 それでも、オードリーは、リアンがそう言って、オードリーと頬を並べるようにして屈んで、月の光の如く仄かな微笑をその冴え冴えと青い瞳に乗せて、軽く、一歩を突き飛ばすように背を押して身を離すまで、その場から一歩として動けなかった。

「二人きりで積もる話もあるでしょう。まずは、貴女がお声を掛けてあげて下さい。……ね?」
「……」

 そうして、言葉に従って動いてからも、最初の数歩は、足を進める度に、曲がり角にそのまま佇むリアンを縋るように振り返り、その度に僅かな微笑と深い頷きを返された。

 その度、まるで、初めて親から離れる子どものような不安感と、何ともいえない違和感が膨れあがり、オードリーはもう少しで何もかもを投げ出してしまいたいと思った。

 あれほど――人の理に反して、リアンに無理を言って、この二ヶ月、足繁くこの場所に通って――それほどまでして会いたかった妹が、もう目の前に居るというのに。

 オードリーは、自分の向かう先にアニュゼットが居るということが、どうにも現実感のある事象として――下手をしたら、家族とアニュゼットが死んだという認めたくない現実以上に――意識に染みつかなかった。

 だけれど――だけれどそれも、俯いたまま道の半分を進み、靴先からようやっと上げたオードリーの視線が、一段高い、薔薇と布で美しく飾られた、ルルドのような場所に在る、自分と瓜二つの美貌を持つ妹と、目線を合わせるまでの間のことだった。

 通った血の、薄紅色がすっかり褪せた白い白磁の肌の上、赤い衣服の照り返しを受けて生きているかの色に染まった頬で、黒く艶やかな髪を靡かせて、長い睫を伏せて頬笑むその顔。

 遠目からは分からなかったが、その瞳は僅かに開き、石榴石の色をした瞳は、生前そのままの輝きでオードリーを見据えていた。
 いつも、快活な彼女が数歩前に走って行って振り返り、笑って、オードリーを呼ぶ時の姿そのままに。

 ――早くこちらへ来て、ドリー。そこじゃあ貴女の声が聞こえないわ!

 そう、妹が叫んだ声が耳元で蘇るような気がしたその時には、オードリーは柔らかな素材で出来た寝間着の裾が足下に絡まるのも、エナメルの靴が床に落ちた薔薇の花弁を踏みしめるのにも構わず、妹の、アニュゼットの目前まで、まろびつつ、一気に走り寄った。

 もう殆ど残っていない筈の距離が、自分を見つめる赤い瞳の中で揺らめく、琥珀色の池に反射した飴色の光が、自分を呼んでいるような気がして。

(あんなに会いたかったアニュゼットがこんなに近くに居る、私と同じ顔をした美しい妹が――美しいお人形のようにガラスケースに収まっている!)

 最後の一歩は、殆どガラス瓶の側面に倒れ込むようにして、それでも体重を掛けないように寸前で止まり、オードリーは乱れた黒髪を払いながら、その間もずっと、彼女の、その身に沸き立つ血のように赤い双方は、食い入るように目前の妹を見つめ続けた。

 まるで、少しでも目を離したのなら、その間に、彼女の何かが今の状態から、すっかり変わってしまうのではと恐れるように。
 彼女に起こる少しの変化も見逃さないというように。

「おか、えりなさい。お帰りなさい、アニュゼット。私、わたし、ずっと待っていたのよ!!」

 その言葉にか光の加減にか、ガラス玉のように、知性の色なく周囲の光とガラスに手を突いて覗き込むオードリーだけが写った瞳が、僅かに微笑を深くように見えたガラス瓶の中の少女。命の無い、彼女の双子の片割れ、アニュゼット・グレイス。

 陶器のように真っ白な肌に黒い髪、深紅の瞳と色のない微笑。

 薔薇の花の精霊、または女王という風情で透明な液体の中にたゆたうその姿は、精巧な美貌と幼さを同居させ、どんな人形よりも美しく気高く、幼さと同時に妙な艶があり、そして。

 ――汚れを知らぬ真っ白な寝間着、夢見るように細められた赤い瞳に紅色に染まる白い頬、艶のある真っ黒な髪と伸びやかな肢体を持つ清純さを形にしたような、彼女を覗き込む少女と、何もかもが皆同じであった。

 そうして、ともすれば、滑稽なことにこの時初めて。
 清純な生者は――オードリー・グレイスは、自分と頭の先から爪先まで、それこそ、『生きているか死んでいるか』以外に寸分の違いも無い妹を、初めて傍観者として眺め、『美しい』と、美々しい風景を見るように極自然に感じたことによって。

 普段から、あらゆる人に賞賛されていた、自分と妹の美貌が、それこそ自然が作り出した大粒の真珠や、季節の中で自然が一瞬だけ見せる風景のように。
 全くの偶然からしか生まれない、つまりは同じ者は互い以外にない、全くもって希有な、絶妙な采配によって作られている希少な物であると、初めて気付いたのである。

 同時に殆ど本能的に、自分が、その美貌を利用することを許された、希有な『女』であるという理解と自惚れも――ただ賞賛を享受するだけであった少女の心に、赤い薔薇のように毒々しい虚栄心として、確かに根を下ろしたのであった。

 後に――自分も、他人もを堕落させていく悪徳の華の芽は、こうして幼いだけだった少女の心に、確かに芽吹いたのだった。
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