> 第一部 > オードリー・グレイス十三歳 > 十三歳の五月 > 10
10


「ねぇ、聞いてアン。私、婚約したのよ」

 程なくし、盛装の貴婦人や散歩の紳士よりもゆったりとした歩調でオードリーに追い付いたリアンは、そう言いながらガラス瓶に腕を回し、その内側の”彼女”と額を合わせ、うっとりとそう呟くオードリーの右へと並んだ。

「まだ、仮初めの婚約者だけど――ねぇ、でも、大人になったみたいでしょ?」

 腕には途中のテーブルに置いていた包みを抱え、彼女の横にしゃがんだリアンには目も暮れず、オードリーは恍惚とした顔で瓶の中を覗き込みながら、そう言って頬を染めて笑った。
 同じ顔で無表情の”中身”と重なるようにして、瓶の反射にうっすらと映ったことにより、リアンの位置からは、まるで二人で頬笑み合っているようにも見えた。
 ――此度の再会をお膳立てした彼の存在を忘れ、二人だけしか居ない世界で違いに笑い合っているように。


「――私からの誕生日プレゼントは、お気に召しましたか?」

 その面白く無い想像に、リアンは秀麗な眉を僅かだけ寄せ、次にはその顔に笑顔を貼り付け、オードリーを見上げ、そう声を掛けた。

 この場所に居るのは、”彼女”と秘密を共有しているのはお前だけでは無いのだと、その美しい笑顔を独占する相手と、姉妹にばかり笑顔を向ける”彼女”に言って聞かせるように。

「えぇ、とっても!」

 しかし、彼の幼い女主人は、彼が横側から唐突に掛けたその声に驚くようなことは無く。ガラスに額を預け、はにかむように目を伏せたまま鷹揚に頷き、ガラス越しに彼と目を合わせ、再び頬笑んだ。

「ねぇ、アン。よぉく見て、彼がね、私の婚約者なのよ。私達の誕生日に、もう一度私たちを合わせてくれるだなんて、ねぇ、とっても素敵でしょう?」
「ドリー、そう褒められると照れてしまいますよ」
「ふふふっ、ねぇアン聞いた? こんなに素敵で、しかも私たちよりうんと年上の人が、これくらいで照れるだなんて、そんな訳が無いわ」
「……おやおや、まさか婚約者殿に、私の誠意を疑われるとは」
「まぁ、疑ってなどおりませんわ。そちらこそ、婚約者の前で嘘や謙遜を言っちゃいけないわ。ねぇアン、そうは思わない?」

 ――クスクス、クスクス。

 オードリーの良く通る少女らしい澄んだ笑い声は、五月の乾いた大気と地下室の壁――そして目の前に聳える瓶に反響し、幾重にも重なって地下室に響く。
 まるで、オードリーと同じ声をした、同じくらいの年頃の少女が、もう一人居て、彼女と一緒になって忍び笑いを漏らすかのように。

 あの、正式な主従となった三月の日から今日までの二ヶ月。
 計画の露見を恐れて常に気を張っていたせいか、オードリーはリアンの前でさえ常に堅く顔を強ばらせ、淑女らしい控えめな笑顔と忍び笑い以外に、笑い声というものを一切上げなかった。

 それをリアンは何とも思わなかったし、どころか、彼のマリアンヌ嬢の、初めて生徒を持った家庭教師と思えぬ力量に関心し、今のような状況でさえ、常にそれを忘れないオードリーの気丈さや聡明さを素直に賞賛してきた。
 ふと漏らされる吐息だけの笑いさえも、信頼している自分の前でだけ見せるオードリーの様子に、心許されているような錯覚さえ覚えた。

「いやはや、それはどうも、失礼を……」
「ふふっ、ねぇアン。私達のような小娘にさえこうして詫びてくれるのよ。とっても素敵な方でしょう? まるで二人で読んだ絵本の騎士様のようだわ」

 だけれど――今この時も、これからも。
 恐らくはリアンの前でしか見せることをしないだろう、この物言わぬ姉妹と睦み合う様子に、リアンは何とも言えぬ焦燥と歯がゆさを感じていた。

 普段なら、どんな賛美歌よりも清らかで美しいと思う無邪気な笑い声も。
 婚約をする前、あくまでも一使用人でしかなかった時分でさえ、淑女として振る舞って来た彼女が初めて発する、家族にするような蓮っ葉な物言いも。

 本来なら、彼を舞い上がらせるには十分であるのだが。
 今は、それら全てに苛立ちばかりが募って行く。

 何故なら、彼が喉から手が出る程に欲し、他の何も要らないとさえ焦がれ求めたそれらが、全て家族に――彼女の唯一の姉妹に向けられているからだ。

 彼女と丸っきり同じ背格好と顔をしているだけ、ただ同じ胞から生まれたというだけで、彼女に永久に愛される。
 ただ見て愛でる、美術品や精巧な人形以上の価値など無い、医師であり大人であり侯爵家とも紫のある、彼とは違って全くの役立たずの癖に。

「――私は、王子では無いのですね」
「リアン、何か言いまして?」
「いえ、ご婦人のお耳に入れるようなことではありません」
「そう?」

 思わず漏れ出た言葉に一度だけリアンの方を向いたオードリーは、再び、二人にしか分からないお喋りに興じようとアニュゼットの方に再び視線を向けた。

「所でドリー、私からのプレゼントは、アニュゼットお嬢様のことでは無いのですよ」
「まぁ、そうなの? 嫌だわ私ったら!」
「えぇ、これのことなのです」

 その視線を自分に縫い止めようと、リアンは咄嗟にオードリーを呼び止めて膝を突き、先ほどから脇に抱えていた包みを差し出した。

「さぁ、どうぞ」
「ありがとう、リアン――まぁ、一体何かしら?」

 深紅のリボンを解き、包みを広げたオードリーは、次にはその中身に石榴石色の瞳をまん丸く見開き、少女らしい――血肉の通った、高濃度のアルコールで出来た薬液に髪の先から声帯まで浸かっていない――甲高い歓声を上げて、リアンの首へと抱きついた。

「凄い、凄いわっ、リアン! 今まで貰ったどのドレスより素敵よっ!」
「――気に入って戴けたのなら、何よりです」

 リアンは、首筋に抱きつく温度と、部屋に置いた薔薇から移った芳香とも、髪や肌に塗られた香油と混じった少女自身の香りとも付かぬ甘い匂いを感じながら、寝間着を纏った婚約者の背中と絹糸のような髪とを大きな掌で撫でながら。

「あなた、知っていたのね! 私達が毎年、お誕生日にお揃いのドレスを仕立てて貰うこと!」
「えぇ――ミセス・マリアンヌに教えて戴きました」

 片腕にドレスを抱えたまま、掌で包んだ頭を引き寄せ、一層強く寄せられた頬に頬を寄せ返し、じわじわと溶け合う温度にゆっくりと溜息を吐きながら。
 青い瞳をうっとりと細め、その紺碧の美貌を甘やかな笑みでとろかせた。

 ――彼が抱きしめる婚約者が大事そうに胸に抱えているスカーレット色のドレスと全く同じ色形のドレスを纏った、飴色の水の中に浮かぶ物言わぬ少女に視線を向けて、自分の優位を知らしめるかのように。

「――ねぇ、ドリー? 気に入ったのなら、ご褒美を戴けませんか?」
「ご褒美?」
「えぇ、簡単なことです――こちらを向いて、私の目を見て……」
「ねぇ、次はどうすれば――」

 先ほど、自分の姉妹とそうしたように、紺碧の瞳と視線と額とを合わせたオードリーの言葉は、次の瞬間、自分のソレより一回り大きな口唇に、包まれるようにして飲み込まれ、離れる際には軽く啄まれた。
 まるで口元から食べられるかのようなソレが、一瞬何なのか分からず、オードリーは思わず両手で口を覆い、リアンを見上げた。

「――ねぇ、今のはキスでいいのかしら?」
「少なくとも、私はそのつもりでしたが?」

 頬と目尻を赤く染め、口を塞いだまま怖々と己を見上げるオードリーの初々しさと突飛な質問に、リアンは破顔し、やがて、「失礼」と口で謝りながらも、クスクスと大きく笑い出した。
 それに対してオードリーはいよいよ耳元まで赤くなり、そうなるとリアンと互いの吐息を感じられる距離にいることを意識し、決まり悪そうに視線を泳がせた。

「だって、だって、リアン……私の知ってるキスは、その、唇を食べたりしないし、それに……」
「それに?」

 オードリーだってキスがどんなものか知っている。
 挨拶として、手の甲や頬に何度も受けて来たし、父や母――姉妹と毎朝毎晩、唇同士を軽く合わせるそれも経験している。
 だけれど、リアンのしたように、唇そのものを食むようなやり方を受けたのは初めてであるし。

「わ、私の知ってるキスは、その、こんなにドキドキしたりしないわ」

 ――こんな風に、キスをしてくれた相手との距離や、表情や、その後の自分の仕草が気になったりなどしなかった。

 そのようなことを、いよいよ焦点の定まらない目を潤ませて、辿々しく話すオードリーの様子を見下ろしながらリアンの笑みはいよいよ深まり、遂には未だ言葉を探す薔薇のように鮮やかな唇の上に、それ以上の言葉を塞ぐように指先を置いた。

「――それはそうでしょう。だってこれは、恋人同士の口づけですからね」

 といっても、まだ入り口なのですが――というリアンの言葉に、オードリーは指先を当てられた唇をはくはくと蠢かせ、いよいよ絶句した。
 リアンの指先は、なぞるようにオードリーの唇を撫で、その頬を丸ごと掌で包んだ。


「足りませんでしたか?」
「足りない、って?」
「そうですね――しいて言うなら、ドキドキが」
「あ……」
「――ドリー、全て、私に任せて」

 その言葉と共に傾けられた秀麗な顔と、薄く細められた瞳に操られるように、オードリーも静かに目を閉じ――無意識にか、うっすらと唇を開けたままで顎を反らせた。


 ――初めての拙い口づけに酔う恋人達は気付かなかった。

 最初は何度も触れ合うだけであったソレが、一方のリードともう一方の若さ故の飲み込みの早さから深まれば深まる程に。

 分厚いガラスの向こうから、微笑を浮かべて彼らを見下ろす赤い瞳をした天使の少女らしく愛らしい唇に、まろやかなその頬に、拙い夢を見ているかの目元に。

 ――桃色の花弁のようにうっすらと、しかし確かに点る快楽と官能の色に。
piyopiyoPHP