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オードリー・グレイスの肖像
> 第一部 >
オードリー・グレイス十二歳
> 赤い部屋にて > 1
1
教育機関の数え方が変かも知れないのでつっこみが来る前に補足。
(イギリスは〜19歳が寄宿学校だと気付いちゃったので)
家庭での教育や通いの学校(〜11歳)→寄宿学校(〜16歳)→→王宮を目指すなら王立の上の学校、それ以外は弟子入りしたり各仕事の専門学校に進学
というのが、一般的な貴族の男子の進路って感じの、ヴィクトリアンというよか旧日本のような制度で考えていました。
オードリー達貴族の子女は、十歳くらいまでは王家と家の家系図や詩画など叩き込まれ、思春期前から淑女教育に入る感じです。
十六歳が成人の世界で十歳からでは遅すぎないかというつっこみは無しで。
オードリー・グレイスが目覚めたのは、ふかふかのベッドの中だった。
遠い視界にあるのは血のような色をした重たげなビロードで、オードリーは規則正しく並ぶその赤色を見上げて数度長い睫をしばたたせて瞬きした。
きょろきょろと視界を動かし、オードリーは初めて自分が、彼女の好きなスカーレット色より少し落ち着いた赤色の天蓋の付いた広いベッドに寝かされていることを認識した。
顔を僅かに横向けると、天蓋には僅かな隙間が開いており、そこから揺らめく蝋燭の火と、それに揺れる人影のような物が僅かに揺れた。
「いっ……た」
それが何を意味するのか、ここが何処だかを考える前に身体を寝台の上に起こそうとしたオードリーは、しかし、腹に僅かに力を入れただけで背中を中心に全身に広がった痛みに小さく呻き、脱力した。
と、同時に、ばさりと天蓋がまくれ、端からちらちらと見えていた蝋燭の明かりがはっきりと天蓋に差し込み――同時に仰向けで呻くオードリーの上に大きな影が覆い被さった。
「んっ……」
「気がつきましたか、オードリー様」
掛けられた声に、急に明るくなった視界に眩んで閉じていた深紅の瞳をオードリーが開くと、その目の前には、オードリーに覆い被さるようにして心配そうに顔を覗き込む青年の顔があった。
整った顔に落ちる何処か乱れた黒髪にサファイアのような深い色をした青い瞳のその人は、十二歳のオードリーより遙かの年上の、しかし年若い青年は、まばたきも忘れてまじまじと見つめ返すオードリーの視線を受け止めたまま、ほっとしたように息を漏らし、彼女の額に手を置いた。
「私が誰か――お分かりになりますか?」
「――その、目」
そのまま、オードリーの額どころか目頭まで覆うような手袋をした大きな手が、気遣わしげオードリーの頬を撫でるのを合図に、魅入られたかのように青年の顔を――特に深い青色の目をじっと見ていたオードリーはハッと目を見開いて、自分の記憶を探った。
幼い自分と違って大人の、美貌の青年には面識がなかったが、その目には、黒髪に青の目という特徴には覚えがあった。
その筆頭の人間は、噂で聞くだけでまだ社交界に出たことの無いオードリーは実際に会ったことは無かったが、もう一人には昔、確かに――。
「あなた……リアン様でしょう? 隣の、レオニス侯爵家の次男の……」
「えぇ――よく覚えておいでですね」
心無しか、少し嬉しそうに目を細めたリアンに、オードリーも頬に手を置かれたまま、つられて目を細めた。
「リアン様……は、お医者様になられると、お聞きしましたが」
「えぇ、あなたのお父様とそうお約束をし、この度、一年間の従軍義務を終え、無事に医者となりました」
「それは、おめでとうございます」
頭を上げようとして再び呻いたオードリーを、リアンは大きな手に腕とで背中を支えて起こし、背中とベッドヘッドの間に枕を入れて身体を固定する。
どんな風にしているのか、その自然な手際の良さは、オードリーに全く痛みを感じさせなかった。
これが医者の手業なのだろうかと、オードリーは内心で首を傾げながらも、その手にされるがままにされながら、リアンと言葉を交わした。
「ありがとうございます。――少々、失礼しますね」
そのままリアンは、いつの間に着替えたのか、白い清潔な寝間着を着たオードリーの目を覗き込んだり、腕を撫でたりしながら、オードリー自身の、オードリーには分からないことを調べ始めた。
「どうやら、骨等に損傷は無いようですが……頭は、痛くないですか?」
「えぇ、大丈夫です」
「ならばきっと、強く打ったりはしなかったのですね――良かった、本当に良かった」
意識がはっきりすると共に、次第にはきはきとした受け答えの出来るようになって来たオードリーの米神を、リアンはほっとしたような、何か辛さを耐えたような様子でそっと撫でた。
その時やっと、オードリーは、先ほどリアンが触れた額や、今触れられている米神の近くがチリリと痛むことに気付いた。
どうやら、顔や頭の所々に擦り傷が出来ているらしい。
リアンはオードリー父、グレイス公爵が治める領地の隣の領地を治めるレオニス侯爵の次男で、確か誰かに聞いた話だと、オードリー達より十歳年上だった筈だ。
彼と彼の兄は少し年が離れて居て、だから彼が爵位を継ぐことはまずないということは、本人にとっても周囲にとっても周知の事実であった。
本来、爵位を継いだり王宮や議会に出るのなら、寄宿学校の六年を終えた次は王立の貴族学校に入らねばいけない。しかし彼は寄宿学校を終えると共に、当時出来たばかりの医療学校に通うことを決意した。
オードリー達が初めて彼に会ったのが十年前、彼が兄に連れられ、父グレイス公爵に学費の援助を頼みに来たその時だった。
そして、リアンとオードリー達がが会ったのは、その時が最初で最後、しかも庭園で遊ぶオードリー達を、父に頼まれたリアンが呼びに来た、たった四半時にも満たない時間のことだったのだが。
その時、挨拶以外に碌に言葉を交わさなかった少年に、普段はオードリーより快活で人見知りしない、双子のアニュゼットが何故か怯えてオードリーに始終ひっついて居たから印象に残っていた。
だからこそ、幼いオードリーは彼と彼の兄が帰った後、何故か、いつも以上にオードリーにべったりとなってぐずり出したアニュゼットの目を盗んで、リアンについて聞いたのだ。
そしてその時、父は幼いオードリーに、薬師とは違う医者の大切さを話し、「彼はきっと、良い医者になるよ」と言ってオードリーの頭を撫でた。
それ以降、オードリーはその会話のことも、リアンのこともすっかり忘れていたし会うことも無かったのだが――。
「そういえば、何でリアン様はここに? というよりも、ここは何処なのでしょうか?」
段々と明瞭になって来た頭の働きに、根本的な疑問を思い出した。
改めて周囲を見渡せば、オードリーより遙かに長身の、リアンの脇から僅かに見える、ベッドを覆う天蓋の向こう。オードリーが好きなスカーレットはもとより、より落ち着いた、茶色に近い色など、赤色で統一された趣味の良い内装の部屋に、やはり、全く見覚えがない。
オードリーは、自分の肩にガウンを羽織らせ、診察の為に一度膝まで捲った上掛けをまた丁寧に腰の辺りに引き上げて整えてくれたリアンを見上げて首を傾げた。
「ここは、私の家です。学校時代に使っていたアパートメントをそのまま使っています」
「そうでしたの。でも、何故、わたくしはあなたの家に?」
するとリアンはぴたりと手を止めて、一瞬とても苦しそうに顔を歪めたかと思うと、「落ち着いて聞いて下さいね」とオードリーに言い置いて、上掛けの上に置かれたオードリーの小さな拳を包み込むようにして握った。
その手に籠もった不自然な力と、自分と目を合わせる真剣な青の眼差しに、ドリーはどくっと心臓が跳ねて、手袋越しでも温かなリアンの手の中の手の甲をびくりと強ばらせた。
「リアン様? どうかしたの? 何処かお加減が――」
「私は、グレイス公爵と――あなたのお父様と医者になる約束をしました」
「えぇ、それは先ほど伺いましたが……リアン様っ!?」
リアンは、オードリーが身を起こしたベッドの傍らに膝を突くと、その黒髪が顔に掛かる程に項垂れて俯き――両手に包んだオードリーの手を、徐に自分の額に当て、押し付けた。
普段はカントリーハウスに籠もり切り、異性どころか家族以外の大人にも滅多に触れられたことが無いドリーは思わず大声を上げ、背中の鈍い痛みに喉の奥で小さく呻いた。
それにリアンはびくりと肩を震わせたが――顔を上げる様子は無い。
「リアン、様……?」
「私は――」
一体どうしたんだろうか、狼狽よりも訝しさと不安が勝り、オードリーが未だ痛みのある背中をぎこちなく曲げて、そっと、髪に隠れたリアンの顔を伺おうとした時、俯いていたリアンは震える声で口を開き、伏せた時と同じように、何の予兆もなく、いきなり顔を上げた。
「私は――その約束を果たす為、この度、オードリー様の前に参上しました」
ちょうど、彼の顔を覗き込もうとしていたオードリーと目が合った彼はそう言って、泣きそうな顔で瞳を伏せると、物語の騎士がやるようにオードリーの手の甲に小さく口づけた。
今此処が、リアンの家のベッドの上でなかったなら、子どもらしく物語を嗜み、少女らしく、美しい恋物語や、美しい人、おとぎ話に憧れるオードリーは、彼女に輪を掛けて文学と空想が好きなアニュゼット程ではなくとも、舞い上がってうっとりとしただろう。
もし横に、アニュゼットが居たならば、二人で白い頬を真っ赤に染めて手を叩き合ってはしゃいだかも知れない。だが――。
「……ねぇ、リアン、様。お父様は何処? お母様は? アン――アニュゼットは……」
「……オードリー様」
本来、リアンが今のようにしてその忠誠を誓うべき相手――父たるグレイス公爵が、今この場に居ないことと、その娘でしかなく、社交界に顔さえ見せたことの無い自分が、その代わりに口づけを受けていること。
どうやら怪我をしているらしいオードリーが、こうして一人切りで寝台に寝ているというのに、リアン以外、家族が誰も側に居ないこと。
そして――産まれた時から、夢の中以外では一度も引き離されたことの無い、自分の半身のような妹と、こんなに長く離れて居るという不安。
そうした事象は、個々の意味が理解出来ない幼い身ながらも、何か恐ろしいことが起こっているのだと思わせるには、その小さな心臓が悪い予感に早鐘を打ち、目の前を眩ますには十分であった。
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