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「も……しかして、わたくしは何か、変な病気に罹ってしまったのですか? それで……リアン様、が」
「オードリー様……」

 何か言いたげに口を開き、自分の名前を呼んだリアンが皆まで言う前に、オードリーは目を逸らして俯いた。

 それは無いだろうとオードリーも心の底では分かっている。

 だから、リアンに手を握りしめられたまま、顔を俯かせ、顔にばさりと掛かった背中まである長い黒髪の中で、赤色の瞳はウロウロと彷徨い続けていた。その答えを肯定する、何かを記憶の中に探すように。

「誰かに伝染する……病なんですよね。だからアンは側に居なくて……前にアンが流行り病になった時もそうだったから。いつもの医師と薬師は領地に残ってて、だから縁故のリアン様が――」

 頭に思いつくそれらしい理由をたどたどしく言いながら、オードリーの中には、これが本当だったらいいのにと思う心が――そんな訳が無いと理解している心が確かにあった。

 だから、オードリーは背中の痛み以上の心の痛みで、リアンに手を握られたまま、より顔を伏せて、ぎゅっと眉間に皺を寄せながら目を閉じた。

 まだデヴィユタントも迎えていない、たった少し前にやっと、ナースメイドでなく礼儀
作法の家庭教師に預けられるようになった、子どもでしかないオードリーには、こういう時、どうすればいいのかなどということは、全くもって分からなかったのだ。

「……」
「あの……リアン様……?」

 そんなオードリーを、リアンはその手を握ったまま見下ろし――強く握ったその手を片手で軽く引っ張ると共に、オードリーを抱き寄せて、俯くオードリーの頬を、自分の胸に預けさせるようにして抱き寄せた。

 オードリーが気丈で、レディと呼んで差し支え無い年齢であったなら、許されない無礼であり、恥知らずな暴挙である。と、何処か冷静な所でオードリーは少しだけだが思った。

 思ったが――それ以上に、自分の手を握ったままの手の温かさと、胸に聞こえる自分のでは無い鼓動、そして、バサバサに乱れただろう自分の髪を梳く手の優しさに、身体は強ばりを解いて、安心して身を預けた。

 そうして気付く。シャツの向こうでトクトクと、父の懐中時計のように静かな心臓の音をさせる胸も、オードリーの頭を抱くその手も、胸の中から見上げるタイの抜かれた男の人らしい喉もとも――僅かに震えているということに。

(大人の男の人も――怖い、のかも知れない)

 この、オードリーよりも身体が大きくて年も上で、若くても成人した立派な紳士で。この少しの間でも、公爵のような安心感をオードリーに与えるような、立派な大人の人でも、こうしてその腕の中で震えている幼いオードリーのように、震えるくらい怖いことがあるのだ。

(そして、その怖いことはきっと、私と同じ)

 彼は、自分より大人である彼は、自分と同じ物を恐れ――それはまだ、漠然とした予感でないけれどとても悪くて怖い物だ――そして、大人だから、こうしてオードリーに彼がしてくれるように、抱き寄せて慰めてくれる人は、きっと居ない。

 そして多分、彼はきっと、オードリーが目覚めるまでの間、今のオードリーと同じか、それよりも辛い気分でオードリーの目覚めを待っていたのだろう。

 例えそれが、六年前に一目見ただけの恩人の娘であっても、知っている人が『――』かも知れないというは、きっと大人な彼であっても耐えられないくらい恐ろしいことなのだ。

 恐れても、いいことなのだ。――同じくらい怖がっている人がここに居る。
 そう思ったら、オードリーは自分を抱き寄せるその温もりに、甘えるように額を擦りつけ、同時に、引き攣れるような背中の痛み小さく唸りながら、その父のように広い背中に両腕を伸ばし、宥めるように、トントン、と手の平で叩いた。

 普段、怖い夢を見て起きた彼女らに、ナースメイドや母がやってくれていたように。耳に届く心臓の音より少しゆっくりと、その身体の強ばりを落ち着かせるように。
 その時、彼女を抱き寄せる腕に一瞬、びくりと力が籠もったけれど、その手はまた、オードリーの髪と背中を撫で始めた。

「――お嬢様は、何が起こったのか覚えていらっしゃいますか?」

 段々と落ち着きを取り戻して来たオードリーは、リアンの胸に頬を押し付けたまま、こくりと小さな頭を頷かせて、所々混乱した記憶を辿り、たどたどしくも口を開いた。
 急に変わった自分の呼び名に、疑問を抱きながらも、それを口にする気にはならなかった。

 昨年末、来たるべく社交界シーズンに、グレイス公爵は、いつもはナースメイドに預けてカントリーハウスに留守番させていた娘二人を、今年からタウンハウスに連れて行くことにした。

 彼の双子の娘らは、昨年の誕生日から家庭教師を付け、今までの歴史や国語、手芸といった学問に、マナーや社交に必要な知識の勉強を始めた頃合いだった。
 娘達のことに関してはことに過保護な公爵も、流石にデヴィユタントまであと数年を切った娘らに、都会というものを見せずにいきなり社交界に放り出すべきではないと思ったのだ。

 そういう訳で、公然の秘密としてずっと薔薇咲き誇る、人形の家のように優美なカントリーハウスに仕舞われた――そこでさえ、無用な興味や危険を防ぐ為、十歳を過ぎた頃から、よっぽど親しい客人の前にしか姿を晒さなかった――美貌の娘二人は、社交界シーズンのこの三月初めから、両親と共にタウンハウスに滞在していた。

 しかし、双子には不幸なことに、彼女らの世話役兼家庭教師の女性はオールド・ミスに近づいて来たこの年、どうしても社交の場に顔を出す必要があった。

 なので、シーズン最初の頃は、両親のいずれかとその専属のメイドか従僕、または家庭教師がついて、夜会の無い昼間などは買い物や、庭や公園などの散策に連れて行かれていたものを、今月の半ばから家庭教師が実家に呼び戻された。

 しかも、元々タウンハウスの維持を請け負っているハウスメイドら以外、カントリーハウスから最低限の使用人だけを連れて来た公爵家では、家庭教師の代わりに付けられる使用人が居なかった。

 なので、折角王都に出て来たというのに、双子は年が明けてからの二ヶ月程、夜は勿論、昼も殆ど屋敷の庭までにしか出られないような生活を強いられることになった。

「それで、お父様がそれを申し訳ないって言って――埋め合わせと、わたくしとアンの、お勉強を兼ねて、気候が良くなったら、カントリーハウスに帰る前に、一度オペラに行ってみようと、言って……」

 オードリーはそこまで言って、先ほどまで宥めるように叩いていたリアンの背中に、ぎゅっとしがみついて小鳥のように小さく震えた。

 彼女には小さな確証があった。そこから先のことを思い出すのは、声に出すのは、とんでもなく恐ろしいことだという、その確証が。

 これから先を話したなら、オードリーは今の自分を苛んでいる、大人の男を弱らせ怖がらす程の何かが、一気に自分に襲いかかって来るのだという恐れが――。

 それに気付いたのだろう。先ほどから、しゅるりと絹が擦れるような音を立ててオードリーの髪を梳いてたリアンが、びたと手を止めた。

「……お嬢様」

 胸に押し付けた耳から聞こえた、掠れたような低い声と、やや強まったオードリーを抱きしめる力は、続きを促しているように聞こえる。

 だけれど彼の胸に耳を預けているオードリーは分かった。それは元々のリアンの声でなく、これからオードリーが語る内容への緊張から来るものだと、その胸に顔を押し付けているオードリーには、少し早くなった鼓動と、自分の手を握ったままの手の温度が下がって行く様から分かった。

 きっと彼は、オードリーがこれから語る内容も、その後に待っている、オードリーが知らない結末も、何もかも知った上で彼女にこのことを語らせているのだ。

「それで、今日の夕方……支度して、初めてオペラに行くことに……なったの」

 きっと、彼にも、オードリーの震えは伝わっており――そして、これは論理に基づかない、オードリー以外から見たのなら、いかにも子どもらしい浅慮なのかも知れないが――彼は、リアンは、これからオードリーが受けるべくして受ける何かしらの感情を想像して、オードリーの分までそれを味わっているのではないかと思った。

 だとしたら――彼女が、彼女の分までを一緒に悲しんでいる、この優しい青年にしてやれることは、恐らく結末を知っているであろう彼の苦しみが長続きしないよう、話を先に進めることなのかも知れない。

 その約束から指定された日までの一ヶ月、公爵家のタウンハウスは大騒ぎだった。
 まだ中身も見た目も子どもに近いとはいえ、十も超え、少女らしくもいじましく可愛らしい虚栄心の芽生え出した二人は「レディらしく、二人で当日の自分の装いを決めてごらん」という公爵の教育に習って、毎日メイドを加えて、アレでもないコレでもないと、ドレスと装飾品を並べて話し合った。

 それだけではなく、文学にとても強いアニュゼットがオードリーに教える形で、父公爵が何処からか土産として持ち込んだ、オペラの原作になっているという小説を辞書を片手に読み解き、実際に演じてみようと、ごっこ遊びにも興じた。

 今まで、暇を得た家庭教師に課せられていた課題に興じるまでの時間、殆ど外を歩く紳士や女性の服装についてお互いに意見を言い合うという、父や母に見つかったなら叱られないながらも、やんわりと窘められるだろう遊びしかしていなかった二人にとって、その『勉強』は、今まで受けたどの淑女教育より楽しく胸躍るものだった。

 そうして迎えた当日――朝から降っていた雨の上がった今日の夕方、二人は公爵家の紋章の入った箱馬車に、父、母と向かい合うようにして座って、街の中心にある劇場に向かった。

 「二人とも、ちゃんとレディらしく座っていないといけないよ」と、言った父の約束を自分達がいかに有能に守れるのかを示すように、いつもより背筋をピンと張り、頭から爪先まで、母とメイドの意見を聞きながら二人で選んだスカーレット色のドレスと、それに合わせた装飾品に身を包み、互いの右手と左手を椅子の上でしっかり握り込む。

 そしてチラチラと外を見たり、椅子の上で両脚を揺らしたりと、レデイらしくない振る舞いをする度に、互いの手の甲を抓り合ったり、肘で脇腹をつつき合ったりして忍び笑いを漏らす。

 そんな二人のすました様子に、向かいで談笑する父と母はクスクスと笑ったり、じゃれ合いが行き過ぎた時には言葉や視線でやんわりと窘めたりしつつ。家族は仲むつまじく、オペラの演じられる劇場へ向かっていた。

 外から――大きな叫び声が聞こえて、大きく馬車が揺れるまでは。

「……リアン様、お父様と、お母様と、アンは? 一緒に馬車に乗っていたの。アンとはしっかりと手を繋いでいたわ。なのに、何で私は、一人、なの?」

 オードリーは縋るように抱きついていたリアンからようやっと身を離し、彼の顔を下から見上げて問いかけた。
 疑問の形を取っているものの、その石榴石の瞳には確信の色が燦めいていて、その痛々しさに、リアンは己の胸元を押さえ、苦痛に顔を歪めてその目を見返した。

 公爵に聞いた所、オードリーは年齢の割には聡い気質であるらしい。実際、今までの振る舞いからしても、自分の家族に一体何があったのか、とっくに気付いているのだろう。

 今まで話させた記憶も、たどたどしくも、しっかり順序立てて話しているし、リアンの駆けつけてからの状況とも一致する。

 だから、ショックによる記憶の混乱は起こっていない。
 つまりは――オードリーは自分の身に起きたことをある程度把握した上で、決定的な言の葉をリアンから聞きたがっている。

 幼いながら賢明に、自分の耳と目を澄ませて。人形のように美しい顔から静かに表情を消した、ショックの為だと分かっていても、公爵令嬢らしい楚々とした様子で。
 リアンにその幼い心を引き裂く瞬間を自ら与え、その沙汰を待っている。

「それは――」

 リアンが愛しくも痛々しい、小さな主の初めての求めに答えようと口を開いたその時――寝室の扉がバタンと大きな音を立てて開いた。
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