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「お嬢様っ!!」

 響いた絹を引き裂くような悲鳴を合図に、今までベッドの傍らに膝を突いていたリアンが、オードリーから身体を離し、すっと立ち上がった。

 それを合図にするように、オードリーの視界を狭める天蓋の外からはドタドタと騒がしい足音がして、蝋燭の明かりが僅かに揺らいだ。

 それを認識した次の瞬間には、気付けば傍らに立っていた筈のリアンがベッドから一歩離れており、それと入れ替わるように、淡い黄色い何かが、殆どぶつかるようにしてオードリーを強く強く抱きしめた。

「あぁ、良かったお嬢様……! 本当に良かった……!」

 オードリーの頭を抱えるように抱き込んだ物体は、シュウと空気が狭い場所から漏れる時のような高い声で、殆ど喘ぐようにそう言うと、そのまま首筋に顔を埋め、小さく嗚咽を漏らしながら泣き始めてしまった。

 ピリピリと痛い全身を掻き抱くように引き寄せられて、何か柔らかい物に頬を押しつぶされながら呻いたオードリーは、その痛みと、相手の激しい動揺のおかげで少しだけ冷静さを取り戻して来た。そうしてやっと、自分が顔を押し付けているそこが、大人の女性の胸であることと、その胸元に垂れる、乱れた赤茶の髪の色に気付いた。

 そうして、気付くと共にほぼ条件反射のようにして、自分の身に抱きつく黄色い物体を――黄色いドレスを着た赤茶の髪をした女性を、腕を伸ばして抱き返して、震えるその背中を摩った。

「どうか、どうか泣かないで、マダム・マリアンヌ」
「……っ」

 嗚咽しながらも腕の力を緩め、そばかすの少しだけ散った鼻の頭をイチゴのように赤くして。

 泣きすぎて溶けたように潤んだ、縁の赤く染まった大きな緑の瞳をオードリーに合わせたその女性は、震える唇を引き結んで、オードリーの頬に小さくキスをした。
 頬に震える唇を受けながら彼女の肩越しに目があったリアンは、ベッドの横の壁に背中を預けたまま、呆れた様子でマダム・マリアンヌを見下ろしていた。

 屋敷に籠もりがちでまだ子どもである、オードリーらの知人で、赤茶の髪の女性といえば、十歳から彼女らの淑女教育を請け負っている、このマリアンヌ以外他に居ない。

 彼女は、グレイス公爵の妹が嫁いだ家の末娘――つまり、公爵の義妹であり、双子の叔母に当たる――で、彼女はその縁から公爵に頼まれ、双子の家庭教師をしていた。
 普段、茶色の髪を引っ詰め、黒縁の眼鏡を掛け、地味な黒い服を着て、時に双子の我が儘に困らせられて泣き出す。

 腕は確かでも些か泣き虫なこの家庭教師は、適齢期はやや過ぎて、しかし行き遅れというにはやや若いという微妙な年齢と、末娘とはいえ貴族の傍流であるという血筋の良さから、今シーズンこそ結婚をと実家から迫られ、シーズンの半ばから、グレイス家ではなく、自分家のタウンハウスに滞在していた。

 冬の深まる前、「今回結婚が決まったなら、今生の別れになるかも知れない」と、持ち前の泣き虫を発揮しながらも、ちゃっかり刺繍とダンスの課題を出して行った彼女とタウンハウスの前で別れてもう二ヶ月以上。

 今シーズンはもう帰って来ないと思っていた――普段はきっちりとまとめている赤茶の髪を、所々解れながらも生花を挿してふんわりと結い上げ、いつもの地味な服ではなく、色白な彼女の顔色を良くするような黄色の服を纏い、そして、目印ともいえる眼鏡を取り上げられて焦点の合わない瞳をした彼女が。

 明らかに着替える間もなく、取る物も取らずという様子で、夜会を途中で抜け出して来たかのような格好で。グレイス公爵家のタウンハウスでなく、わざわざリアンの所有するこのアパートメントに駆けつけたその理由は。

 オードリーの頬に唇を落としたまま、また感極まったような様子で嗚咽を漏らして泣き出したその意味は。

(――聞きたくない!)

 今この瞬間まで、はっきりと覚悟していた筈のその結論を、リアンの口から語られることを自ら望み、聞こうと覚悟を決めて耳をそばだてたその結論を、オードリーは咄嗟に心の底で恐怖し、嫌悪し、耳を塞ごうとした。

 しかし、自分の両の耳に震える腕を伸ばすより前に、マリアンヌはまたオードリーにしがみつくようにして抱きつき、腕の中で戦くドリーを、痛ましい者でも見つめるような目で見下ろしてボロボロと泣いて――ついに決定的な一言を口にした。

「オードリーお嬢様だけでも……無事で、本当に良かった!!」

 瞬間、真っ白になったオードリーの頭の中でマリアンヌのその声だけがやけにはっきりと響き、目の前が真っ暗に眩んだような心地がした。

 そして、オードリーの意識の空隙に入り込んだのは、今にも泣きそうな顔をして、サファイア色の瞳を揺らして俯くリアンの姿だった。
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