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 血の気の引いた真っ白い顔で、そこまでを一息に叫んだマリアンヌは、また胸が詰まったかのように胸元を握りしめて呻き、オードリーの膝に倒れ込んだ。
 そのまま、今までのすすり泣きとは比べものにならない勢いで涙を流す。

 それは、辛うじて大人の女性としての節度ある泣き方をしていた時よりも一層の悲壮感を漂わせ、最早泣きわめくと言う表現の方が適切な程に。

 泣き虫とはいえ、それ以外は毅然として、ずっと自分達に淑女の――大人としての教育を施して来た大人の女性が見せる頑是無い姿に、オードリーは、家族の辿った悲壮な結末を思い描くよりも先に、ぽかんと口を開き、しばし呆然とした。

 呆然としながらも――泣き喚くマリアンヌのその姿に、オードリーは、幼い頃のアニュゼットを思い出した。

 アニュゼットは――オードリーの双子の妹は、今よりずっと幼い頃、思い込みが激しく、感受性の豊かな子どもだった。
 怖い夢を見ては、心無い言葉を浴びせられては、年に一度起きるか起きないかの、両親の喧嘩を目撃しては、今のマリアンヌのように泣いて喚いて、人形を抱きしめるようにしてオードリーに縋った。

 対してオードリーは、アニュゼットの前でだけは、年齢以上に我慢強い子どもだった。アニュゼットが泣けば泣くほど冷静になり、「どうしようドリー!」と縋られれば縋られる程、目尻に溜まった涙は乾く。

 そうして、何が可愛いアニュゼットを泣かせているのか、取り乱すアニュゼットの代わりに考えて、そこに矛盾や誤解があれば解決し、どうしようもない悲しみがあれば、涙が止まるまで抱き合い続けた。

 そんなオードリーの物心付いてからずっと続いた習い性は――心身共に弱っているらしい、今この時にも発揮されようとしていた。
 彼女の頭は、冷静になって考える――彼女が何故泣いているのか、リアンがオードリーに残酷な、少なくともマリアンヌからすればオードリーに聞かせるに相応しくない話をしたからだ。つまり、彼女はオードリーの為に泣いている。

 そして、オードリーは幼子のように泣きじゃくる、この大人の女性を使役する、小さな女主人である。本来の主人は父と母なのだろうが――その名代の主人として、彼女にはマリアンヌを宥め、慰める義務がある。

 主人を憂いて泣く、使用人を慰めるには――それには、マリアンヌが心配するほど、今の話に、オードリーが傷付いていないという態度を取る必要がある。

「マリー……」

 そう思い、掠れた声で、あえて双子は呼ぶことを許されていない、彼女の愛称を呼ぶ。

 そうして次に言うべき言葉はこうだ。「私は平気。だから泣かないでマリー」そう言って、母が客人や使用人頭の前でするように、女主人然として鷹揚に笑わなければいけない。

 なのに――どうしたことだろう。オードリーの身体は冷たく冷え切って、マリアンヌの背中に回した腕さえも上手く動かせない。

 身体が冷え切り、まるで関節が凍ったように軋み、笑顔が浮かべられず、上手く声が出て来ない。

(――寒い)

 今は社交界シーズンも終盤。冬の間、工場の煙と、王都の中心を流れる川から上がる霧と、厚い雲とに覆われていた空も段々と晴れて、王都にも春の気配が近づいている。しかも今は泣きすぎて熱を持ったマリアンヌにぎゅっと抱きしめられている。

 なのに、オードリーは、まるで冬の夕方に、誤ってアニュゼットと共に暖房の無い燃料小屋に閉じ込められてしまった時のように、寒くて寒くて仕方ない。
 彼女を慰めようにも、寒さを訴えようにも、声を出すことも身体を動かすことも出来ない。

(どう……すれば……?)

 困って、上手く焦点の合わないまま宙に彷徨わせたオードリーの視線は、その時。鈍くなった心の琴線に、ちくりと触れるような鋭い青い光を視界の端に認め、咄嗟にその青を追い、そこへ視線を合わせた。

 焦点の合ったオードリーの瞳の先では、リアンが腕を組み壁に凭れ、先ほどと変わらず、こちらを――正確には、オードリーに抱きついて泣きじゃくるマリアンヌを見ていた。
 だけれど、先ほどまで女性に対して失礼では無い程度の同情を湛えて暗く沈んでいたその瞳に今あるのは、はっきりとした侮蔑の色だった。

「っ……!」

 オードリーは寒さに固まったまま、ひくりと震える喉の奥で思わず息を呑んだ。
 リアンは、表情こそは殆ど変わらず、ほぼ無表情だ。だけれどその青い目だけが、先ほどまでの、オードリーへの甘やかな気遣いや、悲壮を耐えるような色を無くしたその冷ややかな眼差しは、はっきりとした嫌悪を宿している。

 口の代わりに物を言うような冷ややかな瞳。それはまるで、彼女らの父が珍しく双子を叱る時と似ている。父は悪いことをした二人を書斎に呼び出すと、何も言わず、目を逸らさずじっと見つめることで叱った。

 期待も怒りも、言葉さえなく、ただ失望を貼り付けたその眼差しに、大抵最初に屈し、泣いて許しを請うのはまずアニュゼットだったが、尊敬する父に失望され掛けるというその体験は、オードリーにも深く刷り込まれ、最も効果的な恐怖の対象になっていた。

 だから、オードリーは、自分に向けられた訳ではないのに、リアンのその眼差しから、完全に目を逸らせなくなり、蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。
 視線が合ってさえいない、その冴え冴えと輝く鋭いサファイアから、目を逸らしたが最後、彼に失望されてしまうような気がして。何故か、オードリーは、それだけは避けたいと思った。

 彼に軽蔑されないが為に――この後、どんな風に現実を突きつけられても、幼い子どもには酷な現実を突きつけられようと、決して、マリアンヌのように泣き叫ぶまい。

 自分を主と呼んだ、父公爵の約束を果たしに来たという、リアンを、決して失望させるるまい。何故だかその瞬間、オードリーはそう思った。

(きっと、あの眼差しを自分に向けられたその時、私は死んでしまうんだわ――)

 自分の中で絶対の規則のように、芯を持った謎の確信に、オードリーが、こくりと小さく喉を鳴らしたその時。

 それを合図にするように、今まで冷たくマリアンヌを見ていたリアンの瞳がふと揺らぎ、オードリーの、燃えるように赤いソレと強く視線を絡めた。
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