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オードリー・グレイス六歳
 
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プロローグ:薔薇の下の秘密
 グレイス侯爵家の待望の第一子にして長女と次女である、オードリー・グレイスとアニュゼット・グレイスの双子は、互いの物心が付くか付かないかの頃から、それは仲の良いことで有名であった。

 また、父譲りの濡れたような光沢を持つ癖のない理知的な黒髪と、母譲りの石榴石より尚赤い情熱的な瞳、そして、それらを存分に幼いうちから匂い立つ艶やかな美貌でも。

 黙って二人並んでいるとまるで対の人形が立っているように見目麗しいその姿は、仲睦まじい様子と相俟って誰もを虜にした。
 だから、侯爵という立場上、決して少なくはない客人達は、幼い今のうちにグレイス家の双子に気に入られようと、こぞって彼女らに会いたがった。
 公爵と親しい人間はその気の置けない友人や付き合いの立場を生かして双子に会いたがり、双子を見るだけでなく公爵とのコネクションを得たい人間は双子をダシに公爵との面会を希望した。

 身分も、年齢も違う彼らに唯一共通することといえば、大体が貴族か羽振りのいい商人であることと、
まるで珍しい動物やそれこそ人形でも鑑賞するかのように、何かと彼女らの顔を見たがっては、こぞって「人形のようだ」とか「外国の女王様のよう気高くに麗しい」とか誉めそやすことだった。

 しかし、当の彼女らといえば、幼い少女らしく己を飾り付けることや磨くことに興味を持ってはおれど、誰もが美しいと誉める両親と自分と全く同じ顔の姉妹が居る屋敷の中が世界の全てであった。

 なので、己らの容貌をいくら贅を尽くした言葉で誉められた所で、そこに特に何の感慨もない。

 客人の前で、それこそ対の人形のように、すましてじっとしていられる時間など、毎回、客人がお茶を飲み終わるまでの、せいぜい数十分くらいのことだ。
 それよりも、と、姉妹で手を取り駆け出して、黙ってすましていれば艶やかな美貌も遙かに霞むように子どもらしい、ともすれば憎たらしいとも取られるような、悪戯とお転婆を発揮するのみ。

「それではわたくしたちは、しつれいしますわ」

 どちらともなくそう言って、スカートの裾を摘んで揃ってぴょこりとお辞儀をすれば、
後は何処へなりとも駆けて行ってしまう。
 立派な女王様の住まう王都から比較的離れた田舎の、しかし国内の羊毛と酪農とをほぼ一手に任された広い酪農地ばかりの領地にあるカントリーハウスの、美しく手入れされた花の咲き誇る庭や、白い壁と赤の煉瓦の屋根、がアシンメトリーに作られた屋敷の廊下。

 それらの場所を、その小さな背格好だけでなくその見目麗しさまでもが定規で図ってしつらえたようにそっくりな二人が、朗らかに笑いながら駆け回るその姿。
 それは、洗練されたレディの姿とも、大人の理想とする従順な子どもの像ともかけ離れている。

 しかし、かけ離れていながら何処か、手入れの良い黒い子猫のじゃれ合うような無邪気さと気品があって、父であるグレイス侯爵や母である侯爵婦人や使用人だけでなく――当の双子にすげなく振られた客人をも微笑ましい気分にさせるのである。

「またやってしまったわね、ドリー」
「またやってしまったわね、アン」

 互いの手を引っ張り合いながら、綺麗に磨かれた廊下を走るオードリーとアニュゼット。しかし、殊勝な言葉とは裏腹に、そっくりな顔はどちらも、申し訳無さとは無縁の輝きを放って見つめ合う。

 幼い双子にだっていくら丁寧に淑女の礼を取った後だとしても、客人を放り出して外に駆け出すことがどんなに不作法かは勿論分かっているし――絶対に失礼があってはいけない客の場合には、大人しくしておくように前もって言われている――父や母を訪ねて来た客の目的が自分達だというのも重々と承知している。

 でも――分かってはいても、それを受け入れるかは全くの別というものだ。
 何故なら、幼い双子にとって、二人で過ごすこの時間は無限の物ではなくて、寧ろ、いくらあっても足りないものなのだ。

 だからこそ、今日も双子は、姉の俊敏なオードリーが好奇心旺盛だけれど少しおっとりしたアニュゼットの手を半歩前から引いて、黒髪に栄えるお揃いのスカーレット色のドレスの裾を揺らして、今日も今日とていつの間にか互いに本気になって順番を競い、庭に向かって廊下をひた走るのだ。

「はやく、はやくアン! ひつじさんがいっちゃうよ」
「まってよドリー。そんなにいそいだら、おかがのぼれないよ!」
「なら、ドリーがアンをおぶるわ! だからはやく!!」

 しかも予定の押している今日という日などは特に時間がない。
 二人はこれから、日が上り切る前に庭の真ん中にある、芝で覆われた小山を上ってその頂上にある東屋のテーブルに登って、使用人や両親に見つからないように背伸びをして。柵の間から遙か向こうの草原に放牧される羊の群を見なくてはいけないし、お茶の時間の前には部屋に戻って、「王子とお姫様ごっこ」をしなくてはいけないのだ。

 大抵の場合、王子様を引き受けるのは聡明で俊敏な姉のオードリーで、お洒落が好きでおっとりしているアニュゼットがお姫様役だ。

 けれど、たまには自分は侍女や女王様の役を引き受けて、オードリーを思うさま飾り付けてお姫様にしたいとアニュゼットは思っているし、そう思えばオードリーを説得しておめかしをする時間も設けなければならない。

 ――やはり、幼い自分たちの時間なんてものは、いくらあってもぜんぜん足りない。

 だって――来月の六歳の誕生日には二人に家庭教師があてがわれる予定であるし、それから十年経とうものなら、二人とも十六歳になってデヴィユタントの年を迎えて、今までとは違い、色も形も何一つお揃いじゃないドレス与えられて。

 それぞれ、全く似ても似つかない、別の男の子にエスコートされなければならない。
 ひっきりなしに来るお客様や、双子に毎朝、お揃いのドレスを――二人とも瞳と同じスカーレット色が好きで、しかも同じデザインじゃないと納得できないからどうしても多くなる――着付ける使用人が感嘆混じりに言う「美しい」や「麗しい」という賞賛の言葉を素直に信じるならば。

 そうやってレビュタントを迎えたのならすぐ、美しい互いにはあっという間に結婚相手が出来て、コルセットの紐を緩める間もなく婚礼衣装を着せられて、別れの挨拶もそこそこにバラバラの家に嫁がされてしまうだろう。
 だから――鏡に写したようにそっくりな二人が一緒に居れて、同じ家で同じように遊んで同じように学び、同じ誉め言葉に胸を張って、同じ部屋の同じベッドで寝ていられる時間なんて、もうこの世界に殆ど無いに等しいのだ。

 二人が二人と家族だけを愛していられる時間なんて、瞬きする間に過ぎて行き――二人はきっと、他の皆が言うように、互いを愛するより激しい恋を知ってしまう。

「さぁ、アン、もーちょっとよ」
「うん、ドリー。わたし、がんばるわ」

 こうやって、小山の頂上で大げさな仕草で膝を突いて、中々坂が上れないアニュゼットに右手を差し出すオードリーがアニュゼットの王子様で居られる時間も、その右手に縋って引っ張り上げて貰うアニュゼットが、オードリーのお姫様で居られる時間も、限られている。

「わぁ! ねぇドリー、まるでしろいうみみたいだね」
「もう、アンったら、わたしたち、うみなんてみたこともないじゃない」

 こうやって二人で並んで座った芝生に立った丸い柱の東屋の石造りのテーブルの上で、遙か遠くの地平線を埋め尽くすかのように走り回る羊の群に感嘆の声を上げていられるのんびりとした時間も、明日には誰かに「そんな子どもっぽい遊びはやめなさい」と叱られて、取れなくなってしまうかも知れない。

 だからこそ、双子は誰よりも互いを愛していた。

 いつか自分たちの夫に注ぐ分まで、大人になるとするという、恋に対する憧れと恐れの分だけ。

 そして、未来に彼女が後にそれを悟った時――その時にはもう、彼女は恋というものに飛び込んだ後だった。

 愛情も友情も友愛も人生も、全ては、限りがあるから美しい。幼い少女に誰も、そんなことを教えてはくれなかった。
 先にそれを知っていれば、あんな約束などしなかったのに、そう後悔出来る年齢になった頃には、何もかもが遅かったのだ。

「ねぇ、ドリー」
「……なぁに、アン」
「ねぇ、やくそくしない?」

 いや、彼女だけは――アニュゼットだけは分かっていたのかも知れない。
 聡明なオードリーさえも気付かないその事実を。

 自分たちの絆の強さの裏側にある物を、自分の姉妹がいつか、自分の愛情を裏切るということを。

 だから、オードリーより想像力が豊かで絵本とごっこ遊びが大好きなアニュゼットは、羊に夢中のオードリーのスカーレット色をしたドレスの裾を引っ張って、そんなことを言い出したのかも知れない。

 石造りの東屋のよく磨かれた半円の屋根に掛かる、二人が大好きな深紅の薔薇の気を見上げて指さして、「ばらのしたでのひみつをつくろう」と言って、悪戯っぽく笑い、口の上に人差し指を添えて。

「あのね、わたしたちがおおきくなって、おばあちゃんになって……どちらかが、しんでしまったらね、そのおはかにね、かたほうが、おはなを、まいにち、ささげにくるの」
「はなって……なんのはな? しろいゆり?」
「ううん。あのね、わたしたちのおはなは、アレにしよう?」

 そう言って、アニュゼットは、くすんだ青空に枝を伸ばす蔓薔薇の上に沢山付いた赤い花をまた見上げて、クスクスと笑った。
 それだけで、オードリーにはアニュゼットの言いたいことが分かって、ぱっと顔を輝かせたから、アニュゼットも自分が言いたいことが伝わったのだと分かった。
 それで、嬉しくなって、一層興奮して自分の思いつきを早口でオードリーに言って聞かせた。

「あのね、スカーレットのドレスをきてね、まっかなばらをささげてね、ちかうの、わたしたちしまいのあいはえいえんだって」
「まぁ! それって、ふくしんのとも、みたいね」

 聡明なオードリーは、最近、寝る前にお母様が読んでくれる、オードリーやアニュゼットより、少しお姉さんが読むような絵の少ない本に出て来た難しい言葉を使ってみた。

 たまにお父様がお仕事の手紙を読みながら呟くのと同じ言葉だから覚えていた、ふくしん、が何か。オードリーは実の所全く知らないが、多分、使い方は間違っていないだろうと思った。

「えぇ、でも、わたしとドリーは、とも、よりおもいし、こいびとよりあいしあってるわ」
「そうね、わたし、アンのことが、だんなさまよりだいじだわ!」
「えぇ、わたしもドリーが、どんなおとこのこよりすきよ!」

 だって、たまに家に来る男の子達は、意地悪だし、仲間に入れてくれないんですもん。
 そう言って膨れるアニュゼットに、オードリーは苦笑して、「この屋敷のどんなに素敵な場所を教えてあげたって、退屈だとしか言わないものね、男の子って」と呟いて、テーブルに行儀悪く座って、アンに習って空と、空に伸びる赤い薔薇の花を見上げた。

「ね、やくそくね、ドリー」
「うん、やくそくね、アン」

 そうして二人は、誰も見ていない薔薇の下で小さな秘密を誓い合った。
 この先、二人はどんな風に引き離されても、誰のお嫁さんになったとしても「腹心の姉妹である」ことを。

 お互い、どんなに遠く離れても、誕生日にはどちらかの家に集まること。
 そして――どちらかが死んでしまったら、その墓にスカーレット色のドレスで駆けつけて、見つからないようにして、深紅のリボンで束ねた赤い薔薇を捧げること。
 薔薇に誓った姉妹の絆は、死んでからも永遠で――死後の魂は夫や子どもの為でなく、互いの為にのみあること。

 それらを互いに声に出し合って確かめ合い、ドリーはアンの、アンはドリーの足下に交代で騎士のように跪いて。騎士が女王様に忠誠を誓う時のようにして、互いの指に口づけた。

 死が二人を分かつ日までの、他言無用のその誓いが、一生果たされることがないなど知りもせずに。
 
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赤い部屋にて
 
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教育機関の数え方が変かも知れないのでつっこみが来る前に補足。
(イギリスは〜19歳が寄宿学校だと気付いちゃったので)

家庭での教育や通いの学校(〜11歳)→寄宿学校(〜16歳)→→王宮を目指すなら王立の上の学校、それ以外は弟子入りしたり各仕事の専門学校に進学

というのが、一般的な貴族の男子の進路って感じの、ヴィクトリアンというよか旧日本のような制度で考えていました。

オードリー達貴族の子女は、十歳くらいまでは王家と家の家系図や詩画など叩き込まれ、思春期前から淑女教育に入る感じです。

十六歳が成人の世界で十歳からでは遅すぎないかというつっこみは無しで。
 オードリー・グレイスが目覚めたのは、ふかふかのベッドの中だった。

 遠い視界にあるのは血のような色をした重たげなビロードで、オードリーは規則正しく並ぶその赤色を見上げて数度長い睫をしばたたせて瞬きした。

 きょろきょろと視界を動かし、オードリーは初めて自分が、彼女の好きなスカーレット色より少し落ち着いた赤色の天蓋の付いた広いベッドに寝かされていることを認識した。
 顔を僅かに横向けると、天蓋には僅かな隙間が開いており、そこから揺らめく蝋燭の火と、それに揺れる人影のような物が僅かに揺れた。

「いっ……た」

 それが何を意味するのか、ここが何処だかを考える前に身体を寝台の上に起こそうとしたオードリーは、しかし、腹に僅かに力を入れただけで背中を中心に全身に広がった痛みに小さく呻き、脱力した。

 と、同時に、ばさりと天蓋がまくれ、端からちらちらと見えていた蝋燭の明かりがはっきりと天蓋に差し込み――同時に仰向けで呻くオードリーの上に大きな影が覆い被さった。

「んっ……」
「気がつきましたか、オードリー様」

 掛けられた声に、急に明るくなった視界に眩んで閉じていた深紅の瞳をオードリーが開くと、その目の前には、オードリーに覆い被さるようにして心配そうに顔を覗き込む青年の顔があった。

 整った顔に落ちる何処か乱れた黒髪にサファイアのような深い色をした青い瞳のその人は、十二歳のオードリーより遙かの年上の、しかし年若い青年は、まばたきも忘れてまじまじと見つめ返すオードリーの視線を受け止めたまま、ほっとしたように息を漏らし、彼女の額に手を置いた。

「私が誰か――お分かりになりますか?」
「――その、目」

 そのまま、オードリーの額どころか目頭まで覆うような手袋をした大きな手が、気遣わしげオードリーの頬を撫でるのを合図に、魅入られたかのように青年の顔を――特に深い青色の目をじっと見ていたオードリーはハッと目を見開いて、自分の記憶を探った。

 幼い自分と違って大人の、美貌の青年には面識がなかったが、その目には、黒髪に青の目という特徴には覚えがあった。

 その筆頭の人間は、噂で聞くだけでまだ社交界に出たことの無いオードリーは実際に会ったことは無かったが、もう一人には昔、確かに――。

「あなた……リアン様でしょう? 隣の、レオニス侯爵家の次男の……」
「えぇ――よく覚えておいでですね」

 心無しか、少し嬉しそうに目を細めたリアンに、オードリーも頬に手を置かれたまま、つられて目を細めた。


「リアン様……は、お医者様になられると、お聞きしましたが」
「えぇ、あなたのお父様とそうお約束をし、この度、一年間の従軍義務を終え、無事に医者となりました」
「それは、おめでとうございます」

 頭を上げようとして再び呻いたオードリーを、リアンは大きな手に腕とで背中を支えて起こし、背中とベッドヘッドの間に枕を入れて身体を固定する。
 どんな風にしているのか、その自然な手際の良さは、オードリーに全く痛みを感じさせなかった。

 これが医者の手業なのだろうかと、オードリーは内心で首を傾げながらも、その手にされるがままにされながら、リアンと言葉を交わした。

「ありがとうございます。――少々、失礼しますね」

 そのままリアンは、いつの間に着替えたのか、白い清潔な寝間着を着たオードリーの目を覗き込んだり、腕を撫でたりしながら、オードリー自身の、オードリーには分からないことを調べ始めた。

「どうやら、骨等に損傷は無いようですが……頭は、痛くないですか?」
「えぇ、大丈夫です」
「ならばきっと、強く打ったりはしなかったのですね――良かった、本当に良かった」

 意識がはっきりすると共に、次第にはきはきとした受け答えの出来るようになって来たオードリーの米神を、リアンはほっとしたような、何か辛さを耐えたような様子でそっと撫でた。

 その時やっと、オードリーは、先ほどリアンが触れた額や、今触れられている米神の近くがチリリと痛むことに気付いた。
 どうやら、顔や頭の所々に擦り傷が出来ているらしい。

 リアンはオードリー父、グレイス公爵が治める領地の隣の領地を治めるレオニス侯爵の次男で、確か誰かに聞いた話だと、オードリー達より十歳年上だった筈だ。

 彼と彼の兄は少し年が離れて居て、だから彼が爵位を継ぐことはまずないということは、本人にとっても周囲にとっても周知の事実であった。

 本来、爵位を継いだり王宮や議会に出るのなら、寄宿学校の六年を終えた次は王立の貴族学校に入らねばいけない。しかし彼は寄宿学校を終えると共に、当時出来たばかりの医療学校に通うことを決意した。

 オードリー達が初めて彼に会ったのが十年前、彼が兄に連れられ、父グレイス公爵に学費の援助を頼みに来たその時だった。
 そして、リアンとオードリー達がが会ったのは、その時が最初で最後、しかも庭園で遊ぶオードリー達を、父に頼まれたリアンが呼びに来た、たった四半時にも満たない時間のことだったのだが。

 その時、挨拶以外に碌に言葉を交わさなかった少年に、普段はオードリーより快活で人見知りしない、双子のアニュゼットが何故か怯えてオードリーに始終ひっついて居たから印象に残っていた。

 だからこそ、幼いオードリーは彼と彼の兄が帰った後、何故か、いつも以上にオードリーにべったりとなってぐずり出したアニュゼットの目を盗んで、リアンについて聞いたのだ。

 そしてその時、父は幼いオードリーに、薬師とは違う医者の大切さを話し、「彼はきっと、良い医者になるよ」と言ってオードリーの頭を撫でた。

 それ以降、オードリーはその会話のことも、リアンのこともすっかり忘れていたし会うことも無かったのだが――。

「そういえば、何でリアン様はここに? というよりも、ここは何処なのでしょうか?」

 段々と明瞭になって来た頭の働きに、根本的な疑問を思い出した。
 改めて周囲を見渡せば、オードリーより遙かに長身の、リアンの脇から僅かに見える、ベッドを覆う天蓋の向こう。オードリーが好きなスカーレットはもとより、より落ち着いた、茶色に近い色など、赤色で統一された趣味の良い内装の部屋に、やはり、全く見覚えがない。

 オードリーは、自分の肩にガウンを羽織らせ、診察の為に一度膝まで捲った上掛けをまた丁寧に腰の辺りに引き上げて整えてくれたリアンを見上げて首を傾げた。

「ここは、私の家です。学校時代に使っていたアパートメントをそのまま使っています」
「そうでしたの。でも、何故、わたくしはあなたの家に?」

 するとリアンはぴたりと手を止めて、一瞬とても苦しそうに顔を歪めたかと思うと、「落ち着いて聞いて下さいね」とオードリーに言い置いて、上掛けの上に置かれたオードリーの小さな拳を包み込むようにして握った。

 その手に籠もった不自然な力と、自分と目を合わせる真剣な青の眼差しに、ドリーはどくっと心臓が跳ねて、手袋越しでも温かなリアンの手の中の手の甲をびくりと強ばらせた。

「リアン様? どうかしたの? 何処かお加減が――」
「私は、グレイス公爵と――あなたのお父様と医者になる約束をしました」
「えぇ、それは先ほど伺いましたが……リアン様っ!?」

 リアンは、オードリーが身を起こしたベッドの傍らに膝を突くと、その黒髪が顔に掛かる程に項垂れて俯き――両手に包んだオードリーの手を、徐に自分の額に当て、押し付けた。

 普段はカントリーハウスに籠もり切り、異性どころか家族以外の大人にも滅多に触れられたことが無いドリーは思わず大声を上げ、背中の鈍い痛みに喉の奥で小さく呻いた。
 それにリアンはびくりと肩を震わせたが――顔を上げる様子は無い。

「リアン、様……?」
「私は――」

 一体どうしたんだろうか、狼狽よりも訝しさと不安が勝り、オードリーが未だ痛みのある背中をぎこちなく曲げて、そっと、髪に隠れたリアンの顔を伺おうとした時、俯いていたリアンは震える声で口を開き、伏せた時と同じように、何の予兆もなく、いきなり顔を上げた。

「私は――その約束を果たす為、この度、オードリー様の前に参上しました」

 ちょうど、彼の顔を覗き込もうとしていたオードリーと目が合った彼はそう言って、泣きそうな顔で瞳を伏せると、物語の騎士がやるようにオードリーの手の甲に小さく口づけた。

 今此処が、リアンの家のベッドの上でなかったなら、子どもらしく物語を嗜み、少女らしく、美しい恋物語や、美しい人、おとぎ話に憧れるオードリーは、彼女に輪を掛けて文学と空想が好きなアニュゼット程ではなくとも、舞い上がってうっとりとしただろう。
 もし横に、アニュゼットが居たならば、二人で白い頬を真っ赤に染めて手を叩き合ってはしゃいだかも知れない。だが――。

「……ねぇ、リアン、様。お父様は何処? お母様は? アン――アニュゼットは……」
「……オードリー様」

 本来、リアンが今のようにしてその忠誠を誓うべき相手――父たるグレイス公爵が、今この場に居ないことと、その娘でしかなく、社交界に顔さえ見せたことの無い自分が、その代わりに口づけを受けていること。

 どうやら怪我をしているらしいオードリーが、こうして一人切りで寝台に寝ているというのに、リアン以外、家族が誰も側に居ないこと。

 そして――産まれた時から、夢の中以外では一度も引き離されたことの無い、自分の半身のような妹と、こんなに長く離れて居るという不安。
 そうした事象は、個々の意味が理解出来ない幼い身ながらも、何か恐ろしいことが起こっているのだと思わせるには、その小さな心臓が悪い予感に早鐘を打ち、目の前を眩ますには十分であった。
 
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「も……しかして、わたくしは何か、変な病気に罹ってしまったのですか? それで……リアン様、が」
「オードリー様……」

 何か言いたげに口を開き、自分の名前を呼んだリアンが皆まで言う前に、オードリーは目を逸らして俯いた。

 それは無いだろうとオードリーも心の底では分かっている。

 だから、リアンに手を握りしめられたまま、顔を俯かせ、顔にばさりと掛かった背中まである長い黒髪の中で、赤色の瞳はウロウロと彷徨い続けていた。その答えを肯定する、何かを記憶の中に探すように。

「誰かに伝染する……病なんですよね。だからアンは側に居なくて……前にアンが流行り病になった時もそうだったから。いつもの医師と薬師は領地に残ってて、だから縁故のリアン様が――」

 頭に思いつくそれらしい理由をたどたどしく言いながら、オードリーの中には、これが本当だったらいいのにと思う心が――そんな訳が無いと理解している心が確かにあった。

 だから、オードリーは背中の痛み以上の心の痛みで、リアンに手を握られたまま、より顔を伏せて、ぎゅっと眉間に皺を寄せながら目を閉じた。

 まだデヴィユタントも迎えていない、たった少し前にやっと、ナースメイドでなく礼儀
作法の家庭教師に預けられるようになった、子どもでしかないオードリーには、こういう時、どうすればいいのかなどということは、全くもって分からなかったのだ。

「……」
「あの……リアン様……?」

 そんなオードリーを、リアンはその手を握ったまま見下ろし――強く握ったその手を片手で軽く引っ張ると共に、オードリーを抱き寄せて、俯くオードリーの頬を、自分の胸に預けさせるようにして抱き寄せた。

 オードリーが気丈で、レディと呼んで差し支え無い年齢であったなら、許されない無礼であり、恥知らずな暴挙である。と、何処か冷静な所でオードリーは少しだけだが思った。

 思ったが――それ以上に、自分の手を握ったままの手の温かさと、胸に聞こえる自分のでは無い鼓動、そして、バサバサに乱れただろう自分の髪を梳く手の優しさに、身体は強ばりを解いて、安心して身を預けた。

 そうして気付く。シャツの向こうでトクトクと、父の懐中時計のように静かな心臓の音をさせる胸も、オードリーの頭を抱くその手も、胸の中から見上げるタイの抜かれた男の人らしい喉もとも――僅かに震えているということに。

(大人の男の人も――怖い、のかも知れない)

 この、オードリーよりも身体が大きくて年も上で、若くても成人した立派な紳士で。この少しの間でも、公爵のような安心感をオードリーに与えるような、立派な大人の人でも、こうしてその腕の中で震えている幼いオードリーのように、震えるくらい怖いことがあるのだ。

(そして、その怖いことはきっと、私と同じ)

 彼は、自分より大人である彼は、自分と同じ物を恐れ――それはまだ、漠然とした予感でないけれどとても悪くて怖い物だ――そして、大人だから、こうしてオードリーに彼がしてくれるように、抱き寄せて慰めてくれる人は、きっと居ない。

 そして多分、彼はきっと、オードリーが目覚めるまでの間、今のオードリーと同じか、それよりも辛い気分でオードリーの目覚めを待っていたのだろう。

 例えそれが、六年前に一目見ただけの恩人の娘であっても、知っている人が『――』かも知れないというは、きっと大人な彼であっても耐えられないくらい恐ろしいことなのだ。

 恐れても、いいことなのだ。――同じくらい怖がっている人がここに居る。
 そう思ったら、オードリーは自分を抱き寄せるその温もりに、甘えるように額を擦りつけ、同時に、引き攣れるような背中の痛み小さく唸りながら、その父のように広い背中に両腕を伸ばし、宥めるように、トントン、と手の平で叩いた。

 普段、怖い夢を見て起きた彼女らに、ナースメイドや母がやってくれていたように。耳に届く心臓の音より少しゆっくりと、その身体の強ばりを落ち着かせるように。
 その時、彼女を抱き寄せる腕に一瞬、びくりと力が籠もったけれど、その手はまた、オードリーの髪と背中を撫で始めた。

「――お嬢様は、何が起こったのか覚えていらっしゃいますか?」

 段々と落ち着きを取り戻して来たオードリーは、リアンの胸に頬を押し付けたまま、こくりと小さな頭を頷かせて、所々混乱した記憶を辿り、たどたどしくも口を開いた。
 急に変わった自分の呼び名に、疑問を抱きながらも、それを口にする気にはならなかった。

 昨年末、来たるべく社交界シーズンに、グレイス公爵は、いつもはナースメイドに預けてカントリーハウスに留守番させていた娘二人を、今年からタウンハウスに連れて行くことにした。

 彼の双子の娘らは、昨年の誕生日から家庭教師を付け、今までの歴史や国語、手芸といった学問に、マナーや社交に必要な知識の勉強を始めた頃合いだった。
 娘達のことに関してはことに過保護な公爵も、流石にデヴィユタントまであと数年を切った娘らに、都会というものを見せずにいきなり社交界に放り出すべきではないと思ったのだ。

 そういう訳で、公然の秘密としてずっと薔薇咲き誇る、人形の家のように優美なカントリーハウスに仕舞われた――そこでさえ、無用な興味や危険を防ぐ為、十歳を過ぎた頃から、よっぽど親しい客人の前にしか姿を晒さなかった――美貌の娘二人は、社交界シーズンのこの三月初めから、両親と共にタウンハウスに滞在していた。

 しかし、双子には不幸なことに、彼女らの世話役兼家庭教師の女性はオールド・ミスに近づいて来たこの年、どうしても社交の場に顔を出す必要があった。

 なので、シーズン最初の頃は、両親のいずれかとその専属のメイドか従僕、または家庭教師がついて、夜会の無い昼間などは買い物や、庭や公園などの散策に連れて行かれていたものを、今月の半ばから家庭教師が実家に呼び戻された。

 しかも、元々タウンハウスの維持を請け負っているハウスメイドら以外、カントリーハウスから最低限の使用人だけを連れて来た公爵家では、家庭教師の代わりに付けられる使用人が居なかった。

 なので、折角王都に出て来たというのに、双子は年が明けてからの二ヶ月程、夜は勿論、昼も殆ど屋敷の庭までにしか出られないような生活を強いられることになった。

「それで、お父様がそれを申し訳ないって言って――埋め合わせと、わたくしとアンの、お勉強を兼ねて、気候が良くなったら、カントリーハウスに帰る前に、一度オペラに行ってみようと、言って……」

 オードリーはそこまで言って、先ほどまで宥めるように叩いていたリアンの背中に、ぎゅっとしがみついて小鳥のように小さく震えた。

 彼女には小さな確証があった。そこから先のことを思い出すのは、声に出すのは、とんでもなく恐ろしいことだという、その確証が。

 これから先を話したなら、オードリーは今の自分を苛んでいる、大人の男を弱らせ怖がらす程の何かが、一気に自分に襲いかかって来るのだという恐れが――。

 それに気付いたのだろう。先ほどから、しゅるりと絹が擦れるような音を立ててオードリーの髪を梳いてたリアンが、びたと手を止めた。

「……お嬢様」

 胸に押し付けた耳から聞こえた、掠れたような低い声と、やや強まったオードリーを抱きしめる力は、続きを促しているように聞こえる。

 だけれど彼の胸に耳を預けているオードリーは分かった。それは元々のリアンの声でなく、これからオードリーが語る内容への緊張から来るものだと、その胸に顔を押し付けているオードリーには、少し早くなった鼓動と、自分の手を握ったままの手の温度が下がって行く様から分かった。

 きっと彼は、オードリーがこれから語る内容も、その後に待っている、オードリーが知らない結末も、何もかも知った上で彼女にこのことを語らせているのだ。

「それで、今日の夕方……支度して、初めてオペラに行くことに……なったの」

 きっと、彼にも、オードリーの震えは伝わっており――そして、これは論理に基づかない、オードリー以外から見たのなら、いかにも子どもらしい浅慮なのかも知れないが――彼は、リアンは、これからオードリーが受けるべくして受ける何かしらの感情を想像して、オードリーの分までそれを味わっているのではないかと思った。

 だとしたら――彼女が、彼女の分までを一緒に悲しんでいる、この優しい青年にしてやれることは、恐らく結末を知っているであろう彼の苦しみが長続きしないよう、話を先に進めることなのかも知れない。

 その約束から指定された日までの一ヶ月、公爵家のタウンハウスは大騒ぎだった。
 まだ中身も見た目も子どもに近いとはいえ、十も超え、少女らしくもいじましく可愛らしい虚栄心の芽生え出した二人は「レディらしく、二人で当日の自分の装いを決めてごらん」という公爵の教育に習って、毎日メイドを加えて、アレでもないコレでもないと、ドレスと装飾品を並べて話し合った。

 それだけではなく、文学にとても強いアニュゼットがオードリーに教える形で、父公爵が何処からか土産として持ち込んだ、オペラの原作になっているという小説を辞書を片手に読み解き、実際に演じてみようと、ごっこ遊びにも興じた。

 今まで、暇を得た家庭教師に課せられていた課題に興じるまでの時間、殆ど外を歩く紳士や女性の服装についてお互いに意見を言い合うという、父や母に見つかったなら叱られないながらも、やんわりと窘められるだろう遊びしかしていなかった二人にとって、その『勉強』は、今まで受けたどの淑女教育より楽しく胸躍るものだった。

 そうして迎えた当日――朝から降っていた雨の上がった今日の夕方、二人は公爵家の紋章の入った箱馬車に、父、母と向かい合うようにして座って、街の中心にある劇場に向かった。

 「二人とも、ちゃんとレディらしく座っていないといけないよ」と、言った父の約束を自分達がいかに有能に守れるのかを示すように、いつもより背筋をピンと張り、頭から爪先まで、母とメイドの意見を聞きながら二人で選んだスカーレット色のドレスと、それに合わせた装飾品に身を包み、互いの右手と左手を椅子の上でしっかり握り込む。

 そしてチラチラと外を見たり、椅子の上で両脚を揺らしたりと、レデイらしくない振る舞いをする度に、互いの手の甲を抓り合ったり、肘で脇腹をつつき合ったりして忍び笑いを漏らす。

 そんな二人のすました様子に、向かいで談笑する父と母はクスクスと笑ったり、じゃれ合いが行き過ぎた時には言葉や視線でやんわりと窘めたりしつつ。家族は仲むつまじく、オペラの演じられる劇場へ向かっていた。

 外から――大きな叫び声が聞こえて、大きく馬車が揺れるまでは。

「……リアン様、お父様と、お母様と、アンは? 一緒に馬車に乗っていたの。アンとはしっかりと手を繋いでいたわ。なのに、何で私は、一人、なの?」

 オードリーは縋るように抱きついていたリアンからようやっと身を離し、彼の顔を下から見上げて問いかけた。
 疑問の形を取っているものの、その石榴石の瞳には確信の色が燦めいていて、その痛々しさに、リアンは己の胸元を押さえ、苦痛に顔を歪めてその目を見返した。

 公爵に聞いた所、オードリーは年齢の割には聡い気質であるらしい。実際、今までの振る舞いからしても、自分の家族に一体何があったのか、とっくに気付いているのだろう。

 今まで話させた記憶も、たどたどしくも、しっかり順序立てて話しているし、リアンの駆けつけてからの状況とも一致する。

 だから、ショックによる記憶の混乱は起こっていない。
 つまりは――オードリーは自分の身に起きたことをある程度把握した上で、決定的な言の葉をリアンから聞きたがっている。

 幼いながら賢明に、自分の耳と目を澄ませて。人形のように美しい顔から静かに表情を消した、ショックの為だと分かっていても、公爵令嬢らしい楚々とした様子で。
 リアンにその幼い心を引き裂く瞬間を自ら与え、その沙汰を待っている。

「それは――」

 リアンが愛しくも痛々しい、小さな主の初めての求めに答えようと口を開いたその時――寝室の扉がバタンと大きな音を立てて開いた。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 赤い部屋にて > 3
3
「お嬢様っ!!」

 響いた絹を引き裂くような悲鳴を合図に、今までベッドの傍らに膝を突いていたリアンが、オードリーから身体を離し、すっと立ち上がった。

 それを合図にするように、オードリーの視界を狭める天蓋の外からはドタドタと騒がしい足音がして、蝋燭の明かりが僅かに揺らいだ。

 それを認識した次の瞬間には、気付けば傍らに立っていた筈のリアンがベッドから一歩離れており、それと入れ替わるように、淡い黄色い何かが、殆どぶつかるようにしてオードリーを強く強く抱きしめた。

「あぁ、良かったお嬢様……! 本当に良かった……!」

 オードリーの頭を抱えるように抱き込んだ物体は、シュウと空気が狭い場所から漏れる時のような高い声で、殆ど喘ぐようにそう言うと、そのまま首筋に顔を埋め、小さく嗚咽を漏らしながら泣き始めてしまった。

 ピリピリと痛い全身を掻き抱くように引き寄せられて、何か柔らかい物に頬を押しつぶされながら呻いたオードリーは、その痛みと、相手の激しい動揺のおかげで少しだけ冷静さを取り戻して来た。そうしてやっと、自分が顔を押し付けているそこが、大人の女性の胸であることと、その胸元に垂れる、乱れた赤茶の髪の色に気付いた。

 そうして、気付くと共にほぼ条件反射のようにして、自分の身に抱きつく黄色い物体を――黄色いドレスを着た赤茶の髪をした女性を、腕を伸ばして抱き返して、震えるその背中を摩った。

「どうか、どうか泣かないで、マダム・マリアンヌ」
「……っ」

 嗚咽しながらも腕の力を緩め、そばかすの少しだけ散った鼻の頭をイチゴのように赤くして。

 泣きすぎて溶けたように潤んだ、縁の赤く染まった大きな緑の瞳をオードリーに合わせたその女性は、震える唇を引き結んで、オードリーの頬に小さくキスをした。
 頬に震える唇を受けながら彼女の肩越しに目があったリアンは、ベッドの横の壁に背中を預けたまま、呆れた様子でマダム・マリアンヌを見下ろしていた。

 屋敷に籠もりがちでまだ子どもである、オードリーらの知人で、赤茶の髪の女性といえば、十歳から彼女らの淑女教育を請け負っている、このマリアンヌ以外他に居ない。

 彼女は、グレイス公爵の妹が嫁いだ家の末娘――つまり、公爵の義妹であり、双子の叔母に当たる――で、彼女はその縁から公爵に頼まれ、双子の家庭教師をしていた。
 普段、茶色の髪を引っ詰め、黒縁の眼鏡を掛け、地味な黒い服を着て、時に双子の我が儘に困らせられて泣き出す。

 腕は確かでも些か泣き虫なこの家庭教師は、適齢期はやや過ぎて、しかし行き遅れというにはやや若いという微妙な年齢と、末娘とはいえ貴族の傍流であるという血筋の良さから、今シーズンこそ結婚をと実家から迫られ、シーズンの半ばから、グレイス家ではなく、自分家のタウンハウスに滞在していた。

 冬の深まる前、「今回結婚が決まったなら、今生の別れになるかも知れない」と、持ち前の泣き虫を発揮しながらも、ちゃっかり刺繍とダンスの課題を出して行った彼女とタウンハウスの前で別れてもう二ヶ月以上。

 今シーズンはもう帰って来ないと思っていた――普段はきっちりとまとめている赤茶の髪を、所々解れながらも生花を挿してふんわりと結い上げ、いつもの地味な服ではなく、色白な彼女の顔色を良くするような黄色の服を纏い、そして、目印ともいえる眼鏡を取り上げられて焦点の合わない瞳をした彼女が。

 明らかに着替える間もなく、取る物も取らずという様子で、夜会を途中で抜け出して来たかのような格好で。グレイス公爵家のタウンハウスでなく、わざわざリアンの所有するこのアパートメントに駆けつけたその理由は。

 オードリーの頬に唇を落としたまま、また感極まったような様子で嗚咽を漏らして泣き出したその意味は。

(――聞きたくない!)

 今この瞬間まで、はっきりと覚悟していた筈のその結論を、リアンの口から語られることを自ら望み、聞こうと覚悟を決めて耳をそばだてたその結論を、オードリーは咄嗟に心の底で恐怖し、嫌悪し、耳を塞ごうとした。

 しかし、自分の両の耳に震える腕を伸ばすより前に、マリアンヌはまたオードリーにしがみつくようにして抱きつき、腕の中で戦くドリーを、痛ましい者でも見つめるような目で見下ろしてボロボロと泣いて――ついに決定的な一言を口にした。

「オードリーお嬢様だけでも……無事で、本当に良かった!!」

 瞬間、真っ白になったオードリーの頭の中でマリアンヌのその声だけがやけにはっきりと響き、目の前が真っ暗に眩んだような心地がした。

 そして、オードリーの意識の空隙に入り込んだのは、今にも泣きそうな顔をして、サファイア色の瞳を揺らして俯くリアンの姿だった。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 赤い部屋にて > 4
4
「事故、だったんです」

 その秀麗な顔から表情を消し、青い瞳をオードリーに向けて。
 抑揚の薄い、ぞくりとするくらい低くしっとりとした声でそう言ったリアンの声を、オードリーは自分の膝に縋って未だ泣き続けるマリアンヌの頭を、猫か何かにするようにぎこちなく撫でながら聞いていた。

 やはりこちらも表情を一切無くした、幼い聡明さの光が消えた石榴石の色の目をリアンのそれと合わせて見つめる。

 瞬きも忘れた様子のオードリーの機械的に動き続ける手は、まるで幼い子どものように泣き叫び続ける、自分より年上の家庭教師への哀れみではなく、理性と共に残った、貴族の矜持のような動いていた。

 自分の使用人が泣いている。だから、主として宥め、慰める義務がある。例えそれが――自分の保護者も同じ家庭教師であり、今ここに居る中で一番近しい近親であるとしても。

 そうした認識と貴族として刷り込まれている矜持が、たったソレだけが、この哀れで幼い小さな君主の手を動かしている。
 家柄こそ違えど、同じ貴族の子女として幼少期を過ごしたリアンには、それが痛い程に伝わって来て、それが彼の表情を奪っている。

「お嬢様らの乗った馬車と擦れ違った、馬車の車輪が外れて――それが運悪く、お嬢様達の馬車を引く馬の脇腹に――」

 しかし、表情の無い、作り物か何かのような彼の声だけは、全く抑揚がなく、それこそ懐中時計のように機械的であるのに、聞いているこちらの胸が痛くなるような苦みが籠もっている。

 ――その中に、僅かに砂糖のような甘さを感じるのは、それだけ自分の心が弱っているからだろうか。

 遠い間隔のどこかで、何処か他人事のように自分の心の機微を観察しながら、オードリーはそんなことを考え、リアンが、内容だけは努めて事務的に説明する事故の状況を在り在りと頭に描こうとする己の想像力から逃避していた。

「じゃあ、馬車が揺れたあの時――?」
「えぇ、恐らくその時に事故が起こったのでしょう。馬車から投げ出されたお嬢様を見たという方がいらっしゃりました」

 それでも、リアンの言葉は聞き取りやすく、それでいて適度な重さと、その瞳の色のように冷たい煌めきを持って、空っぽのオードリーの中に情報として蓄積して行き、その中に生じた疑問を、リアンに質問することで勝手に補って行く。

 知りたくない、それは今でも思っている。だけれど、自分を、家族を襲った惨劇について――聞けば聞く程、最早そうとしか表現出来ない――知らない箇所がある方が怖いと、オードリーは思い始めていた。

 それに、グレイス公爵家令嬢として、自分の家に何が起こったのか――これからどうなるのか、厭でもオードリーは知らねばいけないのだ。
 それが、グレイス家の娘として生まれた、己の義務であると、幼くも貴族である彼女は本能で知っていた。

「なら、私の擦り傷と打ち身は、その時……?」
「えぇ、お嬢様の怪我とその様子は、聞いた箇所と一致しています。――幸いなのは、聞いて浮かべた想像よりも、よっぽど軽傷だったことですが」
「――ひいいいっ!」

 淡々と情報を交わすリアンとオードリーの話を聞く度、オードリーの膝に縋った哀れなマリアンヌは、引き攣れたような悲鳴を上げて、一層激しく、頑是無い幼子のように泣き出す。

 散々頭を振ったせいで飾り立てた花が抜け、ただ泣き続けるその哀れな姿は、まるで、怪談で聞くパンシーのようだ。 

 アニュゼットと二人で、木々を抜ける風が女の悲鳴のように聞こえる、風の強い夜に思い出して、二人で震えながら抱き合って眠ったその怪談。
 死者の出る家に赴いては、本人を前に悲壮感漂う泣き声を上げて泣きじゃくる女の幽霊――その不吉な想像に、オードリーはびくりと肩を震わせた。

 これじゃあまるで、みんな死んでしまうみたいではないか――そこまで考え、オードリーは肩を竦めて内心で苦笑した。

 オードリーの頭は、もう、現状を受け止めたつもりでいるのに、大人のように振る舞っているつもりなのに、オードリーの幼い心は、まだ現実を受け入れられずに悪あがきをしている。

(死んでしまうも何も、みんな、きっともう――)

「腹に車輪の一撃を受け、その勢いのまま転んだ馬に引きずられて――折しも、上がったばかりの雨に濡れた石畳に滑り、馬車はその場で横転。投げ出された中でお嬢様だけが道の端の側溝に落ちました」

 小さな身体であったのと、早くに気絶してそのまま抵抗無く投げ出されたのが良かったのでしょう。

 良かった、というその一言を言うのに僅かに躊躇うような間を開けて、リアンはそう言った。派手に転がったし、その側溝の壁で、額や頬に僅かに擦り傷を作ったけれど、地面にそのまま投げ出されるよりは、よっぽど幸運だった、と。

 自分の身体の幅と殆ど変わらないような側溝に投げ出され、打ち身と擦り傷を負ってまだ幸運だったとは、一体どういう状況なのだろうか。
 オードリーはぶるりと身震いをしたが、次には自分の恐怖を認識するより先に、頭に浮かんだ疑問を口にしていた。

「――ねぇ、リアン、様。アンは、アンはどうしたの? 私が小さくて助かったんなら……頭から爪先まで、全く同じ大きさのアンは?」

 オードリーのその質問を、リアンは予見していたのだろう。オードリーがマリアンヌを撫でる手さえ止め、今まで何の色も無かった石榴石の瞳に燃えるような炎を宿し。

 半身を乗り出して唸るようにそう聞けば、リアンは今までで一番苦しげに顔を歪め――オードリーに縋り付くマリアンヌを心配するかのようにして目を伏せた。
 ごくり、と、蝋燭による濃い陰影を宿した喉仏が動くのを、彼が次に何を言うのかを、オードリーは拳を握りながらじっと見据えた。

「お嬢様以外の皆さんは、馬車の走っていた道とは反対側の、道の上にそのまま投げ出されました。ちょうど、横転した馬車が目隠しになるような角度で。三人ともすぐには起き上がらず――強く身体を打って起き上がれなかったのかも知れませんが――その為、対向から来た馬車は咄嗟に気付くのが遅れ……」

 その時、先に顔を歪めて俯いたのは、オードリーだったろうか、それともリアンだったろうか。

「旦那様は――グレイス公爵は、車輪の下敷きになりかけたアニュゼット様を抱えて庇い、馬に背骨を踏み抜かれて前輪に踏まれ。奥様はといえばその車輪にドレスの裾を巻き込まれて、石畳に俯せたまま引きずられて――どうやら強く頭を打ったのが直接の、原因のようですが」
「やめて下さい!!」

 その時、ずっとオードリーの膝に伏せていたマリアンヌが、突然大声と共に顔を上げ、半身を捻って涙で濡れた大きな目を細め、キッと射すくめるような視線でもって、リアンを睨み上げた。

「お嬢様は、オードリー様はまだ幼くていらっしゃいます!! それなのに、なのに、こんな残酷な話をするなんて………!」
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 赤い部屋にて > 5
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 血の気の引いた真っ白い顔で、そこまでを一息に叫んだマリアンヌは、また胸が詰まったかのように胸元を握りしめて呻き、オードリーの膝に倒れ込んだ。
 そのまま、今までのすすり泣きとは比べものにならない勢いで涙を流す。

 それは、辛うじて大人の女性としての節度ある泣き方をしていた時よりも一層の悲壮感を漂わせ、最早泣きわめくと言う表現の方が適切な程に。

 泣き虫とはいえ、それ以外は毅然として、ずっと自分達に淑女の――大人としての教育を施して来た大人の女性が見せる頑是無い姿に、オードリーは、家族の辿った悲壮な結末を思い描くよりも先に、ぽかんと口を開き、しばし呆然とした。

 呆然としながらも――泣き喚くマリアンヌのその姿に、オードリーは、幼い頃のアニュゼットを思い出した。

 アニュゼットは――オードリーの双子の妹は、今よりずっと幼い頃、思い込みが激しく、感受性の豊かな子どもだった。
 怖い夢を見ては、心無い言葉を浴びせられては、年に一度起きるか起きないかの、両親の喧嘩を目撃しては、今のマリアンヌのように泣いて喚いて、人形を抱きしめるようにしてオードリーに縋った。

 対してオードリーは、アニュゼットの前でだけは、年齢以上に我慢強い子どもだった。アニュゼットが泣けば泣くほど冷静になり、「どうしようドリー!」と縋られれば縋られる程、目尻に溜まった涙は乾く。

 そうして、何が可愛いアニュゼットを泣かせているのか、取り乱すアニュゼットの代わりに考えて、そこに矛盾や誤解があれば解決し、どうしようもない悲しみがあれば、涙が止まるまで抱き合い続けた。

 そんなオードリーの物心付いてからずっと続いた習い性は――心身共に弱っているらしい、今この時にも発揮されようとしていた。
 彼女の頭は、冷静になって考える――彼女が何故泣いているのか、リアンがオードリーに残酷な、少なくともマリアンヌからすればオードリーに聞かせるに相応しくない話をしたからだ。つまり、彼女はオードリーの為に泣いている。

 そして、オードリーは幼子のように泣きじゃくる、この大人の女性を使役する、小さな女主人である。本来の主人は父と母なのだろうが――その名代の主人として、彼女にはマリアンヌを宥め、慰める義務がある。

 主人を憂いて泣く、使用人を慰めるには――それには、マリアンヌが心配するほど、今の話に、オードリーが傷付いていないという態度を取る必要がある。

「マリー……」

 そう思い、掠れた声で、あえて双子は呼ぶことを許されていない、彼女の愛称を呼ぶ。

 そうして次に言うべき言葉はこうだ。「私は平気。だから泣かないでマリー」そう言って、母が客人や使用人頭の前でするように、女主人然として鷹揚に笑わなければいけない。

 なのに――どうしたことだろう。オードリーの身体は冷たく冷え切って、マリアンヌの背中に回した腕さえも上手く動かせない。

 身体が冷え切り、まるで関節が凍ったように軋み、笑顔が浮かべられず、上手く声が出て来ない。

(――寒い)

 今は社交界シーズンも終盤。冬の間、工場の煙と、王都の中心を流れる川から上がる霧と、厚い雲とに覆われていた空も段々と晴れて、王都にも春の気配が近づいている。しかも今は泣きすぎて熱を持ったマリアンヌにぎゅっと抱きしめられている。

 なのに、オードリーは、まるで冬の夕方に、誤ってアニュゼットと共に暖房の無い燃料小屋に閉じ込められてしまった時のように、寒くて寒くて仕方ない。
 彼女を慰めようにも、寒さを訴えようにも、声を出すことも身体を動かすことも出来ない。

(どう……すれば……?)

 困って、上手く焦点の合わないまま宙に彷徨わせたオードリーの視線は、その時。鈍くなった心の琴線に、ちくりと触れるような鋭い青い光を視界の端に認め、咄嗟にその青を追い、そこへ視線を合わせた。

 焦点の合ったオードリーの瞳の先では、リアンが腕を組み壁に凭れ、先ほどと変わらず、こちらを――正確には、オードリーに抱きついて泣きじゃくるマリアンヌを見ていた。
 だけれど、先ほどまで女性に対して失礼では無い程度の同情を湛えて暗く沈んでいたその瞳に今あるのは、はっきりとした侮蔑の色だった。

「っ……!」

 オードリーは寒さに固まったまま、ひくりと震える喉の奥で思わず息を呑んだ。
 リアンは、表情こそは殆ど変わらず、ほぼ無表情だ。だけれどその青い目だけが、先ほどまでの、オードリーへの甘やかな気遣いや、悲壮を耐えるような色を無くしたその冷ややかな眼差しは、はっきりとした嫌悪を宿している。

 口の代わりに物を言うような冷ややかな瞳。それはまるで、彼女らの父が珍しく双子を叱る時と似ている。父は悪いことをした二人を書斎に呼び出すと、何も言わず、目を逸らさずじっと見つめることで叱った。

 期待も怒りも、言葉さえなく、ただ失望を貼り付けたその眼差しに、大抵最初に屈し、泣いて許しを請うのはまずアニュゼットだったが、尊敬する父に失望され掛けるというその体験は、オードリーにも深く刷り込まれ、最も効果的な恐怖の対象になっていた。

 だから、オードリーは、自分に向けられた訳ではないのに、リアンのその眼差しから、完全に目を逸らせなくなり、蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。
 視線が合ってさえいない、その冴え冴えと輝く鋭いサファイアから、目を逸らしたが最後、彼に失望されてしまうような気がして。何故か、オードリーは、それだけは避けたいと思った。

 彼に軽蔑されないが為に――この後、どんな風に現実を突きつけられても、幼い子どもには酷な現実を突きつけられようと、決して、マリアンヌのように泣き叫ぶまい。

 自分を主と呼んだ、父公爵の約束を果たしに来たという、リアンを、決して失望させるるまい。何故だかその瞬間、オードリーはそう思った。

(きっと、あの眼差しを自分に向けられたその時、私は死んでしまうんだわ――)

 自分の中で絶対の規則のように、芯を持った謎の確信に、オードリーが、こくりと小さく喉を鳴らしたその時。

 それを合図にするように、今まで冷たくマリアンヌを見ていたリアンの瞳がふと揺らぎ、オードリーの、燃えるように赤いソレと強く視線を絡めた。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 赤い部屋にて > 6
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 リアンは、オードリーと視線を絡めた途端、それまで浮かんでいた冷ややかな侮蔑と無表情を消し、何処か夢から覚めたようにぼんやりと、オードリーの顔を見た。

 そう、思ったその瞬間には、リアンの冴え冴えとした青い瞳には、砂糖漬けのスミレのような優しく甘い色が浮かび、在るか無いかの僅かな微笑の気配に細められた。
 オードリーはその瞬間、ほんの一瞬だけ息を忘れ、全ての音が――泣きじゃくるマリアンヌの声どころか、自分の立てる僅かな衣擦れの音までもが――そこから消えたような気がした。

 だけれど、それはほんの一瞬のことで、リアンは次の瞬間には、大きく目を見開いて瞬きも忘れた様子のオードリーに対して心配そうに眉根を寄せ。

 次に、先ほど儀礼的にマリアンヌに向けて目を伏せて見せた仕草よりもはっきりと、その顔に心配と同情の色を浮かべてみせた。

 それを合図にするように、今度はオードリーの耳に、まるで夢から覚めたかのように、色々な音が入り込んだ。泣き声や衣擦れ、だけでなく、今まで冷え切っていた身体の隅々までを暖めようとするかのように、急に激しく脈打ち始めた心臓の音と。

 今まで、可愛そうなマリアンヌには殆ど動かされなかった、何処かの凍り付いたかのようなオードリーの心は、その時まるで、自分にだけ向けられた、リアンの眼差し一つで簡単に解凍されたようだった。

 何故そんな風になるのか、リアンにそれが出来るのか、その時まだ幼かったオードリーには分からなかった。だが。

(この人は、とても不思議な人だ――)

 そんな感慨と共に、オードリーは今なら言える気がした。
 最後に一人残された伯爵令嬢として――グレイス家の系譜の人間として、頭ではもう結論付いていても、リアンの――医者の言葉ではっきりと確認すべき、その事実を。

「ねぇ、リアン様」
「――なんでしょう、お嬢様」
「みんなは……グレイス公爵家の当主と婦人、そしてその令嬢は、皆、馬車に曳かれて死んでしまったのですか? 直系の令嬢である、わたくしを残して」

 今まで声に出すことを恐れていたその一言は、喉から零れてみると、案外簡単なことであり――そして同時に、当人であるオードリー以外が聞いたとしたら、何て間抜けで滑稽な内容なのだろうと思った。

 再三、遠回しに説明されていたことを、わざわざ、書類に残す時に使うような「正式な言葉」で事務的に言い直して聞いている自分も、まるで物語に出てくる、物わかりの悪く、教訓や親のお説教が理解出来ない馬鹿な娘のようで間抜けだ。

 まるで、何かの冗談や、たまにアニュゼットと盗み見てはマリアンヌに叱られた、タブロイドの風刺画のように滑稽ではないか。

 ――王家とも浅からぬ繋がりがある、当主が議員としての発言権さえ持つ、由緒正しいグレイス公爵家が、幼い娘一人だけを残して馬車に曳かれて全滅だなんて。

「こんなに間抜けな滅び方、他にあるのかしら……」

 独り言のつもりのその言葉は、いつの間にか喉から滑り落ちて声になっていた。だけれどオードリーはそれに気付かず、ぎゅっと唇を噛みしめ、上掛けの裾を手の色が白く代わるような力で握りしめた。

「お嬢様ッ!!」

 だけれど、いよいよ喉からこの場にそぐわない、小さな笑い声を上げようとしたオードリーを止めたのは、涙をおさめ、オードリーの両頬を叩くように両手で強く挟んだマリアンヌだった。

 それは、泣き虫のマリアンヌが双子を叱る時の癖で――マリアンヌは鞭が嫌いで、双子を折檻する時は専ら音の割に痛みの少ない平手打ちを使っていた――そうされると、滅多に打たれるような悪い言葉や態度を取らないオードリーは、叩かれたことと痛みに驚いて、子どもらしい癇癪も、反抗的な態度も、その驚きで全て忘れてしまう。 

「お嬢様、いけません。それは悪い言葉です……公爵様を、奥様を貶める、悪い言葉と態度です!」

 打たれた頬の痛みと、自分を覗き込むマリアンヌの瞳の苛烈さに虚を突かれたオードリーは、怒りに燃える緑の瞳に映る自分の――しょっちゅう癇癪を起こしてはマリアンヌに戒められる、アニュゼットそっくりな顔を見返した。

 リアンには、マリアンヌのその姿が、見当違いの怒りを孕んだ、女性特有のヒステリーのように見えた。

 彼女のその反応が、医者の卵として、兵役の軍医として、実際の医者として。
 何度も立ち会って来た死の現場で時折見かける、悲しみの強さに理性が負けた女性の姿に似ていたからだ。

 今まで身も世も無く泣き叫んで悼んでいた、主人夫婦の、義理とはいえ近しい兄姉の死。
 その悲しみに浸る時間を終え、今度は同じ悲しみを共有したいという心を――共有出来る唯一の人間である筈のオードリーの冷静さと冷たい聡明さ、そして死人への嘲笑と取れる言葉に裏切られ、今度は悲しみを怒りに変える段階に来たのだと、リアンはそう思った。

「ミセス・マリアンヌ――」

 だから、リアンは一度目を閉じて眉間を親指と人差し指で軽く押さえると、マリアンヌがオードリーにこれ以上危害を加えないように、つとめて冷静な声で名前を呼び、そっとその肩に触れて、オードリーから引き剥がそうとしたが。

「ごめんなさい、マリアンヌ。わたくしが、悪かったわ」

 マリアンヌに頬を捕まれたまま、一つ大きく、意識してゆっくりと瞬きをしたオードリーは、怒りに燃えるマリアンヌの瞳をじっと見返し、一つ一つ言い聞かせるように言い、自分の頬に掛かったその手に、自分の両手を添えてそっと引き離して膝の上に置かせ、宥めるようにその肩を叩いた。

 その姿は端から見たなら、叱られてしおらしく反省する子どもというよりも、逆に、急に暴れ出した幼い子どもを宥め、尚かつソレを許す、オードリーより遙かに年長のナースメイドのように見えた。

 尤も、この場所で唯一の観客であるリアンには、彼女を一目見たその日から、裡にある物が起こす作用によって、それよりも何十倍も尊い、人に例えるのも烏滸がましいある存在のように見えたのだが。

「ねぇ、リアン様――」

 だけれど、リアンの裡に科学変化のように起こったその感慨は、漸くその側を許されたその当人の呼びかけによって霧散した。

「リアン様、答えて。あなたの――お医者様の口から聞きたいの。みんな、わたくしの敬愛する家族は、みんな、今夜限りでみんな、死んでしまったのね」

 そう言ったオードリーの瞳は、やはり宗教画の中の天使のように真っ直ぐで、今までのような、よく言えば人間や子どもらしい揺らぎは一切見られない。

 自身も少なからず怪我を負ったというのに、未だ涙一つ流さないまま、静かに家族の死を、自分の言葉で受け入れ、現実として飲み込んで行くその様は、運命に殉じることを決めた聖女のように痛々しい。

 寧ろ、公爵令嬢らしくなく、身も世も無く泣いてくれたら良かったのに――そう考え、リアンは澄んだその瞳から何度めかも分からない逃げを打って目を逸らした。
 愚かなことだ。そうやって泣かれたのなら、彼はきっと、『医者』として、彼女の従者として、今のようにここに立ってなど居られまい。

「残念ながら――」

 その言葉がオードリーの言葉に宛てたものなのか、それとも彼女の、何度揺らいでも決して頽れない心に対しての物なのか。

 リアンには今この時も、この後に思い返してみた時にも、一向に分からないのであった。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 赤い部屋にて > 7
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 この時、オードリーが何かを口にする前に行動を起こしたのはやはりマリアンヌだった。

 彼女は空気の漏れるような短い悲鳴を上げ、ついに半分乗り上げていたオードリーの寝台からも滑り落ち、床に敷かれた赤いラグの毛を掴むように丸まって震えた。

「マリアンヌ――」

 その背中を追おうと、寝台の上で身を乗り出し、その手を寝台の下に伸ばそうとしたその時――彼女のその両頬を、薬草の匂いがするひんやりした大きな手が包み込んだ。
 見上げると、今まで寝台から少し離れた所に立っていたリアンが、床に蹲るマリアンヌの身体の分の距離をあけて、またオードリーの傍らに立っていた。

 「リアン、様」

 呼びかけて見上げると、彼はオードリーの呼びかけに応えるように、その手で軽く頬を撫でてくれた。手袋ごしでないその人間の肌特有の冷たさは、先ほど打たれたマリアンヌの手の熱と、興奮に火照った頬に丁度よい温度で、オードリーはほうっと小さく息を吐いた。

 すると、彼は何か言いたげにその唇を動かした後、その長身を急に屈めて、オードリーの額に自分の額を当て、驚くオードリーが何かを言うより前に、憂いに目を伏せて、囁くように言った。

「申し訳ありませんお嬢様、私のせいです。私が――私がもっと早く駆けつけていれば……!」
「リアン様?」
「……私は、今日、公爵様と奥様、お嬢様らにお会いする予定でした。グレイス公爵家の従医として、オペラの上映される劇場で」

 リアンは、オードリーから身を離し、泣きじゃくるマリアンヌを抱き起こして寝台の端に座らせると、胸の上に手を乗せて目を伏せて。オードリーに、主に許しを請うように、静かに話始めた。

 リアンは元々、医療学校を卒業した折には、最終的には公爵家の領地で医院を持つか、医師の仕事に就くという約束で学費の援助を受けていた。

 そしてこの約束の今年、無事に医者となった彼は、公爵から直々に、屋敷で住み込みの医者として勤めて欲しいという要請を受けた。

 リアンはそれを快諾し、今期の社交界シーズンが終わり、公爵家の面々がカントリーハウスに戻る時に、一緒に付いて行くこととなった。今日は、その打ち合わせの場であり、公爵の家族への挨拶の場として設けられた席であった。

「グレイス公爵は――旦那様は、言っておりました。お嬢様ら二人とも、そろそろ大人の男性というものの存在に慣れるべきだと思っていたから、私と生活を共にするのはいい機会だろうと」

 リアンは、彼女らを幼い頃から見ている薬師のように穏やかな年寄りという訳でもなく、かといって若すぎず、適度に分別のある年で、おまけに出自もはっきりしていて、貴族としての心得もある。

 更に十歳の年齢差とあれば、一昔前の王侯貴族ならば親子程と言って良い年の差がある。二人が公爵の予想する以上にリアンに懐いても、よっぽどのことがなければ間違いなど起こらないだろう。普通なら、そう考える。

「それに――オペラの後、会食の席で発表するつもりだと旦那様は言っておりましたが――」

 そこでリアンは言いよどみ、じっとオードリーの顔を見て、一度呼吸を止めるかのように黙り、胸元のシャツを一層に握りしめた。
 オードリーが話の続きを促すかどうか――どう考えても愉快な話じゃないとは分かっていたが――迷うだけの間が開き、口を開き掛けた時。

「来年のシーズン前には――お嬢様に、弟か妹が産まれる予定でした」

 リアンは、青い瞳に真摯な色を乗せ、オードリーに向かい、はっきりとした口調で、そう言った。
 それに息を呑んだのは、オードリーだったろうか、それともマリアンヌだったろうか。

 公爵夫人の妊娠が発覚したその時に、公爵はリアンを呼び戻すことを決めたらしい。
 というのも、医者に関する法整備が遅れ、今年やっと王立の医療学校から第一期生を排出したばかりのこの国には医者の絶対数が少なく、王宮の覚え目出度いグレイス公爵領といえど、正式に医者と呼べる身分の人間は居ないのであった。

 居るのは、それぞれの薬屋、または治療所に於いて、徒弟制度で教育された産婆や薬師だけで、公爵家に定期的に通い、双子らの体調を見る腕の良い老薬師もあくまで私的に活動する薬師だ。

 法の変わった今、彼らに出来るのは薬での治療や分娩の手伝いくらいで、妊娠中の経過を見たり、病気の予防をしたりといった細々とした世話や診察は出来ないのである。

 更に分娩の途中、不足の事態に陥ったとして、そうした時には監督として一人医者を置かねばいけない決まりとなっていた。

 いつか医者が必要になる――まさか自分の妻の妊娠がその時とは考えなかったろうが――そう分かっていたからこそ、グレイス公爵は、出来たばかりの在って無いような学校に進学しようというリアンに対し、少なくない額の金を『貸与』ではなく『援助』として与えたのだろう。

「……私の役割は、奥様の出産までの経過を従医としてお側で見守ることと、やがて産まれるご弟妹のことで寂しい思いをされるだろうお二人の、話し相手でした」

 決して二人が寂しくないように、デヴィユタントの時までに異性と気負わずに会話する技術を身につけられるように。

 リアンは言わば実際には、公爵が大切に愛しむ子ども達の為に――オードリーの為だけに雇われたようなものなのである。

 彼女が寂しくないように、立派なレディとして世に出られるように、やがて大人になり大輪の薔薇として咲こうという蕾を守る為だけに。

 オードリーが何処に出しても恥ずかしくない公爵令嬢となる手助けが出来、共に過ごすことが出来る――彼は、それで満足だった。

 鷹揚な公爵と、彼女の妹。その他彼女を慕い、心配する人間が彼を雁字搦めに縛り付け、結果として、それだけで我慢が出来る筈だったのに。

 近頃あちらこちらに溢れる詩や、見せ物小屋で演じられる芝居が言うように――神というのは、本当は何処までも残酷な存在なのだろうか。

「リアン、様?」
「あぁ、すみません、お嬢様」

 何処か、悲しい夢を見るように虚空に向き、眇められていたリアンの瞳が、オードリーが掛けた言葉にはっと見開かれ、再び彼女の方に向いた。

 だけれど、ほんの一瞬、とまどったように揺れたその瞳に、まだ悲しい夢から覚めやらないような、そんな暗い悲しみが宿っているのを見たオードリーは、深い青に見とれて冷たい泉に手を突っ込んだ時のように、冷えたその手を毛一方の手で包むように、はっと胸を押さえた。

 ――彼の瞳の色を陰らせた物は一体何であっただろう。

 オードリーはそれを、彼が彼女の父に受けた恩義を、医者としての職務を、果たせなかったことによって、自尊心が傷付いた故の悔しさなのではないかと考えた。

 まるで庭の温室に置かれた薔薇の蕾のように、甘やかされ愛され、公爵令嬢としての責任など知らずに育った幼いオードリーに、その重さは分からない。

 だけれど、父がそういった物に煩わされ辛そうにしていた時。
 オードリーがわざと甘えてその膝に乗り、その首を下から抱きしめると、深い溜息を吐いてオードリーの頭の上に顎を預けるように抱き込んで、張り詰めていた何かを緩めていた。

「それが、何で――リアン様のせいになるんですか?」
「それは――」

 もし、彼もそういった風に何か――まだ子どもであるオードリーの知らない何か重たい物を、沢山背負い込んでいるのなら。父にやっていたようにその首筋を撫でてあげたい。
 オードリーは十も年が離れた大人に対し、ぶしつけにも、そんなことを思った。

 だから、彼の背負っている大人が持つ複雑な何かのうち一つくらいを、オードリーが軽くしてあげられれば良い。そんな風に思いながら、彼の話の続きを促した。

 この日からずっと、他ならぬ自分自身が、彼という立派な青年の人生の軋轢となり、その目に暗い光を宿させる重荷になるなど知りもしないで。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 赤い部屋にて > 8
8
「私は、先に劇場に着いて、入り口におりました。――だから、距離だけを見れば、私はお嬢様の、すぐ近くに居たのです。悲鳴が、喧噪が、聞こえるくらい近くに」

 本当に偶然だったのです、と、その瞬間を思い出したのか、リアンは続け、オードリーから見ても痛々しく力が籠もっているのが分かる程に、強く拳を握りしめた。

 劇場のロビーで待つことにしようと、中に一歩入ろうとしたその時。大きな音と甲高い悲鳴が背を向けた通りから聞こえた。

 まだ若輩とはいえ医者として、実務経験の一環の奉仕活動の中で軍医として、勤めていた彼は咄嗟にそちらに目を向け、人混みの中に歩き出し――やがて急かされるように早足になり、最後には、不吉な予感に上手く呼吸が出来なくなりながら、いつしか、人を押しのけ走り出した。

 ざわめく人々がボソボソと断片的に話す言葉が、足止めを食らった御者同士が交わし合う言葉が、近づくにつれどんどんと不吉さを増して行った。

 ――どうやら、馬車の事故であるらしい。
 ――車輪が滑って通りに投げ出された所を更に別の馬車に曳かれ、酷い有様らしい。
 ――顔は見えなかったけれど、馬車の作りも立派だし、名のある貴族だったのではないか。
 ――そういえば誰か、知人らしい立派な身なりの人間が、何か名前を叫んでいたような……。

 そのことに、事の大きさを知ったのも理由であったが、じわじわと這い寄ってきていた疑念が、彼の心臓を鷲掴んだのは、擦れ違ったとある婦人が青い顔をしながら、付き添い人の若い女性に漏らした言葉が原因だった。

「可愛そうに、男の人の下に居たアレは、まだ幼い女の子のようだった。――あの赤い衣装は、もしや流れた血の色だったんじゃないだろうか。誰かが、そう言ったのです」

 溢れる人混みのせいか、自分の足がもたつくせいか、それほど離れて居ないというのに、中々事故現場には辿り着かず、それが更に彼の焦燥を駆り立てた。
 まさか、そんな訳がない。幼い少女が居る家庭など、この王都の中であったって珍しくもないではないか。その中には、赤い色を好んで身につける子どもだって居るかも知れない。

 頭ではそう思いながらも、自分は殆ど確信を持って走っていたのだということを、彼は人が遠巻きに取り巻く事故現場に、先頭の人間を押しのけ入り込んだその時に気付いた。
 ――あぁ、やっぱりそうであったんだと、難解な幾何学の問題を解いた瞬間のように、ただその事実を受け入れた。

 そこには、見覚えのある紋章の入った馬車の残骸が横転しており、中心を赤く染め、丸くなった襤褸切れのような物の下からドレスの――スカーレット色の布地がはみ出しているのを見掛けても、彼はその場で膝を突いて慟哭したりなどしなかったからだ。

 人間は、予期していたか、それ以上の絶望に逢うとより頭が冴え、何をすべきか考える前に身体が動くものなのだと、従軍した比較敵平和な戦場で、知ったつもりになっていたことをリアンは身をもって知った。

「その後は、側溝で見つかったお嬢様と――公爵様と奥様、そしてアニュゼットお嬢様を連れ、この家に帰り、まだ温もりのあったお三方を地下に寝かせ、お嬢様に付いておりました」
「それは――やっぱり、あなたのせいではないわ」

 私が、もう少し早く気づき、動いていればもしかしたら――と、そこまでを言い、両の手の平で顔を覆って俯いたリアンに、全てを聞いたオードリーは、何とかそれだけを口にした。

 本当は、目覚めたばかりの自分がされたように、駆け寄って抱きしめてあげたかった。けれど、疲労と怪我を負い、おまけに同じ寝台の上にマリアンヌを乗せているオードリーにそれは出来ない。彼が、そこまでを考えて彼女を寝台に座らせたのかは分からないけれど。

 オードリーは、ここに来て初めて、自分に起きた悲劇ばかりを嘆いていた自分を後悔し始めていた。

 彼が、オードリーの分まで悲しんでいるだなんて傲慢なことを、気が弱っていたとはいえ、よくもまぁ言えたものだ。
 知らぬ間に家族を亡くしたオードリーより――目の前で、彼女の家族を救えなかった、彼女の家族の惨状を目の当たりにし、未だ温度のある彼らに対し、医者として何の処置も施せず、地下に置きに行かねばいけなかったリアンの方が辛かったに決まっている。

 これから、服従する筈だった恩人であり主を、その家族を、これから自分が成長を見守る筈だった、主の妻とその子ども達を、看取ることさえ出来なかったリアンの方が。

 なのに彼は、オードリーが目覚める前から――目覚めてから今までも、ずっとオードリーのことばかりを心配してくれていた。
 今も静かに涙を流し続けているマリアンヌのように、激情に駆られて泣き叫ぶことも、呆然とし、要領も聞き分けも悪く、事実と向き合おうとせずに狼狽えるばかりのオードリーを持て余すこともせず。

 しかも、彼を雇った父でもなければ、その伴侶である母でもないオードリーに、従者としての敬愛を示してくれた。
 恩人の娘であるという以外に価値のない、昔一度会っただけの、顔も覚えていなかったろう子どもにだ。

 ――その信頼に、私はどうやったら応えられるのか。

 オードリーは、目覚めてすぐに取られキスを落とされた自らの手の甲を暫し眺めると、瞬きと共に視線を上げ。

「リアン」

 と、上手く笑えないながらも、ぎこちない笑顔を向けて、彼の名を呼んだ。
 リアンは、オードリーの呼びかけに、ゆっくりと顔を覆う手の平を外し、のろのろと顔を上げて、乱れた前髪の下からオードリーを顧みた。

 大きな赤い目を細めた彼女は、軽く首を傾げ、両手を差し出して、無理をしていると一目で分かる、それでも、末恐ろしいその美貌が、全く損なわれていない笑顔をリアンに向けた。

「……お嬢様?」
「こちらに来て、屈んで戴けますか?」
「えぇ、宜しいですが……」

 求めの通り、ゆっくりと近づいたリアンは怪訝な顔をしてオードリーの顔を覗き込み、僅かに屈んでみせたその時に。

「一体、何を――」

 彼女は一生懸命に両手を伸ばし、寝台から僅かに腰を浮かせるようにしてその首筋に抱きつくと、手早くその冷たくつるりとした頬に自分の唇を軽く押し付けて腕を緩める。
 咄嗟に、そのまま寝台の上に落ちそうになったオードリーの腰を腕を回して抱えてくれた彼と目を合わせ、笑みを浮かべた。

「グレイス公爵家令嬢として、あなたの主人として――あなたの、わたくしと、わたくしの家族に対する献身に感謝します」

 ただの幼い少女であるオードリーではなく、公爵家令嬢として、彼の主人として。自分とその家族はその働きに救われたのだと肯定し、手の甲に受けた忠誠の口づけへの返礼として、頬に口づけを落とすこと。

 それが、自分より大きな身体と強い心を持ち、より重く複雑な悲しみと後悔を抱えている目の前の男にオードリーが唯一出来ることであり、慰めであろう。
 家族を失ったオードリーが、主であり恩人を失ったリアンを、主従というともすれば家族よりも親密な絆で彼の行いを肯定し、必要とすることが――。

「これからも、わたくしの為に仕えて下さいますか?」
「――えぇお嬢様、喜んで……全てを貴女の思うがままに」

 父との契約が無くなってしまったけれど、これからも側に居て欲しい――首を傾げてそう願った幼い主人に、リアンは、彼は、震える声と、苦しい程の抱擁で応えた。

 オードリーは幼い身体の全てで、彼の震えを、恐れを受け入れようと、一度緩めた腕に力を込めて、その広い肩口に顔を埋めた。

 背後でマリアンヌの感極まったような、何処か夢見るような吐息が聞こえた気がしたが、頬を押し付けた所から聞こえる低い声に聞き入り、すぐに忘れてしまった。

「私個人の財産も、能力も、医者としての知識も、心でさえ――私の全てを貴女に、貴女の為に差し出します」

 その宣誓と共に、彼は頬に添えた手で彼女に顔を上げるように促し、じっとその瞳を覗き込んだ。
 美しい、深い水を思わせる青い色の瞳の表面には、未だ生々しく、オードリーが呼吸を忘れて震える程の悲しみがはっきりと写っていた。だけれど、深い水の中で大きな魚の影が蠢くように、悲しみとはまた別の何かがチラリと過ぎったような気がした。

 だが、それが一体何なのかオードリーが確かめるより先に、今度は彼が、殆ど寝台から浮かせて、自分の腕に座らせるようにして支え、抱きしめているオードリーの華奢な肩口に額を預けた為、結局は分からなかった。

 それに、家庭教師の付く年齢になってから父からさえも受けたことのなかった深い抱擁に戸惑ったせいか、ここまでの疲労の為か。オードリーは妙に動悸が激しくなって、まるで熱い場所でずっと立っていて逆上せたようになっていた。

 そこに、触れ合った所からリアンの悲しみがそのまま流れ込んで来るような、痛みと悲しみとも付かない苦しさが心に刺さり、上手く頭が回らなかった。

「――じゃなくて、良かった」

 だから、彼女の肩に顔を埋めたまま、感慨と安堵をはっきりと込め、恍惚とした表情でリアンが殆ど吐息のように吐きだしたその独り言も、上手く聞き取れてなどいなかったのだ。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い
地下室への誘い
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 1
1
「そういえば、リアン様。あの時、何か言いかけはしませんでしたか?」

 寝間着の上半分をはだけたオードリーは、リアンに入浴の代わりにと、汗で濡れた身体を香油を垂らしたお湯に浸した柔らかな布で拭いて貰いながら、オードリーはふと、そんなことを口にした

「先ほど、とは?」
「あの、リアン様のお話を聞いた後にその……リアン様が、わ、たくしを……だ、抱きしめた時に」
「――あぁ」

 丁度良い温度の、薔薇の香りがする湯に潜らせた布で染み一つ無い背と細い肩を晒し、二の腕を拭かれながら、オードリーはリアンの顔を見上げ、僅かに頬を染めて視線を逸らしながら俯き、ボソボソと言葉を発した。

 今、こうしてお湯を張った洗面器の置かれた台を傍らに、寝間着を腰まではだけてその身をリアンの手で清拭さえているという現状よりも、色々な衝撃に心底動揺していたとはいえ節操もなくリアンに抱きついていたつい先ほどまでの自分の方が、オードリーには余程恥ずかしく感じられたのだ。

 公爵令嬢であるオードリーは――流石に同性の使用人に限るが――人に身体を洗って貰ったり、拭いて貰ったりすることは物心付いたことから当たり前のことである。なので一々それを恥ずかしがるという概念や情緒は育っていない。

 その上、今オードリーの身体を拭いているのは、病人やけが人などの世話の一環として、きっと、そういったことには慣れているだろうと思われるリアンである。

 一応は侯爵家の血縁である彼に、このような事をさせていることを申し訳無く思えど、抱きしめられた時程には、気詰まりとも恥ずかしいと思うことはない。
 寧ろ、彼の親切を蔑ろにして下手に照れたり嫌がったりをする方がよっぽど失礼に当たるのではないかとオードリーは思ったのだ。だから、最初は断ったその申し出を受けた。

 ――だが、冷静に考えれば、異性との抱擁は別である。
 幼い頃から知っているごく親しい――例えばせいぜい叔父くらいか、それに近い関係までの人に――年場の行かない子どもの幼い挨拶として抱きつき、抱き上げて貰うのはまぁ良いだろう。

 だけれど、オードリーはもう十二歳で、あと二月後に誕生日を迎えれば、婚約者を持つことさえ出来る年齢である。従って、数年前から、そういった抱擁による挨拶は既婚者のみに控えるようにと父母やマリアンヌにも堅く言われていた。

 であるから、近頃は、父以外には頬に口づけすることはあっても例え血の繋がった親戚であったって、男性の首に抱きつくなんてことは、無かったというのに。

(何て、恥知らずな真似をしたのかしら)

 自分の身体を拭く、今はお湯を扱っていることで温い温度になった、冷たい、何処か清涼感のある薬品の匂いがする手。
 顔を埋めた胸の広さに、父とは違う頭の撫で方、優しい声。

 思い返せば返す程に、先ほどまでは動揺していた為に気付かなかったことにまで気付き、そんな自分の恥知らずさが居たたまれなくて、同時に苦しくて。
 オードリーは、拭かれていた腕がリアンの手から解放されると共に、熱の籠もった頬を押さえるようにして俯いた。

「――お嬢様? もしや、お湯が熱かったでしょうか」
「いえ、大丈夫、気持ちいいわ、リアン様」

 拭かれている肌が思い出した羞恥に逆上せて、湯あたりをしたかのように赤くなった来た為に、そう思われたのだろう。

 オードリーが俯かせていた顔を上げ、ブルブルと頭を降って言って笑うと、彼は一瞬目を見開いた後に「そうですか」とそっけなく言って顔を伏せ、そのままオードリーの背後へと回った。

「……リアン様?」

 その瞬間、ちらりと見た顔が心無しか何か苛立ちのような物を耐えるように顰められた気がして、オードリーは背後に首を捻りリアンを伺おうとする。

 何か、気に障るようなことを言うかするかしてしまったんだろうか。
 それとも、医者としての勤めとして行っている行為に顔を赤くしているオードリーを、気持ち悪いとでも思ったのか。

「あの、リアン様……」

 何か弁明をすべきだろうか、そう思ってオードリーが口を開いたその時。

「ひゃっ……」
「すみません、まだ熱かったようですね」

 先ほどより少し温度の下がったお湯に浸された布が、ぺしゃっと背中に当たり、オードリーは恥ずかしく間抜けな悲鳴を上げて背を強ばらせてしまった。
 どうやら、リアンが無言だったのはただ単に、お湯を含ませた布を少し冷ましていただけだったらしい。

 クツクツと自分の背後から聞こえた笑い声が恥ずかしくて、オードリーはいよいよ茹で蛸のように真っ赤になりながら、真一文字に唇を結んだ。

 いくらオードリーが子どもでも、自分がからかわれたかどうかくらいの判断は出来る。
 なのにリアンは未だ笑いに喉を震わせたまま、ご機嫌を取るように、背中に張り付いた長い黒髪を肩口へと払うそのついでにオードリーの頭を撫でた。
 その子ども扱いに、益々オードリーが口を引き結ぶときっと分かった上で。

「そうだ、お嬢様」
「な……んでしょうか」

 なので、リアンに返事をするオードリーの声は、必然、わざと低めた声になる。
 それは子どもらしく癇癪を起こすことも、侮辱されたことへの怒りを表すことも淑女として得策ではないという判断からのものなのだが。

 恐らく、もう大人であるリアンからすればどちらにしても子どもが拗ねているようにしか見えないのだろう。背後からオードリーの胸側を拭く為に再び背中に黒髪を流す時にも、彼は犬か何かの機嫌を取るようにしてその頬から首筋を撫でた。

「私のことは、様を付けずにリアンと、お呼び下さい。私は侯爵家の次男ではなく、グレイス公爵家に仕える医者で――もう、貴女の所有物。なのですから」
「つっ……」

 オードリーが息を呑んだのは、リアンのその言葉に思うことがあったからではない。
 ただ、やや甘い声でそう言ったリアンの手が、寝間着と肌の境にあるオードリーの、うっすらと肋の浮いた脇腹を――子どもらしい、陶器のように滑らかな白い肌に大きく出来た青紫色の打撲痕を、下から上に撫で上げたからだ。

 その鈍い痛みにぎゅっと目を瞑ったオードリーに対し、リアンは何も言わない。
 ただ、慰めるように――ともすれば後悔するようにそこを撫でるリアンの手が、「労しい」と、声の代わりに言っているような気がして、オードリーは僅かな痛みを堪え、されるがままにじっとしていた。

 言葉や態度にされる励ましや慰めより、肌に触覚として感じる同情の方が――特に、身分や地位、家柄や身の上に対してでなく、自分個人に向けられる優しさと労いの方が――より身に沁みるのだということを、心を動かすのだということを。

 オードリーは初めて実感で知り、目を閉じて身を任すことで、それを浅ましく貪ろうとオードリーの弱った心と体から少しだけ力が抜ける。
 今まで、こうした労りへの飢餓を感じられなかったのは――きっと、周囲から惜しげもなくそれを与えられて来たからだ。

 父に、母に常に与えられ――そして、産まれてから今までずっと側に居たアニュゼットと、心と心、肌と肌でくっつき逢うことで互いに分かち合い、足りない分を補い合って来た。

 それが自然だったからなのだろう。
 ――だって人は、神の加護にも、家族の愛情にも、持って居ないからこそ敏感になり、当たり前のようにそこに在るから気にもせず、失ってからこそその大切さに気付くものなのだから。

「――リアン」

 ともすれば、折角リアンに温かい湯で拭いて貰った身体が冷めるまで、ずっと耽溺してしまいそうなその熱を振り払う為、オードリーは薄目を開け、請われた通りに敬称を無くしたその名を呼んだ。

「はい、なんでしょう。お嬢様」

 当たり前のように返って来た返事と、今度は手の平全体で、褒めるように撫でられた脇腹が嬉しくて、オードリーは殆ど反射的に笑みを零して顔を仰向けるようにして背後のリアンを覗き込んだ。
 彼の目は、今度は驚くことなく、逆さまに見上げるオードリーの目と合わせられ、その目元には優しげな微笑が浮かんだ。

 それを見上げながら、再び「リアン」と彼を呼ぶと、胸の奥に、まるでアニュゼットと適当に作ったお呪いを互いに掛け合って遊んだ時のような、なんとも言えないくすぐったさが広がった。

 ともすれば、今、オードリーはその赤い目と言葉でもって、リアンに何か魔法を掛けているのかも知れない。魔法、或いは呪いを――。

「私のことはどうかドリーと。お父様とお母様と……アニュゼットは、そう呼んでいたから」
「ドリー……様」
「様はいいわ。だって、あなたは今日から、私の婚約者なのでしょう? ――私の、物なのしょう?」
「はい。その通りです――ドリー」
「分かればいいわ。――リアン」

 彼の名を呼ぶ度に胸に起こるくすぐったさにばかり気を取られ、程なくして清拭が終わり、すぐに寝間着を着せかけられたオードリーは、全く気付いていなかった。

 リアンにその名の呼び方を直されることで、最初に彼女が身体を拭かれながら聞いた、何の気無しのあの問いが、すっかりはぐらかされてしまっているということに。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 2
2
 オードリーがリアンの頬に主人としての親愛のキスを落としてから四半時もせず、マリアンヌは外に待たせているという馬車に乗り、自分の家のタウンハウスへと帰って行った。

 彼女は最初、丁寧な言葉で帰宅を促すリアンに子どものように首を振って「お嬢様の側に付いていたい」と言ったが、所詮はただの家庭教師であり、今は夜会を抜け出して来た良家の子女だ。

「では、貴女はここに残って、お嬢様の為に一体何を致すのですか?」

 薔薇色の美しい唇の口元だけで笑んでそう問うたリアンに何を返すことも出来ず、寧ろ、泣きはらした目を冷やす為の濡れた布と腫れを防ぐ為、瞼に塗る薬液まで渡されてしまっては、閉口する他なかった。

 それに、今はただの医者であると言ってもリアンは独身であり侯爵家の次男である。そんな男が一人で暮らしている家に、夜会を着の身着のまま抜け出した独身の、しかも結婚相手を探している最中の女性が駆け込み、朝まで出て来ないなど、外聞の悪いことこの上ない。

 オードリーもそれは分かっている為、残って欲しいと我が儘を言う訳にはいかないし、だからといって自分を心配するマリアンヌを、自分が積極的に追い返す訳にもいかない。

「では、お暇させて戴きますわ。お嬢様、どうかお大事になさって下さい」

 どちらの肩を持つことも出来ず、かといって自分の意見を夾むことも出来ないオードリーがハラハラと見守る中。

 マリアンヌは普段オードリーに教授する、『淑女然とした、本心を隠す控えめの笑顔』を泣きはらした赤い瞼のままリアンに向け、スカートの端を摘み正式な礼をし、早足でその場を立ち去ろうとした。その時。

「あぁ、お待ち下さいミセス・マリアンヌ」

 今まで、長い腕を組んで長身に似合う威圧的な雰囲気を纏い、冷ややかな瞳と言葉でもってマリアンヌを追い返そうとしていた筈のリアンがその背を呼び止めた。

「貴女のお父上には、グレイス家の皆様は馬車の事故で怪我をし、私の所で処置を受けたと。明日以降、そのまま領地に帰宅し、後は療養するとお伝え下さい」

 マリアンヌとオードリーは同時に目を剥いてリアンを見たが、リアンは顔色一つ変えずに、青い色の目を細め、自分を振り返ったマリアンヌに、見ほれるような美しい笑みを浮かべて首を傾げてみせた。

「オードリーお嬢様以外のお三方の怪我は非常に重い上、意識も全く無く――そうですね、少なくとも五月までに意識が戻らねば、残念ですが……」
「……な、何を仰ってるんですか……リアン様!?」

 リアンのその言葉に、オードリーはびくりと肩を震わせて、次に絶句しながらも何とか反論したマリアンヌとリアンの様子を伺った。

 ――五月というその月は、オードリー個人にとっては、何よりも意味があり、特別な月であったからだ。

 だからといって、それをリアンが知った上で、五月という言葉を出したのか、まだ判別が付かないオードリーは、決定的な一言を聞くまでは、彼らの会話を黙って聞く以外にない。

 と、不意にリアンが目線だけでちらりとオードリーを一瞥した。そして、不安に揺れる赤い瞳を捕らえた途端。

(リアン様、今、笑ったかしら?)

 不安に、強ばった顔をしていただろうオードリーを安心させるように、先ほどマリアンヌに向けた物と比べると、光の加減で起こった錯覚とも取れる程に僅かに。

 だけれど先ほどよりもよっぽど人間らしく、まるで可愛い動物などを相手に思わず漏らしてしまったかのような笑みを浮かべ見せ――そして、オードリーにとっての決定打を口にした。

「全ては、お嬢様が安心して生活する為なのです。――どうか、ご配慮下さい、マリアンヌ様」
「――リアン様!」

 リアンのその言葉に、マリアンヌが応えるより先に、オードリーは思わず裏返った声で名前を呼び、驚きを露わにリアンを凝視して赤い瞳を潤ませた。

 何故なら、その一言でオードリーにはリアンの発した言葉の意図を、恐らく、ほぼ正確に読み取ってしまったからだ。
 三月の半ばである今から二ヶ月後――五月はオードリー達の誕生月で、その月、オードリーは数えの十三歳に――成人ではなくとも、異性と婚約を結べる年になるのだ。

 本日付けでグレイス公爵家の唯一の血縁で令嬢となった、未だ十二歳の――まだ成人を迎えておらず、叙爵することが叶わない年齢のオードリーが公爵領に今のままの生活を公爵家の領地で生活するには、いくつかの方法がある。

 一つは、自分とより近い血縁の、成人した男子にその爵位を渡し、オードリーをそのままカントリーハウスに住まわせて貰うように嘆願すること。

 一つは、信頼出来る、釣り合いの取れた家庭――公爵令嬢であるオードリーの場合は侯爵位以上――から一人以上の後見人を付け、領地経営をその人間に任せること。

 しかし、この二つはあくまで相手の善意に縋る方法であり、少女でしかないオードリーは下手したら、意に沿わぬ結婚や、寄宿学校や修道院に追い払われて家を奪われる可能性がある。

 それを踏まえれば、オードリーにとって一番負担の少ない方法は一つだけ――婚約可能となる十三歳の誕生月までに、婚約者を決め、その婚約者が時期グレイス公爵になるという『暗黙の了解』を貴族の間に作ることだ。

 ――その為に、公爵令嬢オードリー・グレイスが、他に家を継ぐ家族を持たぬ身になるには、家族と書類の上で死に別れるには、あと二ヶ月を『待たねばいけない』のだ。
 ――そして、家族と死に別れるその時に、オードリーは、例えそれが口約束だとしても、誰かと婚約を結ぶこととなる。

「リアン……様、それ、は……」
「えぇ、そう取って戴いて結構です。お嬢様」

 驚愕が過ぎ、今度は真っ赤になったオードリーの顔を見て、リアンは照れくさそうに笑い、それから、神妙な顔でオードリーを見つめ、すっと視線を逸らした。

 逆に視線を逸らせなくなったオードリーは、彼の切れ長の目の端が、ほんの僅かに淡くい桃色に染まったのように見えた。
 それに気付けば、まるで熱に浮かされたように、オードリーの頬は更に赤みを増し、熟れたイチゴのようになった。

「あくまで当人同士の約束ですから――別に、守る必要もありません。もし、お嬢様に良い人がおりましたら、私は身を引きましょう」
「で、でも、それではリアン様が……!」
「そ、そうですわ! お嬢様と十も離れた貴方だなんて!! どうせお嬢様の相続する地位と財産目当てなのでしょう!?」

 漸く事態を飲み込んだ様子のマリアンヌはオードリーに走り寄り、リアンから守るようにしてその前に両手を広げて立ちはだかる。

「よしなさい、マリアンヌ! 失礼だわ!!」 
「で、でもお嬢様!!」
「いいから、よしなさい。――リアン様は親切で言って下さっているのよ」

 オードリーが静かにそこまで言うと、激高していたマリアンヌはしょんぼりと肩を落とし、それでもオードリーとリアンの前に立ったままで俯いた。
 口先だけではマリアンヌを諫めたオードリーであったが、彼女が口に出した言葉こそ、オードリーが尤も懸念した言葉だった。

 この、口先だけの婚約で傷が付くのは、オードリーではなく、彼女より十歳も上で、しかも生まれは良くとも、今はあくまでただの医者であるリアンなのだ。

 彼は、このままオードリーと婚約の後結婚したとしたら、侯爵次男からグレイス公爵という身分に――実の兄であるレオニス侯爵に勝る身分になってしまう。

 医者という、未だ認知度が高くない――学校にも通えない、適正があれば、読み書き計算も満足にできない平民さえもなれる薬師などと同一に考えられているような――職業に『わざわざ学校に通ってまで』なった、爵位の継承権が無い酔狂な次男坊。

 それが、自分より十も年下の少女、ともすれば自分で考える能力さえ無いような年端の行かないような少女と結婚し、兄に譲った爵位よりも大きな位に即く。
 口さがない貴族がそれをどう感じ、妬みと嘲笑を込めて何を言うかなど、それこそまだ年端の行かない幼いオードリーにだって何となくは理解出来る。

 また、仮にオードリーが良い人を見つけ、リアンとの仮初めの婚約を解消したとしても、だ。

 三年後の成人以降、すぐに次の結婚相手を見つけることが出来るオードリーとは違って、その時二十六になる、しかも自分より十も下の娘袖にされるという不名誉が社交界中に広まるだろうリアンに、良い縁談など無いかも知れない。
 彼ほど美しければ、それでも良いという娘だって居るかも知れないが――誰が好き好んで、王族を除けばその次に身分ある公爵令嬢の元婚約者と付き合おうと思うだろうか。
 周囲の人間や、下手をすればリアン自身にも、何かに付けて常にオードリーと比較されることになり、肩身の狭い思いをすることであろう。

 ――相手の女性に、彼の花嫁の座を射止めることに、周囲の目など構っていられない理由があるか、己がリアンの愛を確実に得る自信でもなければ。

「っ……?」

 そこまでを考え、オードリーは自分の胸の辺りから、何か引き攣れるような痛みを感じて僅かに首を傾げ、胸元を押さえた。

 まだ自分の目では確かめていないが、もしかして、お腹や額だけでなく、胸の辺りも打ち付けたのであろうか。そう思って見下ろしたが、胸がそれ以上痛むことは無かった。
 そうやって自分の痛みに気を取られたオードリーは気付かなかった――オードリーの言葉を受けたリアンも、眉根を寄せ、自身の胸元に手を添えて、苦しげに吐息を吐きだしたことに。

「まぁっ……」

 彼のその顔を見たマリアンヌが、驚いたように目を瞬いて、両手を合わせて感嘆の息を吐いたことに。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 3
3
「……リアン様は、何故、そこまでして下さるんですか?」

 互いに暫しの沈黙の後、そう聞いたオードリーに彼は、先ほどまでの苦しそうな顔は一切隠し、事も無げにそう言って破顔し、事も無げに言ってのけた。

「――お嬢様。私は先ほど言った筈です。『私の全てを貴女に、貴女の為に差し出す』と」
「……リアン様は、わたくしには勿体ない程に素晴らしい従者ですわ」
「ありがとうございます」

 真っ赤に染まった頬を誤魔化す為に両手で押さえ、唇を尖らせながらぷいと顔を背けたオードリーの稚さに、リアンは苦笑を漏らしながらもそれを声に乗せず、完璧な従者の礼でもって応えた。

 そんな、主従のやり取りを目の当たりにしたマリアンヌは、その緑の目に複雑な色を宿らせながらも、大きな溜息と共に肩を落として俯くと、やにわにオードリーの方を振り返った。

 そして、本日初めて、いつも家庭教師としてオードリー達を見る時の、教育者としての冷徹な瞳をオードリーに向ける。

「オードリーお嬢様」
「――はい」

 彼女の視線を受け、条件反射で背筋を伸ばして姿勢を整え、何か言いたげに揺らぐ緑の瞳を、赤い瞳がまっすぐと捕らえたのを確認し、マリアンヌはふっと表情を緩め、困ったように笑いかけた。

「お嬢様、マリーはこれでお暇させて戴きます」
「えぇ。……あなたもお気を付けて……お帰りになって。ミセス・マリー」

 いつもはオードリーに呼ばれることはあっても、自分から名乗ることは無い愛称で離席を告げたマリアンヌを怪訝に思いながらも、オードリーはいつかマリアンヌに習った通りに、その手をマリアンヌに差し出して、その小さな手の甲に口づけを受けた。

 マリアンヌはオードリーの手の甲から顔を上げると、その手を両手で握り、そこに額を置いて、消え入るような声で言葉を発した。

「どうか、お大事にお過ごし下さい――旦那様と奥様、アニュゼット様の……快、癒を……願っております」
「マリー……」

 最後は例によって涙声となってしまったその言葉は、マリアンヌがオードリーを心配しつつも、先ほどのリアンの提案を呑んだという了解の意味だった。
 オードリーは溜まらず、マリアンヌに屈んで貰い、その頬に小さく口づけを落とした。

「あなたは私の、本当に素敵で、何者にも変え難い素晴らしい先生です――マリー」

 ついにまた、ボロボロと涙を零し出したマリアンヌは、リアンに肩を抱かれ、支えられるように退室し、アパートメントを後にした。


 程なく、マリアンヌを見送り、戻って来た彼は、彼女に頼んだ伝言と殆ど同じ言葉を手紙にしたため、もう既に――オードリーが気がつくより前に――グレイス家のタウンハウスに送ったことを告げた。

「グレイス公爵家の面々は、私の家から領地に帰る、と。ですので、あちらはあちらで、撤収の用意をして欲しいとをお伝えしておきました。――詳しくは、明日領地に戻ってから、執事だけに話しましょう」
「えぇ、それで結構です」

 その後、一言二言、オードリーの分かる範囲で、周囲の細々としたことや、明日の予定を告げたリアンは、じっとオードリーを見、ふと、何か大切なことを思い出したように星のように青い目を瞬いて、小さく息を呑み、非常に申し訳無さそうに眉を下げて肩を竦めた。

「すみませんお嬢様。……つい昨日、この家を引き払うつもりで解雇してしまったので、この家にお嬢様のお世話を出来る女手が無いのです」
「まぁ!」

 聞けば、このアパートメントの家事を任せる為、若い頃に少しの間だけ、貴族の家でメイドとして従事した経験のある中年の女性を一人、通いで雇い入れていたのを、公爵家に従事することとその日取りが決まった折に解雇してしまったのだという。

「残っているのは、留守の間の、資料や薬品の見張り役に雇った男手ばかりで……」
「そうなのですか……?」
「えぇ。明日のお支度については、夜が明けたらお嬢様に着替えを届けさせるようにと手紙に添えたので大丈夫だとは思いますが……」

 呼び戻そうかとリアンは言ったが、今はもう夜も遅い時間であるし、その女性は夫も子どもも居る身だという。
 たった一日にも満たない時間、オードリーの世話をさせる為に叩き起こしてここに連れて来るというのは、彼女にしても彼女を雇ったリアンにしても、気まずいだろうし面倒なことだろう。

 恐らく、ここでオードリーが否やを言えば、リアンはオードリーを世話させるに相応しい女手を得る為に奔走するだろう。しかし、オードリーは、そうしたいとは思わなかった。

 使用人は家具や道具と同じだと、そう言う人も少なくはないし、実際、幼い頃に使用人自身にそう言って説教をされたこともある。

 だけれど、普段はその繊細さで人を振り回す、想像力豊かなアニュゼットに言わせれば、家具にだって一つ一つ、魔法のランプのように精霊が宿っていて、だから大切にしなくてはいけないのだという。

 だからオードリーは、目に見えない精霊を大切に扱うのに、目に見える使用人を自分の都合で粗雑に扱うのは余り好まないのだ。それに――。

「……今日一日だけでしたら、平気です。お風呂だって、一日入らないでいたって死にませんでしょう?」

 今この瞬間も含めて、オードリーはリアンに、オードリーが公爵家令嬢、オードリー・グレイスであることで、彼女の望む望まないに関わらず色々な迷惑を掛ける事態に陥るのだから。
 こんな些末事で彼を悩ませたくなど無かったのだ。

「本当に申し訳ありませんお嬢様……では、せめて入浴の代わりに――」

 そうしてリアンから提案されたのが、お湯を使っての簡単な清拭だった。
 相手はそうしたことに慣れた医者であり、別に、丸裸になって身体を洗われる訳でもないのだからと、オードリーはその好意に甘えることにしたのだった。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 4
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「所で、ドリー?」
「何ですか……リアン」

 濡れたオードリーの肌を乾いた布で軽く拭い、清拭を終えたリアンは道具を片付けながら、自然にオードリー愛称を名を呼んだ。
 対するオードリーは、やはり上手く呼べず、口を小さく動かして、呼吸の音だけで『様』を付け足してしまった。

 リアンは、両手で口を塞いで恥ずかしがるオードリーの様子にクスリと笑って目を細めながら片付けを終え――そのままオードリーの傍らに歩み寄り、身体と同じように拭ったことで、少しだけ湿った艶やかな黒髪を手櫛で撫で、指先で弄びながら口を開いた。

「ドリーは私に――貴女の婚約者候補である、この『医者』である私に、何か頼みたいことがおありなのでは?」

 その言葉にハッと顔を上げたオードリーの見上げたリアンの顔は、もう笑ってなど居なかった。

 ひんやりとした青い瞳にはきっと、ただの子どもでしかないオードリーの言いたいことなど――『公爵令嬢』の彼女が、『医者』である彼に聞こうとしていることが、何であるかなどお見通しなのだろう。

 オードリーは小さく鍔を飲み込み、未だ自分の髪を弄ぶリアンを見上げながら、せめても意趣返しに、リアンの漠然とした質問に、同じく漠然とした質問を返した。

「それは――私がリアンに願えば、すぐに叶えられるようなものなの? こんな夜遅くに……」
「私個人としてはおすすめしかねますが……。――婚約者の初めてのお願いを、出来れば迅速に叶えて差し上げたいとも思っておりますよ」

 オードリーのせめてもの強がりにそう返したリアンの顔に表情は浮かんでおらず、オードリーの髪の先に口づけられた形の良い唇は、それ以上、何の言葉も発さない。
 それでも、長い睫と共に伏せられた青い瞳は語っていた――今、オードリーにそれを願われるのは、大変不本意であり、辛いのだと。

 或いは――リアンはオードリーの願いに心を動かされている訳ではなく、彼女よりもはっきりと、彼女が今やるべきことと、それによってもたらされる苦しみを、分かっているだけなのかも知れない。

 オードリーが、幼いながら立場ある人間として。婚約者である以上に自分に忠誠を誓った従者であるリアンを使役する為に――彼が信用に値すると、情にほだされず公平な立場で判断する為に必要な情報を。

 彼の瞳を見つめながら、そう、オードリーは思った。そのするべき言動によって結果として引き起こされる、オードリーの、リアン自身の情動――苦しみとか悲しみ――は別として。

「――ねぇリアン、その通りよ。私はあなたに、お願いがあるの」

 だからオードリーは、自分の髪をしきりに撫でるその手とは違う手を両手で取り、その手の甲に額を預けて目をつむりながら、言うべき言葉を、その切っ掛けとなる一言を口にした。

 それで、もう痛みが麻痺してしまい、痛みと感じられなくなるまでに弱った自分の心が、それ以上に傷付いたリアンの心が、また引き裂かれると分かっていながら。

「私、わたしね、お父様とお母様と、アニュゼットの――『お見舞い』がしたい。お父様達のお加減を、アニュゼットがいい子で寝ているかを、自分の目で確かめたい」
「……今から、ですか? 皆様の『病室』は地下にあるから、夜は特に冷えますよ?」
「いいの、それでも――私は、みんなに会いたい」

 ――オードリー・グレイスが、唯一生き残った『公爵令嬢』が、ゆくゆくはその爵位を渡すこともある、婚約者という立場に『医者』を置く為に、その為に駒を動かす為にまずやらねばいけないこと。

 それは、当主とその婦人と娘――彼女以外の、爵位と、その継承権を持つ者ら――の治療を担当する『医者』に当主の名代として立ち会い、彼らの『治療』が適切に行われているかを確認し、容認することだ。

 彼らの怪我の具合を『医者』が――リアンが詐称しており、手元に置いた『公爵令嬢』――オードリー・グレイスを傀儡に、グレイス公爵家を乗っ取ろうとしているという、誰もが思い描くシナリオを真っ向から否定する為に。

 オードリーは滑稽且つ残酷にも、家族の死体を見舞い、その状態を確認する必要があるのだ。

 ――適切な処置を行えば、命が助かる可能性のあった者を、未だ息のあった者を。
 爵位欲しさに、リアンが見殺しにした可能性を疑いながら。

 家族を亡くしたことを中々受け入れられなかったオードリーが、家族を救えなかったことを悔いるリアンを疑って、家族の死がリアンの言葉通りにもたらされたのかを検分する。

 リアンはそれを、今すぐ、こんな夜更けでなくて良いのではと――こんな時でも、オードリーを気遣って言うのだ。
 そしてオードリーはリアンのその気遣いを、何かの工作として疑って掛からなければならない。

「おねがい、リアン。お願い……!」

 オードリーは、リアンの手の甲を強く握りしめ、痛みを覚える程に額を擦りつけながら――その痛みで心の痛みを誤魔化しながら、頑是無い子どものようにそう願った。

「――分かりました、ドリー。麗しい私の婚約者。その代わり――地下の『処置質』はとても寒いので、私の上着を羽織って温かくして下さいね」

 そうしてリアンも、そんなオードリーの懇願を、「年下の婚約者の可愛らしい我が儘」といった体で受け入れ、オードリーに寝間着の上から自分の上着を羽織らせ、しっかりボタンを留めてから、彼女を寝台から自分の腕へと抱え上げる。

「地下への階段は、足下がとても悪いですから。ちゃんと私の首に捕まっていて下さいね。約束出来ますか?」
「はい、大丈夫……です」

 リアンの腕に座らせるようにして抱えられたオードリーが素直に抱きつくのを確認し、リアンは部屋の隅にあったランプをオードリーを抱えるのとは別の腕に掲げ、寝室を後にした。

 グレイス侯爵家の面々を『見舞う』為に。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 5
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 リアンは片手にランプを掲げ、もう片方の腕にはオードリーを抱えたままで器用に扉を開け、絨毯の敷かれた廊下へと出た。廊下の右端は壁や窓ではなく、飴色をした木製の柵になっていた。

 オードリーの居た部屋は端に位置するらしく、数歩歩くと、壁に作り付けの燭台が置かれた、曲がり角へと辿り着いた。
 その角を曲がる時、リアンに抱えられながら少し首を伸ばすと、下に数本の蝋燭で明るく照らされた、小さな玄関ホールらしき場所が見えた。

 今度はランプだけで照らされた行く先を見ると、ランプが丸く切り取る廊下の向こうに、これまた壁に作り付けられた燭台に淡く光るドアが一つと、廊下を挟んだその向かいに、飴色をした階段の手すりのような物がある。

 どうやらその奥にも廊下は続いているようで、恐らく、階段を真ん中にして回廊のように廊下が延び、その左右に一部屋ずつ、部屋ののある間取りなのだろう。
 リアンはここをアパートメントだとオードリーに言ったが、その部屋数から言って、多少手狭であっても、屋敷と呼んで差し支え無いのではないかとオードリーは思った。

「階段の左右は客間、真ん中の部屋が私の寝室と書斎になっています」
「そう、なのですか?」

 気付けばあっという間に階段の前まで辿り着いたリアンは、背後のドアを振り返りながら、オードリーの疑問に答えるようにそう口にした。
 そんなに分かりやすい顔をしていただろうかと、オードリーは少し気恥ずかしくなって顔を伏せた。

「えぇ、グレイス公爵のお屋敷と比べますと手狭で申し訳ないですが」
「そんなことありません! 寧ろ、アパートメントとはこんなに広い物なのかと思ったくらいで」
「それは光栄ですね……まあ、私一人が過ごすには、少々贅沢な建物かも知れませんが」
「あっ……申し訳ありません」
「いえ、拙宅をお褒めにあずかり光栄です」

 少し強めに腕を回した太い首が、漏れ出た苦笑に揺れるのが厚い上着の生地からも伝わり、その振動に、オードリーは自分が捉え方によっては無礼な言葉を吐いたのに気付いて羞恥と申し訳無さに益々うなだれた。

 思えば、オードリーは今日会ったリアンに淑女として失礼な態度ばかり取っているような気がする。
 そこまで考え、恐らく自分の足で歩けるだろうに、こうやって部屋から階段までの短い距離を抱き抱えられて移動して来てしまった事に気付いて、いよいよ恥ずかしくなってきた。

「尤も、滅多に客人も来ない家なので、奥の客間は殆ど物置のように使っておりまして……とても見せられた物ではないのですがね」

 だから、どうかあのお部屋で我慢して下さい、と、冗談めいた言葉を言い添えながら、自分の顔のすぐ横で項垂れるオードリーの横顔に笑いかけたリアンは、階段を下る為にオードリーを抱き直そうと身じろぎをしたが。

「あの、リアン……下ろして下さい。自分の足で歩きます」
「あぁ、そうですね。――すみません、淑女にそんなことを言わせてしまって」

 そう言って、階段のすぐ前にしゃがみ、顔を覗き込んだリアンに、オードリーは申し訳なさに俯いたまま、左右に顔を振ることで答えた。

 オードリーのその動きに合わせ、顔を覆うように垂れた癖の無い黒髪と、その両手を覆い隠す長さのリアンの上着の袖が揺れる。
 リアンはその稚い姿に目を細めながら、自分の上着に隠れたオードリーの右手を取り、丁寧にその裾を手首まで小さく折って捲り上げた。

「では、せめて手を繋ぎましょう。あと、地下への階段は大変暗く、滑りやすくて危ないので、その時にはまた、今のような無礼をお許し下さい」
「お約束……でしたわね」
「えぇ、そうです」

 その白い顔に掛かった黒髪を丁寧に払い、耳の横に掛けてやりながらも。
 あくまで紳士が淑女に物を頼む時の礼儀を守りながらそう言うリアンに、オードリーは「はい」という返事と共に顔を上げ、リアンに袖を捲られた右手を差し出した。

 階段には、廊下と同じように絨毯が掛けてあり、それは、寝台からそのまま抱き上げられたせいで靴を履くことができず、はしたなくも素足で歩くことになったオードリーと、彼女の手を引いてエスコートするリアンの靴の音とを吸収した。

 互いの呼吸の音とと衣擦れ、包まれた手の平の静かな体温ばかりに気を取られるうち、階段の三段手前で立ち止まったリアンが徐に手を離して、そこにオードリーを残して、残りの段を下った。
 そして、階段を下り切った所で振り返り、ランプを足下に置いて、背後の――困惑を顔に写し、彼と殆ど同じ視線の高さの場所に留まったままのオードリーに向けて両手を広げた。

「ここからは、絨毯が途切れますので――おいで、ドリー」
「はい、リアン」

 オードリーはその行動の意味を聞くことなく、腕を伸ばして、その身体に倒れ込むようにして首に抱きつき、大人しく先ほどのように抱え上げられた。


 幅の無い代わりに、吹き抜けのようになり、天井の高い玄関ホールの端、階段の真裏に当たる壁にある扉が入り口になっていて、扉を開けると、物置程の広さの場所があり、その天井にはランプが一つ吊されていた。

 そこには、既に明かりの点されたランプに照らされて、石造りの床と――そこから繋がる、石造りの階段があった。
 穴の縁から覗き込んだ階段は、光の届く数段だけがランプの明かりの下で黒く光り、残りの部分は闇に包まれているようだった。

 広がる闇の奥からは、冷たい風が、オードリーの髪を揺らすか揺らさないか程度、僅かに吹き上げており、その冷たい風からは気のせいか、川のすぐ横を通ったかのように生臭い臭いがした。

 その臭いが何であるのか――ふと、その答えを思いついたオードリーは、小さく息を呑み、咄嗟にリアンの首筋に抱きついて目を閉じた。
 オードリーにはその穴が、まるで地獄に繋がっているかのように恐ろしく感じられた。

「――お戻りに、なりますか?」

 だけれど、塞がった両手の代わりに、縋り付くオードリーに頬を寄せるようにしてそう言ったリアンの言葉に、オードリーは一層強く目を閉じながらぶるぶると額を押し付けるようにして首を振った。

 そして、首に縋っていた方の手を片方外し、リアンの頬に寄せ、赤い目でもってその目をまっすぐに覗き込んで、言い放った。

「私を、家族の下へ連れて行きなさい。リアン」
「――全て、ドリーの思うままに」

 ランプの僅かな光に剣呑に燦めいた、血のように赤い瞳を見返しながら、リアンはそう言い、オードリーを一層強く抱き寄せて階段へと足を踏み出した。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 6
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"Down, down, down."

" She kept on falling."

下に、下に、下に……。

彼女はどんどん落ちて行く。
 地下室への階段は、時折途中の壁に蝋燭の点された燭台がある以外は、リアンの持つランプ以外に明かりはない。

 しかしリアンは慣れているのか、迷いの無い足取りで、時折、明るい場所でオードリーを抱え直す為に足を止める以外、迷いなくどんどんと階段を下って行く。
 階段が何処まで続いているのか、リアンの手の中の明かりや燭台だけでは全く見えず、オードリーには、それが地の底まで無限に続いているようにさえ感じられた。

 下から吹き込む冷気は益々冷たさを増し、頬を撫でるような気がする。
 生臭い臭いには途中から鉄さびのような臭いが混ざりだした気がしたが、リアンに拭かれた身体に残った香油の匂いと、上着からするリアンの香水らしき甘いような煙たいような不思議な匂いが、上手くオードリーの鼻を誤魔化していた。

 そうやって誤魔化されるうちに、空間に広がる臭いは余り気にならなくなり――今、オードリーの身体を苛むのは、限界まで張り詰めた為、急速に緩もうとする緊張と、ぼんやりとしか見えない薄暗い視界。
 そして、それらと共に、リアンの立てる規則的な靴音がもたらす、抗い難い程に強い眠気であった。

 ――カツン、カツンと、音が鳴り、階段全体に反響する。
 ――ランプの光は専らリアンの足下を照らし、視界は殆ど、眠る時と変わらない薄暗さ。
 ――ふと、音が止まったことと、下からお尻を支える腕が動いたことにはっと目を見開く。
 ――だけれど、再び響いた足音に、また意識はぼんやりと霞んでいく。
 ――目を閉じても開いても代わり映えしない視界に、自分が起きているのか、眠っているのか、段々と分からなくなって行く。

(まるで……ウサギ穴に落ちて行くようだわ……)

 オードリーは、立て直し、糸をつむぐように、張り詰め直そうとすればするほど、急速に緩んで行く意識の中。ふと、前にアニュゼットと読んだ本を思い出していた。

 アニュゼットがお気に入りで、何度も何度も読んでいた、おかしな世界に迷い込んだ、小さな女の子の冒険譚。
 彼女はそれをいたく気に入り、アニュゼット程には物語というものに熱心ではない姉のオードリーを同じ世界に誘い込むべく、自分の気に入りのシーンを、何度も何度も読んで聞かせた。

 今の自分は、その絵本の中で、ウサギを追いかけウサギ穴に飛び込み、どこまでも落ちて行く少女のようだ――夢うつつの中、我ながら何と緊張感の無い思考だろうか、と、オードリーは思った。

「下に、下に、下に……」

 だけれどオードリーの口は、疲労に微睡むうちに無意識に、アニュゼットの朗読を聞いていて覚えてしまったその一説を、小さな声で諳んじていた。

 双子の姉妹であるアニュゼットの朗読と、丸っきり同じアクセントと声をした声で――それを諳んじているのが、自分か彼女か分からなくなりながら。
 そのうち、二人で額を突き合わせ、本を交互に暗唱して遊んでいるような気さえした。

 ――いい? ドリー。先に、目を開けて本を確認した方が負けよ。

 あぁ、アニュゼットならきっとそう言うだろう。

 そして、そっと目を開けたなら、オードリーと全く同じ顔をしたアニュゼットが、同じ赤い目を閉じ、綺麗な眉間に皺を寄せ、必死に次の行を思いだそうとしているのだ。

 程なくして、オードリーが目を開けて自分を見ていることに気付いたアニュゼットは、赤い目を眇めて、口を尖らせて言うのだろう。

 ――狡いわドリー。私の見ていないうちに、勝手に目を開けるだなんて。

「――流石に、私の家の階段は四千マイルもありませんよ、ドリー」

 そんなオードリーを覚醒させたのは、何度目かにオードリーを抱き直しながら、リアンが耳元で言ったそんな言葉だった。

 気付けばオードリーは完全に眠りに付き、目を閉じていたらしい。目を開けたそこには、今までよりはっきりとした明るさと、困ったように笑うリアンの顔があって、オードリーは何度も瞬きを繰り返して目を擦った。

 どうやら、足を止めたリアンが、足下に向けていたランプを掲げて、オードリーの顔を確認していたらしい。
 ――恐らく、自分がリアンに身体を預けて完全に眠ってしまっていたから。

 そう、理解した途端、かぁっと顔を真っ赤にし、恥ずかしさに、リアンの首に縋り付いて小さく唸った。

 まさか、自分の独り言が全部、声に出ていて、しかもそれに律儀に返事が返って来るだなんて思わなかったのだ。

 更に、もしも完全に眠っていたのだとしたら、間近で寝顔を見られたことになる――リアンに淑女らしくない失態を見せる度、これ以上恥ずかしいことは無いと思うのに、結局は更に酷い失態を見せているような気がする。

「あの本は面白いお話でしたね。友人に勧められて、私も読んだことがありますよ」
「……っ」

 だけれどリアンは、オードリーのそんな様子を、幼い子どもが寝ぼけてむずがったのだと思ったのだろう。

 赤ん坊を宥めるようにトントン、と、オードリーの背中を叩き、軽く揺すり上げる。

 ――その、幼い子どもを甘やかすような仕草に、余計に恥ずかしくなって、双眸に負けないに耳まで赤くして、余計顔を上げられないというのに。

 と、何度めかに揺すって宥められた時に、オードリーは漸く、今までランプで塞がっていた筈のリアンの手が、自分の背中に回っていることに気付いた。

 だけれど、乱れた髪の間から見える視界は、ランプを向けられた時のまま、はっきりと明るいままだ。
 それを訝しく思って、オードリーは漸く、熱の引いた顔をリアンの首もとから上げた。

「この地下室が地球の向こうと繋がっていない証拠に――ほら、もう付きましたよ」

 その気配に気付いたリアンが手で指し示したその先。
 長い階段の終点であるそこには、煉瓦を積んで作った壁と、堅牢な金属製のドアがあり――先ほどまでリアンがその手に持っていたランプは、そのドアの上にある金具に引っかけてつり下げられていた。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 7
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 リアンが開けた、重い鉄の扉を抜けて、真っ暗な部屋に入ったオードリーが、まず最初に感じたのは強い刺激臭だった。

 階段の入り口に立った時の生臭ささと金属の混じった物とも違うその臭いは、それらと違って不愉快ではないけれど目が痛くなる程に強烈で、オードリーは思わず、上着の裾でぎゅっと両目を押さえた。

「すみません、研究の材料が何処からか漏れたみたいです」

 リアンの首から両手を離したことでバランスを崩し掛けたオードリーをしっかり抱き留めたリアンは、そのまま早足で部屋の中へと進み、腕の中で目を押さえるオードリーを何かの台に座らせ、ハンカチを渡した。

「明かりを付ける前に、ちょっと確認して参ります」

 オードリーが貸して貰ったハンカチで顔を拭いながら、乗せた台のより、更に奥に歩むその背中を見つめていると、立ち止まった彼はしゃがんで何かを確認して、再びオードリーの方へと戻って来た。
 そのまま、オードリーの頭を一つ撫でると、その横にある何かを操作し出しす。

「お待ち下さい、もうすぐ明かりが点く筈です」
「リアン様、一体、何を……」

 困惑したオードリーが、一体何をしているのか聞こうとしたその時。カチリという音と共に、部屋全体が一気に明るくなった。
 真っ暗な部屋の中で、突如浴びせられた、先ほど顔にランプを近づけられた時など比でも無いくらいの明るさに、オードリーは呻きながら咄嗟に袖で顔を覆った。

「……? まぁっ!」

 瞼の中で、色々な光がチカチカと瞬く、目が眩んだ時特有の感覚が落ち着いて来た頃、腕を顔から外しながら、恐る恐る顔を上げたオードリーは、思わず感嘆の声を上げた。

 色々なガラスで出来た管や瓶、医療器具らしい、水の張られた長方形の皿に沈んだ金属などが置かれた、テーブル程の広さがある台の上に乗せられたオードリーと、同じ台に腰掛けるリアン。その間で煌々と、眩しい程の橙色の明かりを放っている、管に繋がれた、それ事態が太陽のように温かい熱を持った、ランプの灯心を剥き出しにしたようなそれは。

「もしや、電球を見るのは初めてですか?」
「いいえ。でも、火が点いた物を見るのは初めて……!」

 おや、と、その秀麗な眉を僅かに上げて自分を見たリアンを目の端に捕らえながらも、オードリーは台の上の物を倒さないように気をつけながら両手を突き、その熱を頬に感じる程に近づいて、まじまじと覗き込んだ。

 リアンに言った通り、オードリーは電球自体ならば、一度、父と懇意にしている行商人が持って来た物を、商談をする公爵の隣でアニュゼットと共に見せて貰ったことがあった。

 その時、行商人に「小さな太陽のようだ」と説明を受けたオードリーとアニュゼットは大変な興味を持ち、それを買って貰うべく父に懇願した。
 だけれど、公爵家くらいの歴史が深く大規模な屋敷となると、電球を買って仕えるようにするよりも、必要に応じて蝋燭とランプを使い分けながら、常夜の点灯が必要な所にはガス灯を置くようにした方が経済的だからと断ってしまったのだ。

 貴族の習い性らしく、何でも珍しい物に飛びつかないグレイス公爵の賢明さを、オードリーは娘として尊敬してもいたけれど、それを少し残念に思っていた。
 だからまさか、こんな時、こんな所でアニュゼットと共に夢に見た、この『小さな太陽』に出会えるだなんて思っていなかった。

「正確には、火じゃなくて電気ですよ、ドリー」
「凄い、本当に太陽みたい……あたたかいわ、リアン」

 そんな冷静なリアンの指摘も届いていないらしい、上の空の様子で、オードリーは一つだけ点ったその橙色の明かりに見入り、そっと手を翳してみた。
 電球の与える熱は、蝋燭の火から洗濯室のボイラーのように上る物とも、ずっと点けっぱなしのランプの表面に手を翳した時ともまた違った温もりがある。

「不思議っ、まるで血の色が透けているみたい!」
「ドリー、火傷だけはお気を付け下さいね」
「本当ね、手を翳しているだけなのに、火傷しそうな程熱いわ……」

 電球に手を翳しながら、ドリーは、リアンと相まみえてから初めて、年相応の好奇心と喜びが混ざった、女性らしく理論より自分の感情を優先させた――故に少女にしか浮かべることが許されない、輝かしいばかりの笑顔を浮かべた。

 きゃらきゃらと、男にも、淑女にも有り得ない鈴のような笑い声が愛らしい口から漏れる。今まで何処か控えめに表現されていた、素直な感情に後押しされてキラキラと、それこそ宝石のような輝きを放った赤い瞳。

 リアンもまた、電球が照らし出したオードリーの顔を、腕を組んで作業台に寄りかかったまま、口を挟まずに暫し見入った。

「ねぇリアン、……さっき言ってた研究材料って、あの、お酒の樽みたいな物のこと?」
「えぇ、そうです。特殊に作らせた、火が点くくらいに強い蒸留酒です。呑んではいけませんよ、ドリーが火傷しては大変です」
「いやだわリアン、女の子はお酒なんか飲まないわ!」
「おや……ドリーが成人したら、晩酌に付き合って貰おうと思ったのに残念ですね」

 程なくして、オードリーの興味は、電球から、次第に照らされた石造りの部屋の中へと徐々に向いて行った。

 机の色々な器具や、先ほどリアンの居た側の壁に作り付けられた、壁や棚に置かれた棚にぎっしりと並んだ薬瓶の、不思議な色をした水薬や粉類。
 そして、その側に積まれた、この部屋を満たす、強いアルコールの臭染みついた樽や袋など。

「ねぇ、リアンはその強い蒸留酒で、一体どんな研究をしているの?」
「そうですね……今は、特殊な金属を溶かし込んで、ある薬を作っている最中です」
「そうなの? お薬も作れるなんて、リアンは凄いのね」

 リアンの説明は、オードリーにも分かるようにかみ砕いた言葉になっていても、どれも難しくて、オードリーは聞いたことの半分も理解出来なかった。
 だけれど、どれもがオードリーの初めて見る物ばかりで、リアンに説明を聞くだけでも楽しかった。

 そうやって、台の上にはしたない座り方で脚を投げ出して座り込んだまま、アレはコレはと聞き続け――まるで、言葉を覚えたての幼子か、アダムに自分の生み出した生き物の名付けをさせる唯一神のように。

 好奇心の赴くままに――または、好奇心を満たすことによって何かから逃避するように――部屋の隅々までを見渡した。

「ねぇリアン、あの、寝台みたいな台の上に乗った、白い布の固まり達はなぁに? 奥の方にあって、よく見えないわ?」
「あれは――」

 そして、自分が座る台から左側に設けられた、オードリーとリアンが居る場所より一段低く作られた、電球の光が届かない薄暗い空間に置かれたソレに目を留めた時、オードリーはいよいよその時を迎えた。

「あれは――あの方々は、貴女のご家族ですよ……ドリー」
「あれ、が……?」

 この部屋に足を踏み入れた時の衝撃と、目の前にある物への好奇心にかこつけて忘れた振りをしてはしゃぎながらも――オの頭の片隅に常にあった、グレイス公爵令嬢として、自分の運命と向き合う時を。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 8
8
「こちらの三体が……旦那様、奥様、そして――アニュゼットお嬢様……になります」

 台から抱き上げたオードリーは、再びリアンに抱え込まれるようにしながら、今まで居た研究材料らの置かれた場所とそこを隔てる段差の上に一旦座らせられた。

 研究スペースと安置所とを分けるその段差は、深く座ればオードリーの爪先が床から浮く程度に高さがあり、リアンはそこら床に掛けて、半分に折ったシーツを掛けて覆い、その上に抱き上げたオードリーを下ろした。

「床は冷えるかも知れませんが……少しばかり、こちらでお待ち下さい」

 リアンは、オードリーをそこに残して数歩進み、彼女の斜め前に立ち、初めてオードリーに会った時と同じ、シルクで出来た薄い、白の手袋を嵌める。男性的で美しいその横顔には一切の表情というものがなかった。

 オードリーはまるで氷で出来た作り物のような硬質の美しさを持った、その彼を暫し見つめ、怜悧な色の宿る青の向く先を無意識に追い――そして、小さく息を呑んだ。

 彼が何の色も表情も無く見つめる、電球の光が辛うじて届く闇の中。そこにソレが――つい先ほど自分で確認し、視界の端にも納めた、三台の台とそれぞれの上に乗ったシーツの固まりが――あることに対して。

 彼女はここまで、家族を見舞いに来たのだから、それがそこに居るのは――いや、在るのは当たり前のことなのだ。
 なのに、オードリーは、確かにその存在を、家族とは別の物と考え、そこにソレがあるだけで緊張し、どうしようもなく意識していた。

 同じ空間にあるだけで、目を背けたくなるような、だけれど目を背けることを許されない程の威圧感と、心臓を握りつぶされるような不安。

 彼女より少し長じた者ならば、死という現象に対する畏怖や、死という現象への嫌悪と認識するのだろうそれは、オードリーにとっては背筋を氷がなぞるような緊張と、ただの不快感でしかなかった。

 ――在ると分かっていても、何であるかを頭で理解していても、無い物として扱いたいと思ってしまう――その癖どうしようもなく意識してしまう――それが、死者の、死体の持つ重さだということをオードリーは初めて知った。

 祖父母も生まれる前に鬼籍に入り、父母の知人とは葬儀に行く程の付き合いもない。親しい人間の死体など、初めて見る、オードリーだからそうなのだろうか。

 それとも――その職業柄、常に死体という物とふれ合い、時に、今日のように親しい人に目の前で死なれることもあるだろう、リアンでも、そうなのだろうか。

 見極めようにも、今までより鋭い表情で手袋の端を引き、やや乱れたままになっていた黒髪を革紐で首もとに結い直した、『医者』としてのリアンの後ろ姿から、子どもであるオードリーの読み取れることなど殆ど無かった。

「全体が見える所まで、引き出します」

 そのリアンの言葉で、薄暗い場所に目を凝らしてよく見れば、シーツの載った台の脚にはちょうど、カトラリーを置く台のように小さな車輪が付いていることが分かった。

 三つ並んだ一体目の『家族』が載った台にリアンが手を掛け、オードリーから二フィート程離れた、明かりが届く場所に引き出した。
 オードリーはそれが薄暗い場所から、光の下に現れる様を、益々増す寒気を堪えるように両腕を身体に回して背を縮こまらせながら、呆然と見つめた。

「まず……こちらが、旦那様です」

 ガラガラという、良く響く車輪の音と共に、オードリーの背後で未だ煌々と点る電球の光に、徐々に全体を写して行く、一番大きなシーツの固まり。

 それは、電球の光を跳ね返す程に磨かれた、金属の台の端から端までを埋める大きさで――その中心には赤黒い水たまりが出来、その赤が目に焼き付くと共に、オードリーは喉と口を押さえ、小さな背を折り曲げ嗚咽した。

「ッ……げほっ、ぐぅうっ……」
「っ、ドリー……っ!」

 涙より先に漏れたそれに、捲ろうと手を掛けていたシーツの端から手を離し、一歩も空いていないその距離に、すぐ側に駆け寄った。

 しかしリアンは、自分が苦しみと悲しみを堪えているような心地を覚えても、目の前で咳き込み続ける小さな身体に、手を差し伸べたりはしなかった。

 ――いや、出来なかった。死者を触ったのと同じ手で彼女を触るのが憚られたのだ。一度は見逃した死の運命が、再び彼女に擦り付けることになるような気さえして。

「……どうぞ」
「……」

 何も言わず、彼が伸ばせない己の手の代わりに静かに差し出したハンカチに顔を埋め、嗚咽と共に咳き込み続けるオードリー。

 その姿は、哀れでありながらも、生と死の狭間に在る昔の神話の女神のように毅然とし、気高くも見えた。

 ――冥界の王、ハデスさえも、愛情や執着以上の哀れみを見せ、彼女だけを死の国に連れ去らずこの場所に、リアンの手元に捨て置いたのではなどとさえ思える程に。

 だけれどリアンは、冥界の王でも、ただの医者でもない。彼女の従者であり、彼女の求めを叶えることを誓った婚約者候補である。

 ――彼が彼女に出来ることなど、たかが知れている。

「……他の二人も、引き出します。少し、このままお待ち下さい」
「……」

 彼は、顔を上げないオードリーに向かい、悲しげに一つ微笑んだ後は、また彼女に背を向けて淡々と、彼女が彼に望んだ家族との『面会』の場を整える準備へと戻った。

 己が彼女に唯一してあげられる、彼女の『願い』を叶えるという行為に従事する為に。自分が彼女の側に居る為の理由を達成せねばならないという己のエゴを満たす為に。



「奥様と……アニュゼット様です」
「……」

 断続的に響いた、カラカラと鳴る車輪の音と、リアンの淡々とした声を聞きながら、オードリーはリアンに渡されたハンカチに顔を埋めたまま、膝に肘をつき俯いていた。

 恐らく、俯かせていた顔を上げれば、そこには三つの大きさが違うシーツの固まりが三つ、オードリーに脚を向けるようにして、並べられていることだろう。
 オードリーがなるたけ不快感を覚えないようにと、色々な配慮や処置もされているかも知れない。

「――ドリー、大丈夫ですか?」

 甘く、優しさがたっぷりと含まれたリアンのその低い声。その裏には、確かに戸惑いと気遣いの気配がある。

 その戸惑いの理由は、自分の態度だとオードリーは分かっている。
 だから、今オードリーがすることは、顔を上げ、笑顔を作り「大丈夫よ、リアン」と、無邪気に彼の名を呼ぶことだ。そう、分かっている。

「……っ」

 頭ではそう分かっているが、オードリーは顔を一切上げないまま、小さくブルブルと頭を降るだけで応えた。

 嗚咽も、それによって生理的に目尻に浮かんだ涙も、一時の発作のように、起こった時と同じくらい唐突に引いて行き、もうとっくに止まっている。
 だけれど、リアンのくれたハンカチに染みた僅かな香水の匂いに集中し、目を強く閉じたまま、オードリーは顔を上げられなかった。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 9
9
 最初に引き出されたシーツの上にある、赤い沼が、何で出来たのかを聞き、そのシーツの下に居る人間が本当に父なのか、確かめなくてはいけない。

 残り二つのシーツも同様に、中がどうなっているのか、その下にあるのが見知った顔であるのかを、顔を上げ、のぞき込んで見なくてはいけないと思うのに。身体が動いてくれない。
 ここまでオードリーを連れて来てくれて、今も辛抱強く待ってくれているリアンの為にも、公爵令嬢としての自分の義務と矜持の為にも、今ここで顔を上げなければいけいと分かっているのに。

 オードリーは、自分で思っていたよりも、遙かに打ちのめされていた。
 リアンから聞いた、『背中を踏み抜かれた』という言葉の重さと、実際に自分の見た赤く光沢のある血だまりとの差異に。言葉と現実の重さの違いに。

(お母様と、アンの『怪我』は……どんな、だったかしら……)

 母は確か馬車の車輪に引きずられて頭を打ったと聞いた筈だ。そして、妹は――アニュゼットはどうだったろうか。どうにも思い出せない。
 それが、リアンに一切の詳細を聞いていないから思い出せないのか、聞いたのに思い出したくなくて思い出せないのか、さえ。

 ――引きずられ、頭を打った死体とは、一体どんな有様なのだろうか。

 人の死体は勿論のこと、オフシーズンに領地で行われる狩りでも、少女であるから参加出来ず、血抜きし捌いた後の獲物か、猟犬が咥える小動物を遠目に見るくらいのオードリーには全く想像が出来ない。

 だけれど今、想像出来ない事態が、確かに彼女の身には起こっている。
 起こっているからには、立ち向かわなくてはいけない。しかし、今のオードリーにはそれが出来ない。

 動作にすれば簡単なことだ。
 シーツを捲って、その中に居るのが他人でもなくお化けでもなく、自分の家族であると証明出来ればいい。

 なのに、腰掛ける石畳にジワジワと熱を吸い上げられたオードリーのお尻は根が生えたように動かせない。 
 行動と精神の間にこんなにも隔たりがあるのだと、今日この時までオードリーは知らなかった。

 ――思えば、目覚めてから今までの、たったの数時間の間に、知らないことばかりが起こっている。知らない事態に、知らない気持ち、知らない感情。

 その全てに、オードリーは一人で、何処か感情を麻痺させたまま、公爵令嬢として適切な道を思い描いて、流されるようにして対応してきた。

 気絶して、怪我を負い、家族の死を知り、初めて当主という立場から使用人へ命令を下し、口約束とはいえ婚約し――そして、今度は、無理を言って、こんな夜更けに生まれて初めて人間と死体と対峙し、検死の真似事をしようとしている。

 それらは『公爵令嬢』には、対応出来て当たり前の事態なのかも知れない。
 だけれど、オードリー・グレイスという、たった一人ぼっち、この先の運命も知れない、今日限りで孤児になってしまった少女に対しては、些か辛すぎる現実なのではなかろうか。

 立ち向かえなくて、当たり前なのではないだろうか。
 きっと、今の自分のような境遇の子どもが出て来る物語をアニュゼットと二人で読んでいるのだったら、繊細なアニュゼットなど、その子の行く末が心配になってご飯も喉を通らないかも知れない。

 そして、当たり前であるが、オードリーは物語の少女などではない。

 彼女は、身分以外に特筆した才能も経営能力も無い、ただの普通の少女で――これは、普通の少女なら到底経験することも無ければ対応も出来ない事態だ。

 だから――自分がどんな状況に居るか、どんな立場の人間であるか、全く知らない振りをして、逃げ出してもいいのではないだろうか。

(……!)

 そんな卑怯な気持ちが、今まで見ない振りをしていた弱音や恐怖と共に唐突に浮き上がり、オードリーの小さな胸を突いた。

(そんなの、卑怯な振る舞いだわ……子どもであることを利用して、成すべきことを……しないだなんて)

 成すべきを、顔色一つ変えずに成す。それが貴族の矜持であり、紳士淑女として取るべき態度だ。だけれど。

 そんなことは、身分も何も持たない、親と妹を亡くしたばかりの、子どもには関係ないことではないか。
 このまま顔を伏せたまま、普通の貴族の令嬢らしく、メソメソ泣いてリアンにここから連れ出して貰い、後はふかふかのベッドの中に倒れて寝かしつけて貰ってもいいのではないか。

 リアンの立身出世に利用されるでも、遠い親戚に身ぐるみを剥がされるでもしてしまって、公爵令嬢としての責任など放り投げ、誰かのよすがに縋りながら。
 家族を亡くしたただの可愛そうなオードリーとして悲劇に呑まれて泣き暮らせば。

 そうして、成人を待って親族に決められた結婚をして子を成すか、修道院で喪に伏して――女、しかも無力な少女である自分には、そんな暮らしも許されている筈だ。

 ――馬鹿で、無力で、愚かでも、許される筈だ。

「――お部屋に、戻りますか。ドリー?」

 そんな考えに陥り掛けたオードリーを現実に呼び戻したのは、皮肉にも、何とも歯切れ悪く、だけれど優しく、オードリーがいつの間にか望んでいた、この場所からの逃避を示唆したリアンの声だった。

 リアン――ドリーらと同じ黒い髪で、同じ綺麗と言われても、卵形のオードリーより怜悧で、男性的な顔の、静かなサファイアの色をした瞳の青年。
 彼女が目覚めてから今までの、たったの数時間の間。知らないことと対峙する様を見守り、その中から適切な道を選ぶのを、公爵令嬢らしく振る舞うのを、横で助けてくれた人。

 年端の行かないただの少女でしかない、公爵令嬢という身分以外に何も持って居ないオードリー・グレイスに従者として忠誠を誓い、あまつさえ、彼女の為だけにデメリットしか無い婚約を提案してくれた優しい人。

 ――そして、そんな優しい人に『婚約者のお願い』と言って縋り、こんな所に連れて来たのは。こんな深夜に死体に触れさせ、あまつさえ、こうして自分の世話までさせているのは。他でも無いオードリーだ。

(なのに、私は逃げようとした……リアンを置いて)

 ただの少女であるオードリーは、馬鹿で傀儡でしか無い公爵令嬢は、悲しみに暮れ、祈りに耽溺して社交界から忘れ去られることも、誰かの駒となることも出来るだろう。

 ――だけれど、そんな彼女の従者として、婚約者として名乗りを上げたリアンはどうなるのか。

 仕えるべき主を、手の届く範囲の場所で、理不尽な馬車の事故で奪われた挙げ句に。馬鹿で、無力で、愚かな公爵令嬢に振り回されて、親切を踏みにじられて。

 そんな幼く卑怯な子どもを受け入れたが為に、二度も主従関係を破棄されることになるだろう従者の末路は。

 きっと、優しい彼は受け入れてくれるだろう。今、彼女に掛けてくれた優しい声のように、「そうですか」というただ一言で、オードリーの選んだ道を肯定してくれるだろう。

(だけど、そんなのは、いけないわ!)

 オードリーはただの少女かも知れない。無力な、馬鹿で、愚かな。だけれど――オードリーは、リアンの主であり、仮初めとはいえ婚約者なのだ。
 彼のその献身に応え、その為に、公爵令嬢としてふさわしい振る舞いをすべきである。

 ――リアンに、軽蔑されたくない。

 少し前に感じたその気持ちと、それを感じたその時、彼によってマリアンヌに向けられた冷たい目をもう一度思い出し、オードリーは一つ、身を震わせた。

「――リアン」
「ドリー、大丈夫ですか!?」

 そして、ゆっくりと深呼吸をすると、顔を上げて、その長身を僅かに折って、自分を正面から覗き込むリアンに――まだ優しい色を湛えている優しい瞳に――自分の決断がまだ遅くなかった事に安堵しながら、その両手を彼に向かって差し出した。

「連れて行って。私を――公爵令嬢オードリー・グレイスを、みんなの『顔色』と『具合』が分かるくらい近くに」
「……宜しいのですか?」
「えぇ、だってそうでしょ? 私はここに、家族の『お見舞い』に来たのだから、顔を見なくっちゃ始まらないわ」

 だから、連れて行って欲しい、と、膝を突いたリアンの首に腕を回し、抱き上げられながらオードリーは言った。

 みんなの――三体の死体の、顔と損傷箇所が、はっきりと分かる距離に行きたいと。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 10
10
"死は、全ての人に平等に訪れる、復活の前の安らかな眠りである"

 その文言をオードリーが最初に聞いたのは――あるいは最初に読んだのは、何処だったろうか。

 ある日に領地の教会で開かれたミサでのお説教であったか、物心付く前に出席した誰かのお葬式での話だったか――教養として、さわりだけ教えられた神学の授業で読んだ本だったか。

 それについて、今のオードリーの見解と意見を求められたのであったら、その答えは、たった一つだけだった。

 ――それを臆面も無く言ったか、或いは書き綴った大人も、それをオードリーを始めとする子ども達に信じ込ませようという大人も。きっとみんな、主の復活の日にはラッパの音と共に棺桶の中で貪る惰眠から天使に蹴り出され、地獄の業火に焼かれる程の大嘘つきだ、と。

 寝台の傍らに置かれた椅子に座ったリアンの膝に後ろから抱き抱えられながら、オードリーの見た『安らかな眠り』に付いている筈の両親の姿は、そんな優しく美しい言葉でなど、到底表現出来ない程に凄惨だった。

 母は、その双子よりも柔らかな印象を与える、人間らしい美しさを持った顔に浮かんだ表情だけならば、それらが教える文言通り、『眠っている』と言っても通じたかも知れない。
 ただし、綺麗な顔のあちこちに泥に汚れた石畳のいつも綺麗に結っている栗色の髪の一部が血で汚れて背中まで下ろされて――オードリーらと同じ色の目を隠した瞼の上に巻かれた包帯が赤黒く変色し、その包帯の下にある、いつも父がキスを送っていた理知的な美しい額の一部が、子どもの拳一つ分、茹で卵の殻を叩いた時のように陥没していなければの話だが。

「ねぇ、リアン……ここに、赤ちゃんが、居たの?」
「えぇ」

 シーツに隠れたお腹に手を当ててみたが、そこには何の膨らみも無く、勿論、命の脈動も――人間にあるべき温度さえ、一切感じられなかった。

 父は――顔だけは痣と切り傷が少しで綺麗なものだったが、その眉間の間には深い皺が刻まれ、いつもオードリー達に向けて、緩やかな弧を描いて笑いかけていた唇は苦悶のままに時を止めて歪んでいた。

 顔が確認出来るようにリアンが胸元まで――致命傷となった、馬に踏み抜かれた傷が辛うじて見えないくらいまで――捲ったシーツの下に隠れていた身体は、それが正装であったなどと分からない程あちこちに汚れと鉤裂きが出来て、首元の、いつでも洗濯が行き届いて白かったネッカチーフとシャツにはべったりと赤黒い染みが広がっていた。

 その汚れ方から、恐らく、血を吐いたのだろうことは何となく分かった。顔が綺麗なのは、きっとリアンが拭いたのだ。
 忙しい時などたまに、剃り残した髭でザラザラとした、精悍な頬に手を伸ばそうとして、オードリーは一度、手を止める。
 腕から身を乗り出したままリアンを見上げると、こくりと小さく頷いたので、オードリーは、父に向き直り、手の平でそっと触れた。

「ゃっ……!」

 地下の温度に、冷えて震えるオードリーの小さな手の平よりも冷たいその冷たさに、思わず手を離し、また父の顔を凝視する。

 ――ただ、その頬に触っただけ。そしてそれが予想以上に冷たく、人間らしくなく、堅かっただけ。

 たったそれだけのことで、寝台の上に苦悶の表情で横たわるそれが、父ではなく、『父と同じ顔をした別の誰か」のように見えるから不思議で――そして、とてつもなく恐ろしかった。

 体温や柔らかさが在るか無いかだけで、父を父でない物のように思えてしまう自分の薄情さも。

 たったそれだけが無くなっただけ、それだけで、今まで互いに慈しみ合い、抱きしめ合っていた人とは全く別の、物になってしまう『ヒト』という生き物も。

 ――それは、オードリーが初めて体験する、生き物の死という現象だった。

「ドリー、」
「あ……」

 ふいに、オードリーを抱く腕にぎゅっと力が込められる。
 それと共に、心配そうに呼ばれた自分の名に、オードリーは初めて、自分の身体がカタカタと小刻みに震えていることに気付いた。

 腹に回されたリアンの堅い腕を思わず両手でぎゅっと掴むと、手の平に触れたその堅い皮膚と筋肉の下に、確かに命の温度と鼓動。そして生き物特有の弾力を感じて、オードリーは知らず、小さく息を吐いた。

「――リアン」
「はい」
「冷たいわ、お父様……」
「えぇ、ドリー。死体は――魂の召されたヒトは、皆、冷たいのです」
「みんな……?」
「えぇ。どんなに立派な人も、偉い人も、浮浪者も、女性も男性も――貴女より、もっと幼い子どもも」

 オードリーの旋毛に顎を寄せるようにして、頭の直ぐ上で聞かされたその声に。
 オードリーはある可能性に――もしかしたら今ここに在ったかも知れない未来に気付き戦き、リアンの腕に一層強く縋り付いた。

 その可能性に気付いた途端、心臓がぎゅっと絞られ、折角拭いて貰った背中に生ぬるい汗が噴き出し、赤い瞳孔は大きく見開かれ、呼吸は浅くなり――オードリーの心身は今、確かに強く恐怖していた。
 体温が凍ったように下がり、カタカタと歯の根が合わない程に震え、目の前が霞む程に強く。強く。オードリーは恐怖し、その心身は、頭で考えるより先に、確かに怯えていた。

 今この時までは、ただ家族のことだけで頭が一杯で、置いていかれたことへの悲壮と、これから起こる未来への不安しか無かった。

 だから――今まで忘れていられたのだ。オードリーは、その可能性を。
 オードリーも、魂を失い、体温と柔らかさを失って。身体を裂かれ、苦悶の表情のまま時を止めていたということを――人間が本能的に恐れる、死への、自己を失い、損ねることへの恐怖を。

「リアン、リアン……っ」
「ドリー?」 

 急に、縋り付くように腕に捕まって来たオードリーの様子にリアンは、その理由を促すように頭を撫でながら、俯いて、ずっと自分の父であった物を見下ろす彼女の顔を覗き込んだ。
 オードリーは、リアンを見上げ、こくり、と喉を鳴らすと、腕から身を捩り、蠍の心臓にある赤星のように凍り付き、恐怖の滲んだ目で彼を見つめ、その首もとに縋り付いた。

「ねぇリアン――私は、温かい?」
「――一体、どうしたのですか……?」
「ねぇ、ちゃんと温度がある? 冷たくない? 柔らかい?」

 縋り付き、彼の頬に、子どもらしく丸い頬を寄せたまま、震える息の合間から矢継ぎ早に耳元で囁かれたオードリーのその質問。

 それらの意図を、恐らく彼女よりも正確に理解したリアンは、瞠目し――殆ど反射的に、小動物のように震え上がるオードリーの背中を撫で、子どもらしい柔らかさを残したその身体を、強く強く抱きしめ返した。

「大丈夫、ドリーは柔らかくて、温かくて――魂のある、人の身体です」
「ほんとう? 私、あたたかい? ちゃんと、」
「えぇ、ドリー。貴女は生きています。ちゃんと、生き残った……!」

 ――あなたは生きている、私が抱きしめているのは、生きて呼吸をしているドリーだ。貴女は助かった。私は貴女を助けられた。

 だから、もう大丈夫。

 そういった言葉を震えて怯えるオードリーに何度も何度も言葉を変えて辛抱強く。
 震えて冷える小さな身体を撫でながらリアンが言い聞かせ続けると、何度目かに漸く、彼女の身体の震えは止まり、リアンの首もとに預けられていた頭は、漸く離れた。

「――落ち着き、ましたか?」

 リアンは、やっと体温と、人間らしい赤みの戻って来た柔らかな頬にまた頬を寄せ――自身も、腕の中にある、その温度と柔らかさに安心し、堪能するかのように。
 目を閉じて、深く息を吐き出すと共にそう聞いた。

「ごめんなさい……取り乱してしまって」
「大丈夫ですよドリー、死は、誰でも等しく怖い。大人でも――医者でも」
「リアンでも?」
「えぇ、いつも怖くて仕方ありません。自分の死も、親しい誰かの死も。誰かの死を見れば尚更に恐れは増して行きます。死ぬのが怖く無いのは、死なない人間だけでしょう」

 寄せられた頬に、更に頬を寄せ返しながら聞いたオードリーの質問に、リアンは苦笑を滲ませて答え、その頭を撫でた。
 オードリーはその感触を受け止めながら、赤い目をゆったりと細め、再び首もとに顔を埋めた。

「――私と、リアンは生きているわね」
「えぇ、私も貴女も生きて、ここに居ます」

 だから、何も怖くはない。少なくとも――今、は。
 怖がっても仕方ない。不老不死でも無い限り、人はいつか必ず死んでしまうのだから。

 オードリーは、リアンの言葉に、こくり、こくりと頷いては、背中を軽く叩く手の感触に、段々と恐怖が落ち着いて来るのを感じた。

 よく考えれば、死への恐怖を覚えるのも、こうやって怯える度、辛抱強く、幾度と無くリアンに慰めて貰えるのも、皆、オードリーが生きているからなのだ。

 ――過程はどうあれ、オードリーは今、生きている。
 魂が肉体に留まっているから。父や母のように、魂の抜ける程に大きな損傷を身体に受けることがなかったから。

「……でも」

 オードリーは、リアンの肩に小さな顎を乗せ、膝立ちになり、彼の後ろ――三台目の寝台に置かれた、未だに捲られていない、他の二人と違って小さな――恐らくオードリーと一インチも違わない大きさをしているのだろう――シーツの固まりをじっと見つめた。

「アニュゼットは――私と同じ身体に、私の半分の魂を持った、あの子は死んでしまった」

 視界が歪むのを、深い呼吸で誤魔化しながら、何かを探るように、分け合うように、ただ一心に。
 自分の半身が辿った死への旅路を、その魂の行方を、自分の目で見定めるかのように。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 11
11
――アニュゼットは、オードリーのただ一人の半身であり妹は、綺麗な顔をして眠っていた。

 今ここに、生きてリアンの手を握るオードリーと、同じ人形師の手によって作られた人形よりよほどそっくりな――いつか、誰かが二人を見て言った、『神様の定規できっちりと計って作られた』顔に、何の表情も浮かべず、静かに瞑目して。

「……アン? アニュゼット?」

 永久の眠りに落ちたアニュゼットの枕元で、生きて魂を持ち、彼女の名前を呼びながら浅い呼吸を繰り返し、血の気がない白い顔を縁取る長い黒髪を撫でる。

 そんなオードリーとは違い、アニュゼットは擦り傷一つ無い綺麗な顔で、ただ眠っていると言われても信じそうな程に穏やかで――同じ顔のオードリーから見ても、素直に綺麗な顔だと言えた。

 もし、今ここで二人並んで胸の前で腕を組み、目を閉じたなら、恐らく誰もが――顔にはいくつかの小さな傷、脇腹を始めとしたあちこちに打撲傷。震える唇からは色が失せ、青白い顔で震える――オードリーの方を魂の無い死体だと思うことだろう。

 きっと、醒めることのない眠りについているのは姉の方で、その妹は、揺り動かせば簡単に眠りから目覚めるものだと、そう信じ、本当に起こそうとする人間も居るかも知れない。

 実際、オードリー自身も、今彼女を目の前にして、見下ろしていても信じられない。散々言葉で確認し、父母の無残な遺体を見た直後だというのに。
 アニュゼットのことはこうして触れることが出来るし、やれと言われたならば、その額や赤い唇に、昔よく一緒にやったごっこ遊びのように、目覚めの口づけを送ることだって出来るかも知れない。

 または誰かに――お前の身体はこれで、お前はこの身体から抜け出た魂なのだと言われたら、オードリー自身も、それを信じてしまうかも知れない。

「――ねぇ、何でアニュゼットは死んでしまったの?」

 だから、オードリーはアニュゼットの額に掛かった髪を手櫛で撫でつけてやりながら、首を巡らせ背後のリアンを見上げ、無垢な――見る人によっては虚無を宿した――澄んだ赤い瞳を向けて、そう尋ねずにはいられなかった。

 二つ並んだ同じ顔が鏡合わせに並ぶことで、その身に触れながら、死体が上げることの出来ない声を上げることで。
 それが、ただ眠ってだけ見えるアニュゼットの死体に検死を施して、『死体』という名前を付けたリアンにとって、居心地の悪い問いかけだと自覚しながらも。

 死体と同じ顔をした人間が、その死因を尋ねる。それはまるで、死者が自分が物言わぬ身になった理由を医者に――リアンに聞いているようにも見えるだろう。
 ――ねぇ、教えて、どうして私は死んでしまったの? 何であなたは私を助けられなかったの? と。

「……身体は恐らく、旦那様が庇ったから無事だったのでしょう。だけれど、投げ出された時に、強く頭を打ったようで、心臓の音と呼吸は止まっておりました……体温も」

 澄んだ赤い瞳にじっと見上げられながら、リアンは己の言い分がどうにも言い訳じみているような気がして、目を逸らし、途中で言葉を止めた。

 オードリーが疑うのも無理は無い。

 彼女とうり二つの顔をしたもう一人の公爵令嬢、アニュゼット・グレイスは、目立った外傷も一切無く、ただその身から魂と温度、そしてその二つが作る生き物の弾力だけを無くして、それこそ眠るように動かない。

 この世界には極たまに、致命的な外傷は何一つ無いのに、強く頭を打ったり等した直後、呼吸と心臓だけがあっという間に止まり――場合によっては呼吸だけは続けて数日掛けて衰弱し――医者が検死をするか、数日が経ち腐敗しないと、死んだのだと分からない者がいる。

 それは、医者や薬師といった職業の人間であれば、立ち会うことが決して珍しくはない現象であり死に方で、医者同士では、手の施しようが無い状態である、と暗黙のうちに認められている。
 勿論、そういう死体は埋葬の後『起き上がる』ことも珍しく無いので、検死だけは念入りにやるようにというのも、実際に医者として働く人間の暗黙の了解だ。

 ――だが、目の前の、まだ幼さが残る少女はどうだろうか。

 年齢より賢くても、まだ子ども。しかも医学の知識が無いオードリーに、結果として息をしていないから死んでいる、という理屈が通じるのだろうか。

 もしも――オードリーと、彼の大事な主と同じ顔をした妹を、何の手も尽くさず見殺しにしようとしているのだと思われたのなら。
 きっと自分は耐えられないことだろうとリアンは思う。

 側溝の中からやっと見つけ出して拾い上げ、今のようにして腕に抱え込んだ体温が、呼吸が、心音が。

 彼が助けられなかった命とは違い、このまま消えて行かない確かな物だと、確信を持って言えるようになるまでの数分の間より遙かに。
 今この時、糾弾するでも悲しむでもなく、ただ見上げて来る赤い瞳に、次に浮かぶ色が何か、見当が付かない今この時でさえ、余りに辛いのだから。

「――そう」

 だけれど、リアンの言葉に、そう鷹揚に頷き返したオードリーが次に取った行動は、彼の予想とは全く違っていた。
 彼女は彼の腕の中でやにわに身を伸ばすと――ばさりと長い髪を靡かせながら、自分と全く同じ顔、同じ身体をした死体の胸に倒れ込むように左頬を当て、そのまま静かに目を閉じたのだった。

 ――そうして、アニュゼットの胸に頬を預けたまま、オードリーは、ぴくりとも動かなくなった。

「――ドリー?」
「………」

 呼びかけにも応えず、身動きもしない彼女の丸い右頬には幾筋かの黒髪が張り付き、その乱れた髪の下には、やはり身動きなど一切しない、彼女そっくりの少女が目を閉じて眠っている。

 ジ、ジッ、と時折僅かな燃焼音を立てる電球と、リアンとオードリー、どちらの物とも付かない呼吸の音以外に、音の発生しないその空間は、どちらが生者で、どちらが死者なのか、一瞬分からなくなりそうになる。

 このまま――もしこのまま、そっくりな二人がくっつき合い、この地下で、双子にしか分からないであろう静寂を分け合っている様を許容するうち、今リアンが掴んでいる筈の熱が、寝台の上の物言わぬ身体に移って行ったなら。
 助けた筈の者が、焦がれた筈の者が、入れ替わってしまったのなら。自分は一体どうなるのか。

 普段の自分なら一笑に付すだろうその戯れ言じみた発想は、だけれど、こと、彼女のことに関してだけは、どうにも妙な――だけれど逆らえない圧迫感を持って彼の身に、心にのし掛かって来る。

「ドリー、そろそろ……」

 それが明確な恐れという名の輪郭を描く直前。
 リアンはそう言って、動かないオードリーの肩を少し強めに揺さぶってみた。

 実際、彼女が己の妹に耳を押し付けてから、そう時間は経って居ないだろう。だけれど彼はその時既に、一刻も早く、彼女と彼女の妹を引き離さなければいけないような焦燥に駆られていた。

 そういった野性的な、直感的な不安は女性の――それも貴族の、不安を訴える他に自分の意向を示せない人間の専売特許だとさえ思っていたのだが。

「さぁ、これからもっと、冷えますよ……もう、帰りま――」
「……心臓、お……、ない」

 夜の冷えと、訳の分からない焦燥を振り切る為、いよいよ、その小さな肩に手を掛け、無理にでも抱き上げて外へと連れだそうとしたリアンは、ぽつりと聞こえたその声に、手を止めた。

「……ドリー?」

 彼女の顔に掛かる髪を、この短い間で馴染んだ仕草で顔から払ってやりながら、リアンは目を閉じたその顔をのぞき込み、そして彼女の顔の横に置いたままの手を止めた。
 ――彼女は、オードリーは泣いていた。顔に掛かった髪と少ない明かりで分からなかったが。

 閉じ合わせた目と長い睫の影の間から、頬を寄せたシーツに染みが出来る程に激しく、ボロボロと涙を流しながら、だけれど歯を食いしばり、嗚咽を堪えて静かに泣いていた。

 ここまで、どんな時も、目を涙で潤ませる事や、身体が受けた苦痛の反応として涙を流すことはあっても、年相応、子どもらしく、感情を吐露するかのように泣き出すことだけは絶対にしなかったオードリーは。

「リアン、心臓の音、しない……よぅ」
「……そう、ですね」

 鼓動の聞こえない妹の死体に頬を寄せ、泣いたことで一層赤さの増した赤い瞳をうっすらと開いて視線だけで見上げたリアンに髪を撫でられ、いよいよ大声を上げて泣きじゃくり始めた。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十二歳 > 地下室への誘い > 12
12
 ずっと一緒に居られなくても、二人で年を取ろうと約束した。
 互いの死を看取ろうと約束した。

 だけれどそれは、大人になってからの話。
 その筈だったのに、あなたはもう、大人にならないんだという。

 何で私だけが大人にならなければいけないの?
 全く同じ日、同じ場所に、同じように生を受けて、それからずっと一緒に生きて来たのに。

 何で、死ぬ時は別々でなければいけないの?
 何で、死ぬまでずっと一緒ではいけないの?

 私と鏡写しのあなたは年を取らないのに、何で鏡の向こうの私だけは年を取らねばいけないの?
 私があなたと別れるなんて、あなたと私の見た目も年齢も違ってしまうだなんて。
 ――そんなことは、絶対に許されない。

 例え誰もが、私からみんなを奪った神様さえもそれを許しても。
 ――私は、私だけは絶対に許さない。

 ねぇ、あなたもそうでしょう? アニュゼット、私の半身。
 あなたがそう望んだから、私は、こうしたいと思うのよね?
 だって、私たちの意見が、心が、別れたことなんて、今まで一度もないのだから。


「……り、あん」
「――はい、ドリー」

 ――どれくらい、泣いていただろうか。

 蝋人形のように冷たい自分の半身の胸に顔を預け、一生分と呼んでも生ぬるい程の涙を流し続けたオードリーは渇いた喉を震わせて、背後で自分の背を撫でていた人の名前を呼んだ。

 ずっと口の中で顎に押し付けるようにして嗚咽を防いでいた舌は縺れ、眉間と両目に力を込めすぎたせいで頭はガンガンと痛み、アニュゼットの胸から、持ち上げることが出来ない。

 その痛みと泣きすぎたのとで焦点の合わない目でアニュゼットの細い喉から顎先に掛けての繊細な線を半目で茫と見つめながら、オードリーの頭は驚く程に冷静だった。

 ――少なくとも、自分では、冷静だと思っていた。

 散々泣いて火照った頬から喉に掛けての熱とは裏腹に、シーツをべったりと濡らして染みを作り、その下にある温度の無いアニュゼットの肌に温度を分け与えるまでに流し続けた涙によって冷やされた頭は――その胸の中にある幼い魂は。

 その小さな身が、周囲の気温に負けない程に冷え込んで、涙に暮れる最中から、オードリーにある一つの考えを啓示していた。
 あたかも、涙に暮れる彼女に、身体から離れたアニュゼットの魂が、その考えを囁き込んだように。

 ――ねぇ、ドリー、こうしましょうよ。

 と、あの無邪気な声が発するのは、いつだって、彼女の願いであり、同時に、オードリーの願いだった。
 どんな突拍子も無い発言も、くだらない悪戯も、思いつくのはアニュゼットで、止めるかどうかを決めるのはオードリーだったから。

 そして、アニュゼットに啓示されたかのような、その考えを口にするには、オードリーは良い子どもであり、賢すぎた。何時だって、その賢さと良識が、彼女達の枷であったのだ。

 だけれどその枷も、今この時、涙と一緒に溶けてしまった。
 アニュゼットを戒め、オードリーに我慢を強いる良い言葉も、堪えた嗚咽と共に喉の奥に張り付いてしまった。

 だから――滴る程に濡れて、泣きすぎて腫れたた赤い瞳はただ、幼い己の欲望だけをその瞳に写して妖しく煌めき、美しい宝石のように光る、それだけをただうっとりと見つめていた。

 手を伸ばせば届くかも知れない宝石の、そのすばらしさを――。

 オードリーは、幼い顔立ちに悦然とした頬笑みを作ると、目の前にある半身の喉から顎に掛けてを、まるで子猫の喉をくすぐるように、細い指で何度も辿った。

「……り、アン」
「はい」
「リぁ、ン」
「……はい」

 ――それでも、何処かに少しだけ残る、自分の立場を正しく理解し、良識を弁え、神の教えを敬虔とは行かずとも信じ、いつか落とされるかも知れない地獄に怯えていた善良な魂はそれを声に出すのを躊躇う。

 そうして、言葉を覚えたての子どものように、一つの単語だけを発し続け、妹の肌を名残惜しむように撫で上げながら、躊躇って、躊躇って。

 本当に口にしたい願いの代わりに、頬笑みながら無心に物言わぬ妹の喉を擽り続ける自分を正しい道に呼び戻すように抱きしめて。

 頭を撫で、神を掻き上げ、額に口づけまで落としてくれる、優しい人の名前を、何度も、何度も、呼び続けた。

 嗚咽を堪える以外に使い道の無かった喉と口が、彼の名前の正しい発音を思い出させようとするかのように。

 彼女の欲望を叶えてくれる人間が誰であるのか、それを彼は本当に成してくれるのかを、その律儀な返事の間隔と声を元に見極めようかとするかのように。

「――リアン」
「はい」

 やがて、上手く動かなかった口が流暢に彼の人の――彼女の婚約者であり従者であり、もしかすればこれから、もっと長い付き合いの運命共同体となろうとする男の――名前を呼べるようになり、指先でなぞっていた妹の喉もとに摩擦で仄かな熱が生まれる頃。

 彼女は赤い舌で唇を一つ舐め、妹だけを見つめていた頭を傾け。
 まるで夢を見ているようにうっとりと細められた赤い瞳から一筋だけ目尻に残った涙を流しながら、自分を見下ろす悲壮な色を纏った青い瞳の男を見上げ、無邪気な頬笑みを作った。

「私ね、アニュゼット――アンから離れたくないの。一生、ずっと一緒に居たいの。冥界のハデスにも、屋敷の納棺堂にも――神様にだってあげないわ。アンは私の側に、私はアンの側に居なければいけないのよ。……アンが生きてたって死んでたって、私達は今までと同じよ。二人で一生、あの屋敷で寄り添って居られればそれでいいの……ねぇ、リアン。これは冗談とかそういうのじゃないの」

 そこまでを一息に言った後、オードリーは言葉を切り、困惑に揺れる青を見上げながらクスクスと喉の奥から笑いを漏らし――そのうち、幼い子どもらしく、抱きしめられた身を捩る勢いで笑いながら、身を乗り出して腹ばいになり、アニュゼットの身体の上に重なった。

 そうして、自分と全く同じ顔をした死体に額をくっつけ、「ねぇ、そうよね、アニュゼット」と、姉妹同士仲良く内緒話をするように色の褪せた唇に吐息の掛かる位置で呟き、両手を冷たい頬に当てたまま、その蠱惑的な瞳で、じっとリアンを見上げた。

「私は――『私達』はね、あなたにそれが、出来るか出来ないかを聞いているだけのよ?」

 ――ね、どうする、リアン。
 そう続け、唇同士を合わせそうな程、顔を寄せ、まるで二人で考えた悪戯の仲間に、大人のリアンを巻き込もうとするように囁き合うように見える姉妹の様子に、リアンはまず、状況を忘れて見入り――次には、腹の底を突き上げるようにどす黒い、殆ど人間としての本能に近い、純粋な嫉妬を覚えた。

 彼は、今まで何かを欲したり羨んだりしても、自分の手に入らない物には早々見切りを付けていたし、幼い頃も年の離れた兄が上に居るせいで、何を出来なくても持っていなくても、それが当たり前であり、何かや誰かに嫉妬したことなど無かった筈なのに。

 その感情は、幼い子どもが親しい人間から仲間はずれにされたような、本来自分の物である筈の物を人に取り上げられたかのような強く、そして純粋な、冷静な彼が心から持て余すように強い感情だった。

「ねぇ、そうよね、アン。えぇ、分かっているわ」

 ――彼女は自分の物になった筈なのに、何故、お前が触れるのだ。まるで恋人のように親しげに話すのだ。

 片方は物言わぬ死体である、自分よりも遙かに幼い少女に持つ感情では無いだろう。だけれど彼は、その時、自分の内側にあるその感情を可笑しいとは微塵も思わなかった。
 ついさっきまで慰める余地もなく泣きじゃくっていた少女が、娼婦もかくやという悦の籠もった瞳で自分を見上げ笑いかけたことも、その少女と死体の妹が今、目の前で彼には分からぬ言葉で楽しげに会話していることも、全て自然と受け入れていた。

「誰が可愛い妹を、遠くになんてやるものですか」

 ――お前は、生まれてからの十年、私が彼女に出会ってから今日までの六年もの間、ずっと彼女を独占して於いて尚、彼女の心を縛ろうというのか!

 ずっと焦がれ、仮初めであっても、やっと彼の物になろうという彼女を、目の前で今度こそ奪われる。

 瞬間頭の芯を沸騰させたその怒りは、医者としての年月の習い性で、表に出さないようにと出さないようと拳を握り堪える内にやがて、如何ともしがたい焦燥へと変わり、いよいよ彼が無理矢理にでも双子を引き離すべきだと思い始めた丁度その瞬間。

「ねぇ、それでリアン。あなたは私の『お願い』を、聞いてくれるの?」

 見計らったかのように、今までアニュゼットにばかり意識を取られていたオードリーが顔を上げ、両手はアニュゼットの頬に掛けたまま、リアンの瞳を、石榴石の赤色でじっと見つめ、小首を傾げて頬笑みながらそう問いかけた。
 ――入れて欲しいと欲した遊びに、いよいよ混ぜて貰えるように頼み込もうと思った瞬間に引き入れられたなら。唯人は、一体何と返すのだろうか。

「――えぇ、出来ますよ。ドリー。ちょうど、そういう研究をしている所なのです」

 彼は――リアンはその瞬間、この後、彼と彼女の一生を賭けて行われることになる、その、良識を踏みつけて、人の死を踏みにじるような『遊び』に、その瞬間、飛び込むことを決意した。

 どちらにしろ、そんなことを出来るのは彼一人、彼女らの遊びを成就させる為に、彼女達が望む生活をさせる為に、技術と立場を尽くすことが出来るのは彼一人。

 例え大金を積まれようと、彼女らがやろうとしていることは、リアン以外にどんな人間にも出来はしない。いくら片割れが彼女を縛ろうと、いつだって、『彼女』を助けることを出来るのは、世界に彼一人、リアンだけなのだから。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十三歳
オードリー・グレイス十三歳
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十三歳 > 十三歳の五月
十三歳の五月
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十三歳 > 十三歳の五月 > 1
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 その年、よく晴れた五月の中頃――。
 グレイス公爵とその妻、グレイス夫人、そしてその娘の一人であるアニュゼットの三人の葬儀は、グレイス公爵家の領地内にあるカントリーハウスにて、唯一遺された幼い公爵令嬢オードリー・グレイスの主催でしめやかに営まれた。

 主催である令嬢がまだ後見の必要な未成年であることもあり、葬儀は、新聞で大々的に告知することもなく近隣の貴族と親族だけを呼んだ規模の小さな物であった。

 にも関わらず、その日、グレイス家の治める領地の領民は全て喪に伏し、前日の雨を受けて若草色に光るクローバーが一面に生え、種類も色も様々な見事な薔薇に彩られたカントリーハウスの庭には、黒い波が押し寄せるようにひっそりと、沢山の人が集まっていた。

 重厚で、グレイス家と縁のある、、狼の顔を象ったドアノッカーの取り付けられた両開きの扉と白い二段の階段の玄関ポーチの前に用意された白い布が掛かった台には光沢ある黒塗りの蓋が閉じた三台の棺が並べられている。

 人々は、それぞれ大きさの違う棺――特に、一つだけ小さな主催である令嬢の双子の妹の棺の哀れさ――にハンカチでも拭い切れない程に涙しながら、その前に用意された献花台に各々、入り口で手渡された花を捧げていた。

「二ヶ月の間床に伏し、病み疲れて亡くなったという、邸の入り口で我々を迎え入れてくれた令嬢とうり二つ、可憐な顔をした少女の死体は。その死は、どれ程に儚くもの悲しいことだろうか」

 ――誰ともなく、そう囁き合いながら。

 入り口で主催の少女が直々に渡した、この邸の庭で咲いたという初夏の日を照り返す白い薔薇が、本来入れられるべき棺の中ではなく、その前の献花台にのみ置かれて行くその理由を。

 本来ならば別れの抱擁やキスを受ける為に、人々に向けて開け放されているべきである三台の棺の蓋がしっかりと留められているその理由を。
 ここに招かれ、彼らを見送ることを許された、親交、または身分のある賢明な客人は皆、等しく理解していた。

 ――例え、根も葉も無い噂や、状況から読み取った多少の脚色や憶測、または醜聞を交えながらであったとしても。

 緑に広がった黒の中で知人を見つけては涙を拭く為のハンカチで、目元だけでなく内緒話をする口元までを覆って、レースの帽子や薔薇の作る茂みの影で、まことしやかに囁き続ける程度には、彼らは皆、『事情通』であった。

「二ヶ月前に馬車の事故に遭い、打ち所が悪かった上に傷が化膿して今まで寝込んでいたのですってね」
「余りに酷い状態だから使用人に見られることも良しとせず、看護は令嬢と彼女が雇った医者だけが行っていたそうだよ」
「アニュゼット嬢などは、生きながらその身が腐って行くのに耐えられず、毎夜狂ったように泣き叫んでいたと使用人に聞いたよ」
「あら、わたくしは皆、意識の無い状態で心臓だけが動き続ける生ける屍のようだったとも……」
「夜中に起きた行儀見習いの子が、汚れた包帯の入った変な臭いのする盥を抱えた医者を見たとか」
「まさか! ……よくもまぁ、そんな怪我の世話を二ヶ月も」
「――どちらにしても、オードリー様は気の毒なことであるね」
「えぇ、全く」

 そして今回の葬儀の主催にして、先週無事に満十三歳となり、家族の看護を手伝い死を看取るその過程で、献身的に助力してくれた医師と互いに恋情を抱き婚約したグレイス公爵の忘れ形見。

 公爵令嬢オードリー・グレイスは、父と学生時代から懇意にしていた友人だという男性とにこやかに握手を交わしながら、頭の片隅の冷ややかな部分でそのうわさ話に耳を傾けていた。

「――余り、気にしてはいけないよドリー。君の、いや、君ら二人の献身は、あいつ……君のお父上や、君達と懇意にしていた人間にはしっかりと伝わっているからね」
「えぇ……ありがとうござます、パトリック伯」
「君も……どうかこの哀れな令嬢を変わらず支えてあげておくれ、リアン・レオニス君」
「えぇ、勿論です伯爵」
「ふふっ、これは心強い。良い婚約者を得たね、ドリー」

 どうやら彼らの囁く噂は彼にも聞こえていたらしく、パトリック伯はオードリーの肩口など簡単に覆ってしまえるグローブのように大きな手で彼女の背中を優しく叩くと、傍らに立つリアンに目を遣り快活に笑ってその場を後にした。

 その、幼い頃はアニュゼットと喜んで抱きついた、まるで熊が正装をしたようなずんぐりした背が消えて行くと、オードリーは小さな溜息を吐いて、傍らで彼女の腰を抱いてエスコートする男を、小首を傾げながら見上げた。

「ねぇ良い婚約者様、うちの邸から余所に噂を振りまいたのは誰かしら?」
「さぁ。伯爵の言う通り、どうでもいいことではありませんか」
「それもそうね、みんな、家に帰しちゃったもの」

 あっさりとそう言ったオードリーは、自分を見下ろすリアンににっこりと笑うと、自分の腰に当てられた腕から逃れ、彼に向き合って、腰元に甘えるようにすりよって正面からその青い瞳を見上げて頬笑んだ。

 四人家族だったものが、オードリーとリアンの、たった二人になったのだ。

 最低限、家を維持出来れば、身の回りの世話をする使用人はそう沢山必要無いと、この二ヶ月の間に幾人か、昔から仕えている使用人だけを残し――特に噂好きで年が若く低くても爵位持ちの実家から来ているような少女らは――みんな暇を出していた。

 思い出の残った邸に残るのが辛いという母付きだった若く優秀な侍女も――前回のシーズンで、偶然、結婚が決まった家庭教師マリアンヌも。

「今考えるべきは、これからの『三人での』生活と、お父様とお母様に捧げるスピーチの内容よね――ねぇリアン、約束通り……」
「えぇ、ドリー。全て済みました。今晩にでも『面会』は可能ですよ」
「まぁっ、そうなのね!」

 にこやかに笑ったリアンに対して手を打ち鳴らして、余所から余り分からないよう小さく――それでもリアンだけが覗き見られるその石榴石色の瞳の中に隠し切れない喜色を滲ませたオードリーは、だが、次には俯いて、控えめにリアンの服の裾を引いた。

「どうしましたか、ドリー? 何か心配事でも?」
「……ねぇ、リアン、馬鹿なことを聞いてるとは分かっているんだけれどね……」
「はい」
「……二ヶ月ぶりに会ったら、『あの子』と私が違ってしまってたなんてこと、無いかしら……」

 おずおずと顔を上げ、不安そうに――だけれど羞恥に顔を赤らめて聞いて来る、少女の可愛らしさに思わず緩みそうになった口元に目ざとく気付いた少女の頬が、余計赤い色を増し。
 笑われたと思ったのか、僅かに口を開いて何かを言おうとして絶句する。

「酷いわリアン! 何も笑わなくてもいいじゃない!!」
「い、いえ、決してドリーを馬鹿にした訳じゃないのですが……」

 その様子を一頻り眺めた彼は、「すみません、ドリー」と声を掛けながら、彼女が滅多に着ない黒のドレスから覗く白い二の腕を軽く撫でながら弁明する。

「久しぶりに誰かと会おうと思えば、誰でも不安になるものですよ――特に貴女方の年齢ですと、たった一ヶ月が一年のように感じられるくらい目覚ましい成長をしますしね」
「や、やっぱり変わってしまったの私っ!」

 先ほどまで赤かった顔を青くして、次には不安そうに眉を顰めたオードリーの変化を一頻り愉しみながら、リアンはその頬に手を伸ばして手の平で包み込むようにして上向かせた。

「ドリー、大丈夫。貴女は初めて会った時から何一つ変わらない。高貴で、美しく、貴族の矜持とそれに見合う強さを持った立派なレディです」

 その一言と、額に落とされた口づけに、オードリーは破顔して彼の首筋に抱きついた。
 そんなオードリーを、リアンは愛しい者を見る目つきで見つめ、礼服が汚れるのも厭わずに新緑の上に膝を突いて抱きしめ返す。
 互いには互いしか居ないということを確かめ合うように。

 ――この婚約に於いて、優位なのは、リアンを選んだのは、あくまでオードリーの方であり、政略結婚ではなく、互いに愛し合った末の婚約であると知らしめ、つい先ほどまで二人の話していた会話の意味を悟られないように。

「ねぇリアン、私、泣かないように一生懸命さよならを言うわ!」

 ――尤も、己のその認識自体が後から付け足した建前で、少なくとも自分は心からリアンに甘えてしまっている、ということに、オードリーは何処かで気づいていたが。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十三歳 > 十三歳の五月 > 2
2
この話のモデルに使われている薬は本来かなりの劇薬なので、皆さんは素手で触れたり直接臭いをかいだりしないで下さい。

このお話はあくまでフィクションであり、書き手に理系的センスはありません。
「……皆様には、いよいよ明日亡くなって頂こうかと思います」
「……そう、なら葬儀は明明後日かしら」
「新聞に、死亡広告を載せてからですから……それくらいでしょうか」

 葬儀から数日前――。
 淡々と、葬儀の手順について話すオードリーは一切の涙を見せず、いつものようにランプを携えて、淡々と準備をするリアンを見ていた。

 彼の助手として、明かりや器具を用意するのは、オードリーがこの事案に対し、なんとか勝ち取った唯一の手伝いであり、実質領地経営もリアンに任せながら学習中の彼女の、唯一といっていい仕事であった。

 といっても、「ガラスが割れ、気化したアルコールに引火したら大変なことになる」と何度も脅されているから、池に殆ど腰まで浸かるようにして作業しているリアンからは少し離れた岸から精一杯両手を掲げるくらいだが。

 散々駄々をこね、その仕事を与えられた最初の日、「つまり池の中に貴女がランプを投げ込んだのなら、その時は全てを終わりに出来るのですよ」と見惚れるような笑顔で言った時、オードリーは彼が優しそうに見えて実は少し意地悪だということを知った。

「ドリー、こちらに明かりを下さい」
「はい」

 その時のことを思い出して、岸に座り込んだままややふくれっ面を作ったオードリーは、リアンのその合図にあわてて立ち上がり、落とさないように持ち手を両手で掴んだランプを背一杯水面に向かって差し出した。

 ランプの下、照らし出されたのは壁に沿った側面と楕円形の岸を持つ、地下室の殆どを埋める幅がある、グレイス公爵邸の地下に作り付けられた人口の池であった。

 オードリーなら胸まで浸かってしまうそこは、先々代までは、壁に作られた狼の顔をしたエンブレムの口から水が出るように地下水を汲み上げて、池に貯めて生活用水として使っていたと聞いたことがある。

 その時の名残で、この池に続く階段のすぐ横には洗濯室とボイラー室がある。なので、今のような夜深い時間にしか訪れることは出来ず、部屋の上部、地上に面している明かり取りの窓は殆ど意味を成さない。

 毎朝ここから水を汲み上げて階段を上り、家のあちこちにある水瓶に水を満たして行くのが勤めたばかりのメイドの日課だったと、幼い頃、ナースメイドだった女性に聞いた覚えがあった。

 もしも今もここに水が満ちていて、上部にある窓からの光と空の色、または月明かりと星明かりをその水面に写したならば、きっとアニュゼットが喜ぶような幻想的な眺めだったろう。

「枯れた落ちて頭などを打っては大変ですし、一人で這い上がれなくなるかも知れませんから、決して中には入らないようになさって下さい」

 そう言われて、常に使用人が入り口近くを歩いているような、いわば当主しか知らないような部屋を、何故リアンが知っていたのかは分からないが、現在その部屋はリアンの研究室として明け渡され、毎晩ここでアニュゼットの『看病』を手伝うリアンの手伝いをするのがオードリーの今日までの日課となっていた。

 そうして、この二ヶ月の間、そうした日課を淡々とこなすことによって、オードリーの悲しみは少しずつ麻痺して行き、今のようにリアンと家族の話や――この、死体の無い葬儀の打ち合わせまでが出来るまでに回復していた。
 尤も――誰か別の人間が見たのなら、麻痺していた、と表現するのかもしれないが。

 グレイス公爵家の納骨堂は、領地で一番大きい教会ではなく、カントリーハウスの敷地内にあった。

 成果貴族ではなく、血統での公爵であるグレイス公爵家は昔からの由緒正しいカントリーハウスらしく、邸と同じ敷地の中に、使用人の家、果ては彼らが礼拝する為の小さな教会、墓地までが揃っていて、屋敷の後ろには狩りを楽しむことの出来る森が広がっている程に広大だ。

 だけれど、実際に使っているのは邸の建物とその前にある緩やかな丘になって毛織物や酪農農家の放牧場となっている草原と面した庭だけで、納骨堂にも命日や葬儀でもなければ身内が赴くこともない。

 ――だからこそ、グレイス公爵と、公爵夫人の死体は、領地に帰り付いたその日の夜に、ひそやかに納骨堂への仕舞われた。

 雨の降る中、信頼の置ける使用人に運ばせる棺桶が、平地にぽつりと建てられた納骨堂の奥に消えて行く光景を、レースの付いた帽子と使用人に怪しまれない程度に落ち着いた色合いである茶色のドレスを身につけ、レースの帽子で顔を覆ったオードリーは、傘をさすリアンに凭れながら、涙をためた目で見送った。

 その後、一人ぼっち、納骨堂には運ばれず自室に寝かされ、シーツに包まれたアニュゼットを抱えたリアンの腰に縋り付くようにして訪れた地下室。

 昼間はリアンと彼直属の使用人だけが入り、何かをしていたそこには、昼間のうちにリアンの研究や治療の道具、材料が持ち込まれ、枯れていた筈の池は水を湛えて水面を揺らめかせていた。

 ただし、青く澄んだ、今にも噛み付こうと牙を剥き出す狼の口から漏れる清浄な水ではなく、つんと刺激臭を漂わせる、嗅いでいるだけで頭がクラクラとしてくる程の臭気を漂わせる茶色の液体で。

「ねぇリアン、これはなぁに? お水じゃないわよね?」
「以前にお見せした、蒸留酒に特殊な金属の粉を少しだけ溶かし込んだ物です」

 そうして彼は、とまどうオードリーにそう言うと、雨に濡れた軽装のまま、アニュゼットを両腕に抱えたまま、躊躇なくざぶざぶと自分の腰まであるその茶色の液体の中に歩いて行って、そしてオードリーを振り返りながら、一糸まとわぬアニュゼットを液体に落としながらオードリーを見上げて、アニュゼットの髪を手のひらで丁寧に抄き、その水の中にそっと落とし込みながら微笑んだ。

「よく覚えておいでなさい、ドリー。貴女の願いを叶えるのは、誰でもなく、何時だって私だということを」

 まるで全てが成就したように満ち足りた、思わず見惚れ、なのに悲しくなるような、美しい顔で。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十三歳 > 十三歳の五月 > 3
3
「――ドリー?」
「あぁ、ごめんなさい、リアン」

 呼びかけに、オードリーは水面に掲げていたランプを離れた場所に下ろし、傍らの台にあるタオルと着替え、そして水で満たした重たい桶をどうにか引き寄せて、岸に上がろうとするリアンに差し出し、背中を向けた。

「ありがとうございます」

 背後でリアンの着替える気配を感じながら、オードリーはその間、彼に背を向けたまま、研究所を見回して過ごす。

 最初の時、軽装で池に入ったリアンは、あの日以来、何処かで仕入れた漁師の使うような胸辺りまである長靴や、目を覆うゴーグルなどを用意し、一々完全防備の姿に着替えてから池に入るようになっていた。
 池から上がった後は、桶に汲んでいる水で手足をよく洗い、更に道具も洗浄して、着替える。

 そうして同時に、オードリーにもゴーグルと、これもまた、何処からか調達したガスマスクの着用を命じ、どうやっているのかは分からないが、空気を入れ換える為の天窓も、夜間だけは開けるようになった。
 開けて、独特の臭気が薄まった頃を見計らい、リアンはオードリーを呼ぶのだ。

 理由を聞けば、実験段階の薬で、アニュゼットの状態を見ながら濃度を少しずつ変えている為、いつ毒性を発揮するか分からないからという答えが返って来た。

 勿論、オードリーが池に触ることも、池の中に沈むアニュゼットに触れようと手を伸ばすことも禁止している。

 といっても、日々濃度を増す琥珀のような色をした液体はランプの光くらいではその底を見せることなどなく、オードリーには池の底で包帯に巻かれた物体が固定されてるということしか分からない。

 ただ毎日、リアンだけが池まで入り、彼女に何かしらの処置を施している。わざわざ、オードリーから見えないように背中を向けて。
 ――まるで、夜だけの恋人との逢瀬を楽しむように。

「……ドリー?」
「きゃっ!」

 ふと頭に浮かんだ想像を振り払うように頭を振うように頭を振った時。リアンに上から怪訝な顔でのぞき込まれ、オードリーはその想像が自分に与えた物が何であるかを理解するより先に顔を上げた。

 なので――今、自分が物言わぬ妹と、己の婚約者に感じた物が何だったのかをちゃんと理解することが出来なかった。

 ――ここで理解していれば、次のリアンの質問への答えは、この先の運命は変わっていたかも知れないのに。

「それで、何の話でしたっけ」
「宜しいのですか、と聞いたのです」

 恐らく先ほどから着替えながら話しかけていたのを、オードリーが聞いていなかったから心配したのだろう。
 この場所に充満する、強い薬の臭いはアルコールの臭気と相俟って、どうにも頭をぼうっとさせる。リアンはどうやら、その中毒症状がオードリーに出ないかどうかをとても心配しているらしい。

 毎回、こうやって実験室を訪れた後には、アニュゼットが療養している『ことになっている』、共通の寝室でオードリーに診察を行う。
 それだけ強い薬なら、リアンにだって何かしらの後遺症が出るのではないかと思うのだが――オードリーは結局、それを聞けないままにこの二ヶ月を過ごしている。

 とかく、これ以上リアンに心労を掛けない為に、オードリーはつとめて無邪気な笑みを作り、「すみません、少しだけぼうっとしていました」と続け、こちらが苦しくなる程に眉根を寄せたリアンが、何かを言う前に続いて口を開いた。

「えぇと、葬儀ですか? それはリアン様らに任せると…」
「いいえ、そうではなくて」

 やはり全然聞いていなかった、と、大げさにため息を付いて、だけれどそう言いながらも細められた青い目に宿る色が凪いだ海のように優しかったから、リアンが新しい絹の手袋ごしにオードリーの頭を撫でながら、言ったその言葉の意味を彼女は一瞬、正しく理解できなかった。

「――このまま本当に、私との婚約を公にして、アニュゼット様をここに留めても、宜しいのですかと。私はそう聞いたのです」
「えっ……」

 いや、正しく理解出来ていたのに、理解したくなかったのかも知れない。
 何時かと同じく、理解したくなかったというだけで。
 その証拠に、オードリーは、その一言に呆然としながらも、微笑んで自分の頭を撫でる彼を見上げていた視線を――正しく、床に置いたままになっているランプへと定めたのだから。

『つまり池の中に貴女がランプを投げ込んだのなら、その時は全てを終わりに出来るのですよ』

 リアンが何時だか言っていた、冗談交じりのその言葉をオードリーの心は、しっかりと覚え、冗談の中に混じった本当の意味を理解した上で、いつも頭の中で繰り返していた。
 本当にこれでいいのか、後悔をしないのか――自分には、アニュゼットを守り続ける力があるのか。

 ――教義によると、死体は、いつか来る審判の日に棺から起き上がり、神の裁きを受け、永遠の命を得るのだという。
 ――そうやって一度、神様の元に返さねばいけない妹を、果たして自分は、公爵令嬢という立場だけで自分の元に縛り付けておけるのであろうか。
 ――妹の死体を人形のように手元に置くのは、ただの子どもじみた独占欲ではないのか。
 ――その独占欲に、人を、リアンを巻き込むのは本当に正しい選択だったのだろうか。

「……何を言ってるの、リアン。私はリアンとアンと私で、三人仲良く生きていけたならそれでいいの」
「そうですか……ならば、そのように手配しましょう」

 だけれど、オードリーは努めて冷静に、そう言って首を傾げ、立ち上がった。
 リアンも、アニュゼットから解いた包帯をいつものように盥に入れ、それを抱えて立ち上がり――薬液に満たされた池に一人沈み続ける少女に、僅かばかり目を向けた。

「私は――終われるのなら、貴女の手によって終わりたい。罪人は、私だけなのですから」

 その言葉に、先を行くオードリーは気づかなかった。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十三歳 > 十三歳の五月 > 4
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「――皆様どうか、わたくしの、気高い紳士であった父と、その父を支え続けた優しい母。そして、いつもその陽気さと機知に富んだ話題でわたくしたちを愉しませてくれた、小さな妹のことを覚えていて下さい。そしてどうか、祈って下さい。わたくしの知る唯一に善良なる彼らと、いつか審判の後に楽園で再会出来ることを」

 一際大きく響いた声にリアンが顔を上げると、オードリーは丁度、式の最後のスピーチを終え、執事に手を引かれながら用意された壇上を降りる所であった。

 拍手と涙に見送られた彼女は、次にスピーチを行う公爵の友人に、擦れ違う際に軽く淑女の礼を取り、その他の弔問客の群れの中へとしずしずと歩いて行く。

 椅子など用意せず献花と、彼女らが洗礼から世話になっている老神父による祈りの言葉、そして喪主であるオードリーを始めとし、寄付や献花という形で尽力してくれた人々が順に別れのスピーチを行う。

 オードリーたっての希望で、そんな極力まで簡略化した式は、申告されない限り椅子など一切なく、弔問客は皆、家と向かい合うように芝生に立っている。

 五月の優しい太陽の下、黒を基準とした地味な礼服に身を包み、顔を覆う人々の間に於いても、その中に混ざったオードリーは美しく、そしてはっきりと人を引きつけていた。
 公爵と個人的な付き合いのある人間以外は、ほぼ初めて見るだろう、噂だけは聞こえていた美貌の公爵令嬢。

 それが、今回の家族の死を切っ掛けとして公の場に出て、しかも葬儀の数日前に自分より十も上の侯爵家次男と婚約、しかも婚約を理由に彼を正式な後見人に指名となれば、それも仕方ないことであろう。

 人を見る目があって立派な紳士であった公爵とはコネクションを作れなかった人間も、婚約者があっても未成年の少女ならば御しやすいと思うだろう。
 更には――十歳も上の男と婚約するような、しかも数年後の目覚ましい成長が本人の資質的にも血統的にも証明されている美しい少女とくれば、あわよくば彼女の婚約者より年が近い自分が、または自分の息子が、と思う人間も多いだろう。

 現に、オードリーを囲んで先ほどのスピーチの感想を言い、握手を求めたり何かの約束を求めたりしているのは、オードリーと年の変わらない息子を連れた男だったり、兄に付き添われた幼い少女だったりする。

 仮初めとはいえ婚約者が異性を始めとし、大勢の人間に囲まれていたら、本来良い気はしないのだろうが――無理も無いことだ、とリアンはそれを、人垣から離れ、静観することにした。

「――おや、随分余裕だね、婚約者殿」

 その時、背後から掛かった声と肩に置かれた手に、リアンはわざとらしい程に怜悧な無表情になり、その手を丁寧に解いて、捕まれた肩を軽く振り払いながら振り返った。

「あなたこそ、いいんですか? 確か彼女と年の近い息子が居たでしょう」

 振り払われた――撫でつけた黒髪に髭とやや日焼けた肌、精悍な顔立ちをした男――は、リアンの無礼を気にした風でもなく、目の端にうっすらと皺を見せながら目を細めて頬笑んで、手を挙げて答えた。

「あぁ、確かにうちの息子は君よりも優秀だが……生憎、今は寄宿学校に通っていてね」
「それは良かった。叔父が甥に婚約者を取られたとなっては面目が立ちませんからね」
「いやいや、そう気にすることはない! 君は俺の息子の次くらいにはいい男だよ」
「……またまた、ご冗談を」

 手を払われた男は、リアンの冷ややかな視線や言葉を一切気にする様子もなく、特に許可を貰わないまま、半歩後ろから彼の横に回り、今度は彼の肩を抱いて引き寄せようとして。
 また、一本一本の指先を肩から外すようにして至極丁寧な手順でもって、その手を払われた。

「貴方が一番いい男だと思っているのはご自分ではありませんか」
「あぁ、バレたか……やはり君は優秀な弟だよ――おっと」

 そう言い、今度こそ軽くリアンの肩を叩くことに成功し、振り払われる前に両手を挙げて逃れた男はいつもの飄々とした笑いを浮かべながら肩を竦め、上着の内ポケットから煙草とマッチを取り出した。
 その姿に、リアンは初めてはっきりとその顔一杯に不愉快を浮かべ、秀麗な眉を顰めて男を見た。

「レオニス侯爵、こういった席で煙草とは如何な物でしょうか?」
「なに、お前も吸うかね? それとも、煙草は初めてかい? いい年をしてお子様だね」
「……医者としては、吸わなくて済むなら子どものままで結構です」
「本当に君は……医者より修道委員長の方がお似合いだったのではないかね? 全く、グレイスのお姫様も可愛そうに。これじゃ修道院の方がマシだったかもしれんな」
「……兄上こそ、その人を食ったような物言い、お変わりないようで何よりです」
「いやだね、君のような骨と皮ばかりで抹香臭い青年を食べなきゃいけない程、危うい領地経営など僕はしていないつもりだけどね」

 数年ぶりに再会したというのに、相変わらずの飄々とした憎まれ口と共に、マッチで火を付けた煙草を深く吸い出した兄――現レオニス侯爵の様子に、今度がリアンが肩を竦め、やがて、兄の頬に固定していた視線を、再び人垣の中のオードリーに向けた。

 侯爵は、その様に呆れの混じった溜息と共に煙を吐き出し、リアンが見ていないのをいいことに、わざと大げさに肩を竦めてみせた。
 いくら年端の行かない子どもだからいっても、そんなに見つめていなくたって大丈夫だろう。君の視線で溶けてしまいそうだ、などという軽口を飲み込んで。

「ねぇ、君、君は僕に興味が無いのかい?」

 代わりにそう言って、彼の肩にまた手を掛けようとして――今度は止めて、代わりに軽く拳で背中を叩いた。
 リアンは、何も言わずに叩かれてくれた代わりに、今度は侯爵に顔を向けず、青い目の視線だけを動かしてよこした。

「……レオニス侯爵家は安定しているから、グレイス公爵家との婚姻の必要は無い、ということを言いに来たのでは?」
「全く、君は少しも変わらない」

 先ほどの、息子とオードリー・グレイスの婚姻のことを言っているのだというのはすぐに分かった。故に、侯爵は苦笑を禁じ得ない。

 確かに、グレイス公爵家の領地に一番近く身分が釣り合い、しかも令嬢と年の近い男児が居るのはレオニス侯爵家だけだ。
 なので、レオニス家の嫡男が婚約者として名乗りを上げないのならば、リアンの十歳差という年齢もそう大きなネックにはならない――少ない情報からそんなことを読み取る癖に。

「素直に、兄が弟の婚約を祝福しに来たとは考えないのかい?」
「――または、私が居なくても領地も侯爵家も、順調に回っているから心配するなと?」
「……」

 そう皮肉げに唇をつり上げてから、リアンは珍しく、少し言いすぎただろうかと、年の離れたこの兄の顔を見遣った。
 彼の奥方に頼まれたのとで、グレイス公爵への連絡のついでに、この兄とも定期的に手紙のやり取りをしているが、こうして実際に会うのは五年ぶりくらいだった。

 なので、どうにも加減が思い出せなかった。
 昔から口の減らない兄との舌鋒は当たり前の儀式だったが――よく考えれば今のリアンが、リアンが親しんでいた兄くらいの年齢なのだ。

 人間、年を取ると少しくらいはしおらしくなるかも知れない。

「ふふっ、そうだよ。領地は安定、私には美しく思慮深い妻と立派な息子も娘も居て、後継者にも問題はない――だから、君は医者でも、法的に合法でも傍目に違法な婚約でも、好きに結べばいい」
「――言われなくても、そうしますよ」

 しかし、リアンの向き合った彼は、人好きのする――実際の中身は置いておいて持ち前の美貌が崩れることでどこか親しみを覚えさせる――笑顔を浮かべ、最後に会った少年らしさの残った面影から大分様変わりしたリアンを見遣った。

 まるで、丹精込めた植物か何かの成長を心から慈しむようにして。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十三歳 > 十三歳の五月 > 5
5
 リアンの八つ上のこの兄は、リアンにとっては兄というより、父のような間柄であった。
 父が兄を教育し、その兄がどういう訳か、自分が正式に後を継ぐ年齢になってから、リアンを構いたがったのだ。

 彼が生まれた時には既に、彼が家督を継ぐことが決まっていたので、リアンは教師やナースメイドの世話になっている間は、比較敵自由に育てられた。

 ――いや、正式にはそう育てられた筈なのだが、何故かこの兄はソレを良しとせず、リアンを鍛えるという名目で、家の中で学問をしている方が好きな性質である彼に色々なことを教え込んだのだ。

 当時の家庭教師に言わせたならば、恐らく「吹き込んだ」とか「落とし込んだ」とか「引きずり込んだ」とか言われそうなことばかりを。

 その内容は、彼が学校に行き、やがて社交界に出る頃になると余計に酷くなり、彼は年端の行かないリアンに悪い遊びや、今のようなにこやかな中にも棘があるような議論や嫌みの応酬を要求するようになった。

 リアンが医者になることを決意した頃の彼の口癖といえば「この世で堕落していない者は、堕落した者によってやがて地獄に突き落とされる」などという、何処かの詩人に影響された、物騒であり斜に構えた、貴族の子女として許されない物だった。

 それが、リアンの、貴族らしからぬ善良さをおもんばかってのことだということは、賢い彼には分かっていたのだが――社交の場に出ることなどまず無い自分に、そういった俗悪な物を教える兄を、ちょうど反抗期に差し掛かったリアンは煙たがるようになった。

 ――そして後に、リアンは彼のその破天荒な性格に心の底から感謝をすることになる。

 医者になりたいと言った彼を、「なら資金を調達せねば」と言って、あの日、突然グレイス公爵の家へと連れて行ったのは、他でもなく、彼を自分の息子のように教育した兄だったのだから。

 手紙一つでアポイントを取り付けた彼が、何処に行くのかも言わないまま、気が変わらぬうちにとグレイス公爵家の引っ張って行かれなければ。

 事情が飲み込めないまま、グレイス公爵の前に引き出され、本題に入るどころか挨拶もそこそこに、兄の采配で公爵の娘達を庭に呼びに行かされなければ。

 兄が「聖職者のように潔癖」と評して、口では医者になりたいといいつつも。
 医者という職業が出来る前の幼いうちは、きっとそうなるだろうと思って欲望というものに極力縁の無い生活を送っていたリアンが、あの薔薇が咲く丘の上で、自分の欲しい"者"を見つけることなど出来る筈もなかったのだから。

 自分を見て、見開かれた大きな赤い瞳、ウサギのように頼りなく華奢な身体、今日のように温かな日差しの中で、背中を流れる艶々とした黒い髪。緊張の面持ちと共に差し出された柔らかそうな手の平の温かさ。

 ――それらを、どんな手段を使ってでも、誰にも渡したくなんて無いと思えたからこそ、彼は今まで、今日まで横道に逸れずにやってこれたのだから。

 勿論、それが無理であることも同時に分かっていた。だけれど、それでも、見守りたかった。自分が初めて焦がれた者の、美しい者のその行く末を。 

 だけれど――彼は今、最初に思い描いていたよりも悲惨で不本意な状態ながら、自分で思い描いていたよりももっと近く、少なくともあと三年以上は彼女を自分の物に出来る場所に来ることが出来た。

 ――皮肉にも、あの日、初めて欲しいと思った"者"を、彼の目の前で易々と奪い去った、彼女の半身、彼女の最も愛する双子の妹の気まぐれによって。

 もしかしたら彼女は、彼に気まぐれに彼に与えた美しい彼女を、その美しさが満ち満ちたその瞬間にまた奪い去る為に、彼が彼女の側に仕えるのを許したのかも知れない。

 全ては彼女の気まぐれで、幼い少女特有の遊技――例えば、子どもが自分の宝物を別の子どもに存分に見せつけてから取り上げる、そんな遊びなのかも知れない。

 人と人が長い時間や執着で引き合う力より、一つの腹で生まれる前から共に在る半身同士の絆の方が強いのだと、彼に証明してみせたいだけかも知れない。

 それでも――彼は、リアンは、そこから、その挑戦から逃げる気などは無かった。
 いくら目の前にちらつかせられたからと、手に入らない物に手を伸ばす滑稽さは、生まれとしても職業としても、彼はよく知っている――実際、伸ばした手から掴もうとした命が散ったからこそ、彼と彼女の今の関係はあるのだ――けれど、それでも。

 ――少なくとも今、彼女に一番近く、そして彼女の秘密と、その命の半分である娘を握っているのも、彼女の願いを叶えるのも、自分だけなのだ。

 彼にとっての彼女程ではなくとも、彼女にとっての彼は、必要とされ、求められる人間である。
 そして――求められなくなったその時には、彼女の罪を引き受けて、『彼女』諸共その口を永遠に噤む覚悟もある。

「――しかし、こうやって見ると君同様、暫く見ない間に益々美しくなったね、君の婚約者殿は」
「……」

 いつの間にか俯き、思案に耽っていたリアンの憂いを払ったのは、二本目の煙草に火を付けながら、心底感嘆したという風に溜息を付いた兄の溜息と、その視線の先で、老貴婦人と歓談するオードリーの姿だった。

 艶やかに波打つ黒髪も、五月の緑に映える白い細面も、楽しげに細められた赤い瞳に弧を描く赤い唇も――最初に見た頃より大分大人びた表情を作るようになったのだと、この二ヶ月の間に知ったけれど――初めて出会った時と何ら変わらず、絶妙な配置でそこにある。

 あの時と同じ光の下で、けれどもあの時の無邪気で無防備な様よりも淑女然とした、三年後、何処に出しても恥ずかしく無い程に立派に成長するだろうことは誰にも明らかな。
 だけれど――リアンだけは知っている。

「……益々、何で君なんかと恋仲になったのか不思議になるよ。大人の魅力で落としたかい? それとも、何か弱みを握ったとか」
「まさか! 私達は純粋に愛し合っていますよ。今は婚約しか出来ませんが」
「どうだか」

 兄が指摘したことは間違ってはいない。だけれど、リアンは言う必要は感じていない。
 彼が『弱み』と呼ぶそれこそが、若い頃の彼が兄として父の代わりとして、善良で詰まらない人間であったリアンに、より人間らしい感情として求め続けた物を、リアンに与えたのだということを。

「で? 結局君は、どうやって婚約を取り付けたんだい?」
「それは内緒です。……彼女と、私だけが知ってれば良いことですから」

 ――汚れない彼女の裡にある、どうしようもない悲しみに歪んだ、幼い魂の形作る、気高さに覆い隠された歪みを。
 ――その歪みに犯されながらも、気高い淑女で居ることを止められない彼女の苦悩を。

 彼は、彼だけは知っている。
 そしてそれを、終わらせることも止めることも出来る。

 ――兄の言葉を借りるなら、こんなに堕落し、俗悪な、それでいて強い恍惚を与える悦びは、他には無いだろう。

「それは惚気という奴かね? いやはや、まさかあのリアンがねぇ……」
「ふふっ、私もただの俗物だということですよ」

 そんな矛盾に入り込み、彼は今日、いよいよ、焦がれた"者"を手に入れる。
 ――愛しい人と、共に堕落の道を歩むことで。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十三歳 > 十三歳の五月 > 6
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「お兄様、面白い方だったわね」
「……そうでしょうか」
「えぇ。何だかお兄様と話している時のリアンは、なんていうか……人間らしかったわ」
「そう……ですか?」
「えぇ。私の婚約者は、大人だけれど完璧ではないのだって、私とても安心したの!」

 片手にランプを持ち、手を繋がれて地下への階段を降りながら、オードリーの浮かべた晴れやかな笑顔に、リアンは苦笑と共に後ろに結ったままの髪を撫で付けるように項に手を当てて苦笑した。



 その日、葬儀の後にリアンとオードリーが私的且つまともな会話を交わしたのは葬儀と納棺、その後の立食会と婚約の簡易的なお披露目も兼ねた晩餐会の終わった夜のことだった。
 侍女によって寝間着を着せられ、部屋の照明を消され、布団に入ったまま息を殺して目を閉じ――時計の針が天井に届く頃。

「――ドリー?」

 そっと音を立てずに細く開いた寝室のドアから、僅かなオレンジの明かりが差し込み、静かに自分を呼ぶ声がする。
 家族の『介護』を始めてからの日課の通り、今日も訪れた訪問者に、オードリーはいつものように、寝返りを打つような振りで、ベッドヘッドを手の甲でコツコツと叩くことで答える。

 すると、ドアは更に開き、訪問者は音を立てずにすっと室内に入り、彼女のベッドの天蓋の前で立ち止まり、再度声を掛ける。

「開けても、宜しいですか?」
「えぇ、大丈夫よ」

 その声と共に、天蓋の向こうに見える飴色の明かりに抄かされた影がごそごそと動き、程なく、カーテンに繊細そうな指先が掛かる。その間にオードリーは半身を起こし、着替えの手伝いが来るより前に上掛けの下に入れておいたガウンを羽織る。

 もう二ヶ月も繰り返していることなのに心の底からドキドキするのは、葬儀の前に今日これからの予定を知って、会食の終わりから気もそぞろになる程楽しみにいたからだろうか。
 それとも、リアンとオードリーの関係が、今日、書面の上でなく、人々の意識の中でも変わったからだろうか。

 オードリーはこくりと喉を鳴らし、いつもより殊更ゆっくりに感じる手つきに天蓋が開かれるのを待った。

「そんなに緊張しないで下さい。婚約者相手に『初夜』を得ようなんて思ってませんから、ね?」
「……わ、かってます」
「婚約者には――まぁ、この程度で」

 少なくとも、天蓋を開けたなり、晩餐会の時のまま未だ髪を背中で結ったままのリアンに、暫し青い目を見開いてまじまじと見られた後、笑い混じりでそう言われるくらいには緊張していたらしい。

 だけれど、ぴんと伸びた背筋をからかうように撫でられた後、頬に小さくキスなどされてはその緊張も長く持たない。
 しかし、それに羞恥を覚える間もなく、リアンはオードリーの背中に伸ばした腕ともう一方の腕とを彼女の脇の下に通し、上掛けから引き抜くようにしてベッドに座らせると、足下にあった赤いエナメルの靴を恭しく差し出した。

 促されるまま伸ばした白い素足の足の甲を捕らえたリアンは、両手で恭しく上げたそれに、まるで教会の、皆に敬愛されるべき聖職者にそうするように額を預け、小さな口づけまでして見せた。

「リアン、」
「では、早く行きましょう婚約者殿」

 オードリーがそれを咎めるより前に、今まで見た中で一番晴れやかありながら、その青い瞳に妙な熱と艶のある笑顔でもって黙殺して、手早く靴を履かせた彼は、素早く身を起こして彼女の身体を床へと下ろす。

 いつもの冷静さと比べて、何処か浮かれて、少年のように無邪気に振る舞う自分より十も年上の婚約者に、ただ茫然と、されるがままに立ち上がったオードリーは、ベッドの中に隠していた上着を羽織らされ、ここまでリアンの持って来たランプを渡される段になって、やっと口を開いた。

「ねぇ、リアン、一体どう――」
「さぁ、ドリー、早く」

 けれど、それが言葉になるより早く、ランプを持っていない方の手を引かれて外への歩みを促され、数瞬、繋がれた手と己のランプの明かり、そして明かりの向こうで軽く、でも有無を言わさない力で己の手を引く婚約者を見比べ、小さく肩をすくめて歩き出した。

「リアンってば、まるで遊びに行く子どもみたいよ!」
「おやおや……随分若く見て頂けたようで光栄です」

 暗くて顔が見えないのをいいことに、頬を膨らませて繋いだ手を揺らしながら精一杯吐いた嫌みは、その一言と、ランプの明かりの下、口元だけ見えた笑顔に黙殺され、オードリーは一層に頬を膨らます。

 結局、今みたいに子どものようにはしゃいで見えようが、いつものように冷静に振る舞われようが、彼がオードリーより余程大人であるということと、十歳もある年の差は絶対的に縮まることは無いのだ。

 それは、オードリーがこれからリアンに見合うような素敵な淑女になろうが、リアンが貴族にも認められるような素晴らしい医者になろうが変わらない。
 ――リアンという人間が、十歳も下の貴族の少女と婚約したという現実は。

(……別に、いいじゃない。リアンが立派な人だってことは、私とアンが知っていればそれでいいのよ!)
「……ドリー?」
「……よく見たら、正装なんかしちゃって、馬鹿みたいだわ」

 自分はリアンより遙かに年下の子どもであり、それがリアンの名誉を傷付ける。
 その現実を肯定するように――ここ二ヶ月の間に、アンに言うようにして言えるようになった――年相応の憎まれ口を叩いたオードリーは、今更気付いたリアンの、目の色に似た青い瑪瑙のカフスと、滑らかな絹の手袋だけがランプの明かりに浮かぶ彼の手と繋ぐ手に力を入れた。

 今更気付いて思い返せば、彼女の寝台の天蓋を捲り、彼女を迎えに来たリアンはいつもの、綿のシャツと茶色のズボンという、使用人のように作業のしやすい服ではなく、二ヶ月前に初めて見た時のように、カフスと手袋だけでなく、上着にタイ、そして革紐で縛った髪を整えた姿だった気がする。

 それに対して、使用人の目を盗まねばいけないオードリーはいつもと同じ寝間着姿。
 一人で着られないし、だからといってリアンに手伝わせる訳には行かない。それは仕方ないし、まさか「夜中に婚約者に会いたいから着替えさせてくれ」とも言えない。
 けど。

「――アンはそんなこと、全然気にしないのに」

 自分とアニュゼットの『お見舞い』に行く時にはラフな格好の癖に、彼女をオードリーに『お披露目』する時には正装なのだ。そう思うと益々面白くない。
 ――何故面白くないのか、それは分からないのだけれど。

「いえ、私が気にします」

 愛らしく唇を尖らせ、ふて腐れたオードリーの頬を、リアンの絹の手袋が撫でる。二ヶ月の間に慣れたその感触をもってしては、オードリーも、そう長くは頬を膨らませてはおられず、はぁと大きく頬に溜めていた息を吐いた。

「――大事なご挨拶に、ラフな格好ではいけませんから」

 その息の音で、リアンのその言葉はオードリーの耳には届かなかった。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十三歳 > 十三歳の五月 > 7
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「ドリー、兄と仲良くなるのは構いませんが、余り仲良くし過ぎないで下さいね」
「えぇそうね、お兄様もお忙しいでしょうし、社交辞令を真に受けてはご迷惑よね」
「――まぁ、そういうことにしておきましょう」

 二階の寝室から階段を下り、正装をしたリアンと地下へと続く階段を慎重に降りながら、オードリーは気付いていることがあった。
 部屋に迎えに来てから、子どものようにはしゃいで居ると思ったリアンは、多分ではあるが、愉しんでいるのではなく、緊張しているのだ。

 その証拠に、いつもより口数の多い喉は、何度かこくりと鳴り、オードリーの手を握っていない方の指先は、彼女の頭や頬を撫でる以外に、何度かタイと頸の間に差し入れられている。
 握った絹の手袋の手は、いつもよりひんやりとしており、何より僅かに汗でしめっている。

 きっと、オードリーがランプを自分の頭より上に掲げたならば、緊張に強ばる彼の顔を映すことだろう。
 いつだかの授業で家庭教師であるマリアンヌが「殿方は己の矜持を傷付けられることを嫌います」と言ったのを覚えているオードリーは、そんなことをするつもりも、彼の緊張を言い当てるつもりも無かったが。

 ――それにしても。

「ねぇリアン」
「何でしょう、ドリー」
「あなた、晩餐会の後、ずっとアンの所に居たみたいだけれど……アンに何かあったの?」
「それは……」

 一体、彼女の妹をどうしたのか。
 その疑問は、愛する妹への二ヶ月ぶりの再会に沸き立つ心と共に、侍女に寝室へと促されるまでの間、オードリーの心を支配していた疑問であり――当人も気付いていない焦燥だった。

 葬儀の後、ささやかな婚約の祝いも兼ねた晩餐会が親戚縁者だけで行われた。
 その席でしかし、オードリーは婚約者らしくリアンに寄り添うことを禁止され、分別の無い高慢な女王のように振る舞うことを約束させられた。

 「それが貴女の為ですから」と、散々言い含められての仕打ちであったけれど、自分の婚約者を物のように扱うのは――殆どの人は彼に同情的な視線を投げたが、その中に僅かに混じる、彼女の無意識を装った蔑みを模倣する同じ血が流れているとは思えないような浅慮な人間を見るのは――善良な魂を持つ少女にとっては耐え難い苦痛であった。

 しかも、未成年であるオードリーを理由に八時には切り上げられたその晩餐会の後、リアンは「お会いさせるまでに準備がありますから」と言って、何かしらの資材と共に、オードリーが寝る支度を調える今の今まで自室に引っ込んでしまった。

 ……オードリーは、アニュゼットとは勿論会いたいと思っている。リアンがいつも自分の為に動いてくれていることは知っている。

 それでも、分かっていても。

 アニュゼットよりも、自分を優先して欲しかったという、子どもじみた我が儘を覚えたのも事実だった。

 自分が、高慢で立場を弁えない、薔薇の花のような少女なのではなくて、自分よりも年上で、立派な男性である仮初めの婚約者に純粋な愛を注ぐ、雛菊のように純真な子どもだということを、彼に肯定して貰いたかった。

 この婚約に愛は無くても、自分に彼がその身と知識、更には今後、少なくともオードリーが成人を迎えるまで続く、碌でもない社交界の噂の的となるべき不名誉までを差し出す程の価値があるのだと、いつものように抱きしめて、優しく慰めの言葉を囁いて、実感させて欲しかった。

 ――そうでないと、あの事故の前、誰からも褒められた、美しく無邪気なアニュゼットと鏡映しの片割れ、善良な公爵が治めるグレイス家の公爵令嬢として、相応しく、善良で無知であった自分には戻れないような気がして。

 折角この世に止めた、美しい妹と並んで盛装し、済まして座るという、今までのような生活が、もう叶わないような気がして。

(善良さ……そんな物を持っている人間が、死体を邸に置きたがるかしら?)

 だけれど、頭に浮かんだ、その皮肉な言葉に、オードリーは愛らしい唇を皮肉に歪めて、うっそりと頬笑んで、殆ど無意識に、繋いだままだったリアンの手を、軽く引っ張り、縋るように両腕で抱きしめた。

「……ドリー?」
「ねぇ、暫くこうさせてちょうだい」
「……分かりました」

 正装を纏った、オードリーにされるがままになっている腕。骨張って堅くて頼りがいがあり、薬品で荒れているのに指先の形と短く揃えられた爪の形には品があり、いつも壊れ物のように自分の頬に触れる、綺麗な手。

 歩きながら、余り躾の良くない令嬢がやるように、差ほど重くない体重をそれに預け、彼女は自分の願いを叶えてくれた美しい婚約者に猫のように身を寄せて、オードリーは機嫌良く紅色の目を細めた。

「なんだか、ドリーにまで私の緊張がうつったようだ」
「違うわ、私、緊張なんかしてないわ」
「そうですね、自分の家族に会う人間に緊張する必要はありませんね」

 リアンは照れた様子も狼狽した様子も何も無く、何も言わず、空いた方の手で、いつになく甘え付くオードリーの前髪を上に上げるようにして撫でつけた。

 どうやら、甘え付く彼女の様子に、彼も緊張を解いたらしい。最初は、器用な彼にしてはぎこちなかった手の動きは、次第にいつもの、慈しむような手つきに変わって来る。

「……あなたの家族でもあるのよ、リアン」
「そう……ですね」

 美しい自分と瓜二つの妹と、器用な指と優しい声、そして宝石のように美しい青い瞳を持つ婚約者。
 それらは、もし、オードリーに年相応の善良さと、分別、そして思いやりとがあったなら、手に入らなかった物だったろう。

 ただ、彼女には年相応の、悪徳への誘惑があった。

 ――だからこそ今夜、彼女は全てを手に入れる。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十三歳 > 十三歳の五月 > 8
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「わぁああっ!」

 地下室に入る扉を開け、背中でおさえたリアンに促され、一歩を踏み出したオードリーが上げたのは、喉から漏れた賞賛の籠もった歓声だった。

 いつもは、オードリーの持つランプ以外には、明かり取りと換気の為の窓から入る月明かり以外、全く明かりの無い地下室は、いくつかの明かりに照らされて、そこに在った。
 正面にある琥珀色の池は置かれた明かりにきらきらと水面を輝かせ、入って左手の台にいつも置かれている、実験器具や素材には、目隠しの為に真っ白なリネンが掛かって居る。

 蝋燭を灯せないその部屋を、真昼のように照らすその明かりは全て、いつか見た、太陽のように温かい電球であり、部屋の中は燭台に沢山の蝋燭を点したダンスフロアのようにとても綺麗で明るかった。

 だけれど、後から入室したリアンが促すように押すまでオードリーの目を奪い、彼女の小さな身体を、この部屋の入り口に縫い付け続けたのはそれだけではなかった。

「リアン! 凄いわ!! この沢山の薔薇……あなたが飾ったの?」
「えぇ……庭師に少しだけ、分けて戴きました」

 目隠しの布や、明かりの周りだけでなく、琥珀色の水面の中にまで浮かべられた、沢山の深紅の薔薇だった。

 深紅――スカーレット色。
 オードリーとアニュゼットが心から愛し、いつも身につけていた色。

 今、胸の前で両手を合わせて感極まった顔でリアンを見上げる少女の両方の瞳に宿り、電球の明かりに潤む、石榴石と同じ、深い、血のように鮮やかな色。

「素敵だわ! 葬儀だから白薔薇しか用意出来なかったけど、アニュゼットは赤い薔薇が好きなのよ!」
「貴女も、好きでしたよね」
「えぇ、勿論よ! 凄いわっ、今日の晩餐会に飾り立てられていたお花よりよっぽど綺麗っ!!」

 実際、今日の近しい親類だけの集まった晩餐会はオードリーとリアンの婚約の正式な場ではあったけれど、午前中、庭で行われた食事会の延長のような物で、ホールに飾られた花も控えめな色をした百合などであった。

 清楚な母にはそれでいいかも知れないが、「やはりアニュゼットの華やかさには赤い薔薇でなければ釣り合わないのではないか」と、二人を知る人々と彼女の間で小さな話題になったのだった。

 たった二ヶ月の付き合いであるリアンが、それ程までに彼女と妹を理解しているということに、幼くとも淑女としての心をときめかせ、頬を僅かに薔薇色にへと上気させてはしゃぐオードリーを、リアンは黙って頬笑み、完璧なエスコートで更に一歩促す。

 すると、どうやら一杯に飾られたかに見えた薔薇が、よく見れば扉から左右に並び、すぐ目の前の琥珀色をした池に突き当たって、白い布と薔薇とで目隠しをされた作業台の前を通り抜けるようにして向かって左へと曲がる通路を作り出しているらしいということに気付いた。

 そして、通路の終点は、障害物と内開きのドアとに阻まれて、オードリーの側からは、ドアを超え、二フィート先にある、曲がり角の上に立たなければ、そこに何があるのかは分からない。

「ねぇ、これは通り道になっているの?」
「えぇ、そうですよ」

 振り返り、気付いたことを問えば、鷹揚に頷かれ、背に当てられた手で更に一歩を促され、オードリーはやや混乱しながらもそれに従った。

 というのも、彼女の記憶が正しかったのならば、作業台の前を抜け、左手にオードリーの背よりやや高い、書架を使った薬品棚を頂くその通路の突き当たりにあるものは、ただの煉瓦で固められた壁であった筈なのだから。

 とまどいながら、エスコートされるまま、一歩、あと一歩。ついに曲がり角に立ち、明かり取りの窓から入る風に波打つ琥珀の水面から目を逸らし、深紅の薔薇が示す方向――左手側に顔を向け、薔薇の花を追うように視線を上げて行く。

「うそ……っ!」

 その視線の終点にあったものに、オードリーは石榴石色の目を大きく見開いて、両手で己の口を塞いで戦いた。

 オードリーが目を向けた先、書架と作業台、そして薔薇の花に飾られた通路の突き当たり。周囲の床より一段高くなり、赤いビロードの敷かれたそこには――この二ヶ月、会いたくて溜まらなかった妹が立っていた。

 薔薇や、足下の織り布に負けない程鮮やかな、リボンで絞られた殆ど括れの無いウェストから下が、幾重にも膨らんだ深紅のドレスを着て、裾に掛けてやや広がるように作られた袖から出た小さな指先が、揺れるスカートの裾を摘み、礼を取るような位置で両手を伸ばして。

 ――大きな、今まで見たこともないような、窓のように大きな、蓋を金の縁取りがされたやはり赤のビロードでギャザーを寄せるようにして覆われた、丸口のガラス瓶の中一杯に広げたスカートを、水中花のようにユラユラと揺らしながら。

 人形のようと湛えられたその美貌を惜しげもなく晒し、祭壇の上に上げられた聖女の像のように微動だにしない、だけれど像には決して出せない、少女らしい円やかな頬の曲線を、周囲に点った飴色の明かりに照らされた。

 生前と何一つとして変わらない、何一つ損なわれていないアニュゼット・グレイスが、確かにそこに、オードリーから一ヤードも離れて居ない場所に『立って』いたのだ。
 
> 第一部 > オードリー・グレイス十三歳 > 十三歳の五月 > 9
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「……ドリー?」
「……っ」

 オードリーが、赤い薔薇に示された角を曲がったのは、後ろのリアンに、怪訝な様子で声を掛けられた時だった。
 その間の数分、オードリーはずっと、行く先に聖女のように清らかな微笑を見せ、慈しみ深く何物を――それこそ肉親を失った子どもの、頑是無い我が儘まで――も受け止めるかの如く、静かにそこに立つ、妹に見惚れていたことになる。

「――ほら、アニュゼット様が、待っていらっしゃいますよ」

 それでも、オードリーは、リアンがそう言って、オードリーと頬を並べるようにして屈んで、月の光の如く仄かな微笑をその冴え冴えと青い瞳に乗せて、軽く、一歩を突き飛ばすように背を押して身を離すまで、その場から一歩として動けなかった。

「二人きりで積もる話もあるでしょう。まずは、貴女がお声を掛けてあげて下さい。……ね?」
「……」

 そうして、言葉に従って動いてからも、最初の数歩は、足を進める度に、曲がり角にそのまま佇むリアンを縋るように振り返り、その度に僅かな微笑と深い頷きを返された。

 その度、まるで、初めて親から離れる子どものような不安感と、何ともいえない違和感が膨れあがり、オードリーはもう少しで何もかもを投げ出してしまいたいと思った。

 あれほど――人の理に反して、リアンに無理を言って、この二ヶ月、足繁くこの場所に通って――それほどまでして会いたかった妹が、もう目の前に居るというのに。

 オードリーは、自分の向かう先にアニュゼットが居るということが、どうにも現実感のある事象として――下手をしたら、家族とアニュゼットが死んだという認めたくない現実以上に――意識に染みつかなかった。

 だけれど――だけれどそれも、俯いたまま道の半分を進み、靴先からようやっと上げたオードリーの視線が、一段高い、薔薇と布で美しく飾られた、ルルドのような場所に在る、自分と瓜二つの美貌を持つ妹と、目線を合わせるまでの間のことだった。

 通った血の、薄紅色がすっかり褪せた白い白磁の肌の上、赤い衣服の照り返しを受けて生きているかの色に染まった頬で、黒く艶やかな髪を靡かせて、長い睫を伏せて頬笑むその顔。

 遠目からは分からなかったが、その瞳は僅かに開き、石榴石の色をした瞳は、生前そのままの輝きでオードリーを見据えていた。
 いつも、快活な彼女が数歩前に走って行って振り返り、笑って、オードリーを呼ぶ時の姿そのままに。

 ――早くこちらへ来て、ドリー。そこじゃあ貴女の声が聞こえないわ!

 そう、妹が叫んだ声が耳元で蘇るような気がしたその時には、オードリーは柔らかな素材で出来た寝間着の裾が足下に絡まるのも、エナメルの靴が床に落ちた薔薇の花弁を踏みしめるのにも構わず、妹の、アニュゼットの目前まで、まろびつつ、一気に走り寄った。

 もう殆ど残っていない筈の距離が、自分を見つめる赤い瞳の中で揺らめく、琥珀色の池に反射した飴色の光が、自分を呼んでいるような気がして。

(あんなに会いたかったアニュゼットがこんなに近くに居る、私と同じ顔をした美しい妹が――美しいお人形のようにガラスケースに収まっている!)

 最後の一歩は、殆どガラス瓶の側面に倒れ込むようにして、それでも体重を掛けないように寸前で止まり、オードリーは乱れた黒髪を払いながら、その間もずっと、彼女の、その身に沸き立つ血のように赤い双方は、食い入るように目前の妹を見つめ続けた。

 まるで、少しでも目を離したのなら、その間に、彼女の何かが今の状態から、すっかり変わってしまうのではと恐れるように。
 彼女に起こる少しの変化も見逃さないというように。

「おか、えりなさい。お帰りなさい、アニュゼット。私、わたし、ずっと待っていたのよ!!」

 その言葉にか光の加減にか、ガラス玉のように、知性の色なく周囲の光とガラスに手を突いて覗き込むオードリーだけが写った瞳が、僅かに微笑を深くように見えたガラス瓶の中の少女。命の無い、彼女の双子の片割れ、アニュゼット・グレイス。

 陶器のように真っ白な肌に黒い髪、深紅の瞳と色のない微笑。

 薔薇の花の精霊、または女王という風情で透明な液体の中にたゆたうその姿は、精巧な美貌と幼さを同居させ、どんな人形よりも美しく気高く、幼さと同時に妙な艶があり、そして。

 ――汚れを知らぬ真っ白な寝間着、夢見るように細められた赤い瞳に紅色に染まる白い頬、艶のある真っ黒な髪と伸びやかな肢体を持つ清純さを形にしたような、彼女を覗き込む少女と、何もかもが皆同じであった。

 そうして、ともすれば、滑稽なことにこの時初めて。
 清純な生者は――オードリー・グレイスは、自分と頭の先から爪先まで、それこそ、『生きているか死んでいるか』以外に寸分の違いも無い妹を、初めて傍観者として眺め、『美しい』と、美々しい風景を見るように極自然に感じたことによって。

 普段から、あらゆる人に賞賛されていた、自分と妹の美貌が、それこそ自然が作り出した大粒の真珠や、季節の中で自然が一瞬だけ見せる風景のように。
 全くの偶然からしか生まれない、つまりは同じ者は互い以外にない、全くもって希有な、絶妙な采配によって作られている希少な物であると、初めて気付いたのである。

 同時に殆ど本能的に、自分が、その美貌を利用することを許された、希有な『女』であるという理解と自惚れも――ただ賞賛を享受するだけであった少女の心に、赤い薔薇のように毒々しい虚栄心として、確かに根を下ろしたのであった。

 後に――自分も、他人もを堕落させていく悪徳の華の芽は、こうして幼いだけだった少女の心に、確かに芽吹いたのだった。
 
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「ねぇ、聞いてアン。私、婚約したのよ」

 程なくし、盛装の貴婦人や散歩の紳士よりもゆったりとした歩調でオードリーに追い付いたリアンは、そう言いながらガラス瓶に腕を回し、その内側の”彼女”と額を合わせ、うっとりとそう呟くオードリーの右へと並んだ。

「まだ、仮初めの婚約者だけど――ねぇ、でも、大人になったみたいでしょ?」

 腕には途中のテーブルに置いていた包みを抱え、彼女の横にしゃがんだリアンには目も暮れず、オードリーは恍惚とした顔で瓶の中を覗き込みながら、そう言って頬を染めて笑った。
 同じ顔で無表情の”中身”と重なるようにして、瓶の反射にうっすらと映ったことにより、リアンの位置からは、まるで二人で頬笑み合っているようにも見えた。
 ――此度の再会をお膳立てした彼の存在を忘れ、二人だけしか居ない世界で違いに笑い合っているように。


「――私からの誕生日プレゼントは、お気に召しましたか?」

 その面白く無い想像に、リアンは秀麗な眉を僅かだけ寄せ、次にはその顔に笑顔を貼り付け、オードリーを見上げ、そう声を掛けた。

 この場所に居るのは、”彼女”と秘密を共有しているのはお前だけでは無いのだと、その美しい笑顔を独占する相手と、姉妹にばかり笑顔を向ける”彼女”に言って聞かせるように。

「えぇ、とっても!」

 しかし、彼の幼い女主人は、彼が横側から唐突に掛けたその声に驚くようなことは無く。ガラスに額を預け、はにかむように目を伏せたまま鷹揚に頷き、ガラス越しに彼と目を合わせ、再び頬笑んだ。

「ねぇ、アン。よぉく見て、彼がね、私の婚約者なのよ。私達の誕生日に、もう一度私たちを合わせてくれるだなんて、ねぇ、とっても素敵でしょう?」
「ドリー、そう褒められると照れてしまいますよ」
「ふふふっ、ねぇアン聞いた? こんなに素敵で、しかも私たちよりうんと年上の人が、これくらいで照れるだなんて、そんな訳が無いわ」
「……おやおや、まさか婚約者殿に、私の誠意を疑われるとは」
「まぁ、疑ってなどおりませんわ。そちらこそ、婚約者の前で嘘や謙遜を言っちゃいけないわ。ねぇアン、そうは思わない?」

 ――クスクス、クスクス。

 オードリーの良く通る少女らしい澄んだ笑い声は、五月の乾いた大気と地下室の壁――そして目の前に聳える瓶に反響し、幾重にも重なって地下室に響く。
 まるで、オードリーと同じ声をした、同じくらいの年頃の少女が、もう一人居て、彼女と一緒になって忍び笑いを漏らすかのように。

 あの、正式な主従となった三月の日から今日までの二ヶ月。
 計画の露見を恐れて常に気を張っていたせいか、オードリーはリアンの前でさえ常に堅く顔を強ばらせ、淑女らしい控えめな笑顔と忍び笑い以外に、笑い声というものを一切上げなかった。

 それをリアンは何とも思わなかったし、どころか、彼のマリアンヌ嬢の、初めて生徒を持った家庭教師と思えぬ力量に関心し、今のような状況でさえ、常にそれを忘れないオードリーの気丈さや聡明さを素直に賞賛してきた。
 ふと漏らされる吐息だけの笑いさえも、信頼している自分の前でだけ見せるオードリーの様子に、心許されているような錯覚さえ覚えた。

「いやはや、それはどうも、失礼を……」
「ふふっ、ねぇアン。私達のような小娘にさえこうして詫びてくれるのよ。とっても素敵な方でしょう? まるで二人で読んだ絵本の騎士様のようだわ」

 だけれど――今この時も、これからも。
 恐らくはリアンの前でしか見せることをしないだろう、この物言わぬ姉妹と睦み合う様子に、リアンは何とも言えぬ焦燥と歯がゆさを感じていた。

 普段なら、どんな賛美歌よりも清らかで美しいと思う無邪気な笑い声も。
 婚約をする前、あくまでも一使用人でしかなかった時分でさえ、淑女として振る舞って来た彼女が初めて発する、家族にするような蓮っ葉な物言いも。

 本来なら、彼を舞い上がらせるには十分であるのだが。
 今は、それら全てに苛立ちばかりが募って行く。

 何故なら、彼が喉から手が出る程に欲し、他の何も要らないとさえ焦がれ求めたそれらが、全て家族に――彼女の唯一の姉妹に向けられているからだ。

 彼女と丸っきり同じ背格好と顔をしているだけ、ただ同じ胞から生まれたというだけで、彼女に永久に愛される。
 ただ見て愛でる、美術品や精巧な人形以上の価値など無い、医師であり大人であり侯爵家とも紫のある、彼とは違って全くの役立たずの癖に。

「――私は、王子では無いのですね」
「リアン、何か言いまして?」
「いえ、ご婦人のお耳に入れるようなことではありません」
「そう?」

 思わず漏れ出た言葉に一度だけリアンの方を向いたオードリーは、再び、二人にしか分からないお喋りに興じようとアニュゼットの方に再び視線を向けた。

「所でドリー、私からのプレゼントは、アニュゼットお嬢様のことでは無いのですよ」
「まぁ、そうなの? 嫌だわ私ったら!」
「えぇ、これのことなのです」

 その視線を自分に縫い止めようと、リアンは咄嗟にオードリーを呼び止めて膝を突き、先ほどから脇に抱えていた包みを差し出した。

「さぁ、どうぞ」
「ありがとう、リアン――まぁ、一体何かしら?」

 深紅のリボンを解き、包みを広げたオードリーは、次にはその中身に石榴石色の瞳をまん丸く見開き、少女らしい――血肉の通った、高濃度のアルコールで出来た薬液に髪の先から声帯まで浸かっていない――甲高い歓声を上げて、リアンの首へと抱きついた。

「凄い、凄いわっ、リアン! 今まで貰ったどのドレスより素敵よっ!」
「――気に入って戴けたのなら、何よりです」

 リアンは、首筋に抱きつく温度と、部屋に置いた薔薇から移った芳香とも、髪や肌に塗られた香油と混じった少女自身の香りとも付かぬ甘い匂いを感じながら、寝間着を纏った婚約者の背中と絹糸のような髪とを大きな掌で撫でながら。

「あなた、知っていたのね! 私達が毎年、お誕生日にお揃いのドレスを仕立てて貰うこと!」
「えぇ――ミセス・マリアンヌに教えて戴きました」

 片腕にドレスを抱えたまま、掌で包んだ頭を引き寄せ、一層強く寄せられた頬に頬を寄せ返し、じわじわと溶け合う温度にゆっくりと溜息を吐きながら。
 青い瞳をうっとりと細め、その紺碧の美貌を甘やかな笑みでとろかせた。

 ――彼が抱きしめる婚約者が大事そうに胸に抱えているスカーレット色のドレスと全く同じ色形のドレスを纏った、飴色の水の中に浮かぶ物言わぬ少女に視線を向けて、自分の優位を知らしめるかのように。

「――ねぇ、ドリー? 気に入ったのなら、ご褒美を戴けませんか?」
「ご褒美?」
「えぇ、簡単なことです――こちらを向いて、私の目を見て……」
「ねぇ、次はどうすれば――」

 先ほど、自分の姉妹とそうしたように、紺碧の瞳と視線と額とを合わせたオードリーの言葉は、次の瞬間、自分のソレより一回り大きな口唇に、包まれるようにして飲み込まれ、離れる際には軽く啄まれた。
 まるで口元から食べられるかのようなソレが、一瞬何なのか分からず、オードリーは思わず両手で口を覆い、リアンを見上げた。

「――ねぇ、今のはキスでいいのかしら?」
「少なくとも、私はそのつもりでしたが?」

 頬と目尻を赤く染め、口を塞いだまま怖々と己を見上げるオードリーの初々しさと突飛な質問に、リアンは破顔し、やがて、「失礼」と口で謝りながらも、クスクスと大きく笑い出した。
 それに対してオードリーはいよいよ耳元まで赤くなり、そうなるとリアンと互いの吐息を感じられる距離にいることを意識し、決まり悪そうに視線を泳がせた。

「だって、だって、リアン……私の知ってるキスは、その、唇を食べたりしないし、それに……」
「それに?」

 オードリーだってキスがどんなものか知っている。
 挨拶として、手の甲や頬に何度も受けて来たし、父や母――姉妹と毎朝毎晩、唇同士を軽く合わせるそれも経験している。
 だけれど、リアンのしたように、唇そのものを食むようなやり方を受けたのは初めてであるし。

「わ、私の知ってるキスは、その、こんなにドキドキしたりしないわ」

 ――こんな風に、キスをしてくれた相手との距離や、表情や、その後の自分の仕草が気になったりなどしなかった。

 そのようなことを、いよいよ焦点の定まらない目を潤ませて、辿々しく話すオードリーの様子を見下ろしながらリアンの笑みはいよいよ深まり、遂には未だ言葉を探す薔薇のように鮮やかな唇の上に、それ以上の言葉を塞ぐように指先を置いた。

「――それはそうでしょう。だってこれは、恋人同士の口づけですからね」

 といっても、まだ入り口なのですが――というリアンの言葉に、オードリーは指先を当てられた唇をはくはくと蠢かせ、いよいよ絶句した。
 リアンの指先は、なぞるようにオードリーの唇を撫で、その頬を丸ごと掌で包んだ。


「足りませんでしたか?」
「足りない、って?」
「そうですね――しいて言うなら、ドキドキが」
「あ……」
「――ドリー、全て、私に任せて」

 その言葉と共に傾けられた秀麗な顔と、薄く細められた瞳に操られるように、オードリーも静かに目を閉じ――無意識にか、うっすらと唇を開けたままで顎を反らせた。


 ――初めての拙い口づけに酔う恋人達は気付かなかった。

 最初は何度も触れ合うだけであったソレが、一方のリードともう一方の若さ故の飲み込みの早さから深まれば深まる程に。

 分厚いガラスの向こうから、微笑を浮かべて彼らを見下ろす赤い瞳をした天使の少女らしく愛らしい唇に、まろやかなその頬に、拙い夢を見ているかの目元に。

 ――桃色の花弁のようにうっすらと、しかし確かに点る快楽と官能の色に。
 
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オードリー・グレイス十五歳
 
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