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二人の永遠の夏休み
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第一話:プロローグ、そして世界のエピローグ
焔水さん、ムーンでの実質デビュー作。
村上なんちゃらとか、ライトノベルとかそういうサブカルな文体を使ってみたかったのです。
その日も、ちぃちゃんは夕日の落ちる赤い海を見つめていた。
いつものように堤防に座り、浜辺の側に脚を投げ出して、夕日に染まった赤い海を見ていた。
水平線が、ここ数年でやたら大きくなった真っ赤な夕日を飲み込んで行く様を、裸足の脚を風に晒してブラブラさせながら。
ついこの前まで最後の調整の為、本土への長い出張に出ていた彼によると、あの大きな夕日は、彼の頑張りと、彼曰くの「世界の馬鹿達」によって、大気中になにやら難しい名前の物質が増えたことで、夕日の色を作る層の反射率が変わったせいだということだが――珍しく苦戦した兵器だったらしく、褒めて褒めてと頭をすり寄せて来た――事実上、高校中退が最終学歴のちぃちゃんには分からない。
ここ百年で一番大きな太陽の沈む入り日のその様子を美しいと言う人もいるのだろうが、そんな人が、恐らくもう誰も居ないことだって、ちぃちゃんは――あれから十二年が経って、二十八になったらしいけど実感がない――ちぃちゃんは知っていた。
だって、どう認識をねじ曲げても、殆ど洗脳のように染み込まされた、殆どだまし討ちのような約束だったとしても、彼にそうして欲しいと願ったのはちぃちゃんなのだから。
「世界を滅ぼして欲しい?」と聞いた彼に、ちぃちゃんは朦朧としながらも、確かに頷いたのだから。
夏の終わり、その約束をした十二年前、ピクリとも動かない鉄面皮の下に繊細な感受性を宿していた十六歳のちぃちゃんなら違うかもしれない。
でも今、二十八歳の心を持つ、少しスレたちぃちゃんは、日焼けを心配した彼が被せた大きな麦わら帽子の鍔を押さえながら、ただ、こう思う。
海も夕日も、まるで、血の色のようだと。
そしてちぃちゃんは知っている。この海が、本当に血の色でもおかしくないくらいの血を吸っていることを。
「ちぃちゃん? ご飯が出来たよ」
その時、ぼうっと赤い海を見つめるちぃちゃんの背中に、聞き慣れたよく通るテノールの声が掛かった。
そしてそれと同時に、ちぃちゃんの両脇に白い両手が通って、白い生成のワンピースを押し上げる、ちぃちゃんの豊かな胸の下でしなやかに交差した。
それをちぃちゃんが認識すると共に、ちぃちゃんは、ひょいと抱き上げられ、今まで向いていた海とは反対側――同じ高さで隙間無く並んだ瓦やトタン平屋の並んだ平屋と、その前に横たわる所々剥がれたコンクリートの道路――の側を向かされて立たされた。
そして、裸足の足をコンクリートに下ろしたちぃちゃんの向かいに、嬉しそうに笑った彼が立っていた。
思春期の終わりに急に伸びた、細身な割に女性にしてはやや大きいちぃちゃんと同じくらいの身長の、ハーフパンツ型の水着を着て、上にボタンを全部はずしたシャツを羽織った彼――うーちゃんは、身体と同じく、十二年前から全く一切変わらない女の子のように美しい顔の、整った卵形を下膨れに膨らせてちぃちゃんを見た。
「ちぃちゃんってばぁ、ご飯の時間には戻って来て、って僕、言ったでしょ?」
「ごめん……海を見ていたの」
「全く、いくら数ヶ月ぶりの外出だからってねぇー。約束を破ったら駄目だよ」
「……ん、ごめん、なさい」
そう言うものの、ちぃちゃんは、自分が夕飯の時間までにうーちゃんの所に帰らなかったことを、本当は悪いとは思っていない。
だけれど、うーちゃんが本当には怒っていないのに『怒っているんだ』という演技をする以上、ちぃちゃんも、例え本当に済まないなどと思っていなくとも『あなたを怒らせたことを済まなく思っている』という態度を取らなくてはいけない。
それがコミュニケーションというものだと、十二年前から今まで、物心付いてからはいつも一人だったちぃちゃんに、うーちゃんは嫌と言うほどに教え込んだ。
当時は何かと話しかけて来る、口の早い――口うるさいだけでなく何かとキスをしたがるのでコレで合ってる――うーちゃんが、内心うざったくて仕方なかった。
だって、コミュニケーションとしてかは置いておいても、うーちゃんは毎日毎日、足腰の立たなくなるまでちぃちゃんを貪るのだから。それでうーちゃんは満足しているし、別に無理に言葉なんて交わさなくても、それでいいんではないかなぁと、ちぃちゃんは思っていた。
だが、今、大人になったちぃちゃんには、うーちゃんが自分にコミュニケーションという物を取らせたがった理由が少しだけ分かる。
もし、うーちゃんが会話とか好意を示す言葉を、その秀麗な顔を大げさに歪めたり、強いお酒のようにストレートな好意の言葉を尽くして一生懸命教えてくれなかったなら、ちぃちゃんはソレを取得する機会を逸して、無表情の鉄面皮以外の表情を知らずに死んでいったことだろう。
だって、うーちゃんはちぃちゃんが他の人間と接触することを極端に嫌がって、この島に誰も居なくなる今日まで、ちぃちゃんを自分の付き添い無しでは家から一歩も出さなかったし、うーちゃんが十二年を掛けて行った『下準備』によって、出た所で誰もがちぃちゃんを、頭のおかしな人間としてしか取り合ってくれなかったし――昨日からこの地球という殆どが海で出来た球体の上に、もうちぃちゃん以外に、純粋な人間はいないのだから。
「全くちぃちゃんは――って、ちぃちゃん、ちゃんと聞いてた?」
「ううん、全く聞いていなかった」
そう言って、ぺろっと舌を出してみる仕草を教えたのもうーちゃんだ。それを教えられる段階、ちぃちゃんが小さな舌でうーちゃんの指を舐めた時も、いざ顔を作ってみた時も、うーちゃんは偉く感動して何度も何度もさせた。
だから料理も洗濯も、人並みくらいしか出来ないちぃちゃんは、うーちゃんを舐めるのは結構得意だったりする。
「もー、可愛い顔して見せたって誤魔化されないんだからねっ!」
「……ご飯、ちゃんと食べてたもの」
「なぁんだ、聞いてたんじゃん」
どうせ、「ちぃちゃんは僕と違って純粋な人間なんだから、ご飯を食べないと死んでしまう」とか「食べなきゃ大きくなれないよ」とかいう内容だろうと思ったら、本当にそうだったらしい。
ちぃちゃんは、大げさにため息を吐いて俯くと、ワンピースを押し上げる平均的――もう平均を計ろうにも人間はいないのだけど――な膨らみを形作った胸を見下ろして、だめ押しに更に小さくため息を吐いた。
当時、ちぃちゃんより頭一つ大きかった、うーちゃんの身体の窪みにすっぽりと収まる華奢でやせっぽっちの少女だったちぃちゃんは、そこそこの胸と、うーちゃんと同じくらいの身長を得たというのに、ちぃちゃん的にはまだ足りないというのだろう。
「……全然足りないからね」
「うーちゃん……」
「これからは時間が取れるからね、もっともっと育てるよ」
「……も、育たないよ」
鉄面皮の目にだけ呆れを乗せて、数秒。
いつの間にか、またご機嫌な顔を作ったうーちゃんの綺麗な顔を見ていたちぃちゃんの目は、意識せずまた、夕日が殆ど落ちて、いよいよ人間の血液のような赤さを得た海を見ていた。
ちぃちゃんは余り長く、うーちゃんの顔を見つめることができないのだ。
じっと見ていると、その美しさが自分のせいで損なわれてしまいそうで。
いつまでも変わらず綺麗なうーちゃんよりも、廃油やそれこそ人の血肉で赤黒く染まった、十二年前に何百人という人間の血を吸ったこの海の方が、これから老いるばかりの汚い人間でしかないちぃちゃんにふさわしいと思ったのだ。
夕日は、どういう仕組みになっているのか、中々沈まない。
まるで、今日という人類――あるいは地球――最後の日を、この世界に引き留めなくていいのかと、ちぃちゃんにお伺いを立てるようにして。
もう、どうでもいいから勝手に沈めばいいのに、と、ちぃちゃんが二十八年物の鉄面皮の下で舌打ちしてるとも知らずに。
「はぁ……」
と、耳元でため息が聞こえて、斜め後ろに首を捻って海を見ていたちぃちゃんは、後ろからうーちゃんに抱きしめられた。
ちぃちゃんの華奢な肩に、うーちゃんの綺麗な顔が乗り、少年らしく細身な癖に、ちぃちゃんよりもよっぽど筋肉の付いた腕が、やっぱりちぃちゃんの膨らみの下に回った。
ちぃちゃんの膨らみは、うーちゃんの窪みにすっぽりとは収まらなくなったけど、今度は、どんな角度から抱きつかれても、うーちゃんの少年らしく、青年になる一歩手前の、凹凸の薄い身体にぴったりした形を作る柔らかさを手に入れていた。
汚れを知らない少女にはない、自分の上の誰かを抱きしめることを知った、大人の女らしい、たおやかな。
「ねぇ、ちぃちゃん」
相変わらず海を見つめたままだったちぃちゃんの目を覆うようにして、ちぃちゃんの頭に――それこそ蛇のように――腕を巻き付けたうーちゃんが小さく囁いた。
「そんな顔して見つめたって、もう誰も帰ってなんて来ないよ。クラスメートも、駄菓子屋のおばあちゃんも、隣のおばさんも――博士も」
「お母さんに――うーちゃんの博士に帰って来て欲しいのは、うーちゃんの方、でしょ?」
「よくそんなことが言えるよね。僕がどんなにちぃちゃんが大好きだか知っている癖に」
ちぃちゃんが間髪入れずにそう返すと、うーちゃんは、ちぃちゃんの頭に巻き付けた腕の力をやや強め、クツクツと楽しそうに笑った。
「ちぃちゃんってば、意外とやきもちやきさんっ!」
ニコニコと笑って、つんつんと頬をつつくうーちゃんに比例して、ちぃちゃんは少しだけ――うーちゃんが熱の籠もった目でじっと見てやっと分かるくらい――にむっと頬を膨らませた。
「……うーちゃんは、やきもち、やかないもんね」
「うん、そうだよぉ」
ちぃちゃんに、そう答える声は嬉しそうで、ちぃちゃんを抱き寄せる腕の力はちぃちゃんの肋骨が軋みそうな程に強くなる。
それは、うーちゃんの機嫌の良さをそのまま表したもので、ちぃちゃんは、鉄面皮の下でちょっとだけ笑った。
「もう、世界に僕らしかいないから、これで僕はもう、ちぃちゃんの為だけに生きられるもの」
今日までの十二年間、うーちゃんはそれこそ蛇のようなやきもちやきで、ちぃちゃんを度々辟易させてきた。
ちぃちゃんのお母さんの骨壺のある暗く湿っぽい仏間に引きずってって、畳の上に押し倒して、その身体をしつこく舐めたり吸ったりして無理矢理言葉を発させたうーちゃん。
十二年前の夏休みの最終日、ちぃちゃんの制服も靴も教科書も――お母さん以外に着信の殆ど無かった携帯も、庭で火にくべて焼き払ってしまったうーちゃん。
そのうち、ちぃちゃんの服を全部捨ててしまい、近所の人に巧みに、「狂ってしまった少女と、その世話係の従兄弟」という関係を染み込ませ、ちぃちゃんを家から一歩も出さなくなったうーちちゃん。
十二年前の夏休みの終わりから今まで、自分は、あちこちに出かけて、ちぃちゃんの願い通りに世界の全てを破壊して根回しして、寝る間も惜しんで働いて、家にも殆ど帰らなかった癖に。
ちぃちゃんの家のテレビやラジオは、うーちゃんが本土へと、本格的な『お仕事』の出向へと赴く前に、みんな庭の敷石に叩きつけて壊されてしまったから、ちぃちゃんは、うーちゃんがどんな風に世界を壊したのかは知らないけど。
予め十一年を準備に費やしたとはいえ――その殆どは、うーちゃんが最終調整の長い最後の出向に向かう間、ちぃちゃんが一人ぼっちで、しかもうーちゃんとうーちゃんとの約束を忘れないで過ごす為の準備だったけれども――たった半年でちぃちゃん以外の人間がいなくなったというのが本当なら――それはとっても優秀な部類なんじゃないかとちぃちゃんは思う。
尤も、全部がもう一度――四億人の人類と、一匹の怪人という前提までを再現して――最初からやり直しにならないと、世界滅亡までのその手腕だなんて、比べることが出来ないだろうけど。
「ねぇ、ちぃちゃん、ちぃちゃんは僕が怖い?」
「……ううん」
「そっか、良かった」
ちぃちゃんはこの十二年、うーちゃんを怖いと思ったことは一度もない。
だって、うーちゃんはどんな無理難題を押しつける時だって、いつも笑顔だし、その笑顔に憎しみや怒りが滲んだことは一度もない。
確かにうーちゃんの悋気は強いけど、自宅への軟禁も、仏間でも陵辱も、みんな心から、ちぃちゃんの為を思ってやっているのだ。
今まで、ちぃちゃんを心配する振りをして、その実一切の関心を寄せて来なかった人間よりも、人間じゃないうーちゃんは優しい。ちぃちゃんはそう思う。
なんせちぃちゃんは鉄面皮だけれども、その内側には誰より繊細な心を持っているのだから。
「私、うーちゃんは怖くないよ」
「他の人は怖いんだもんね」
「うん……」
「大丈夫、もう他の人は誰もいないから。海の向こうにも、ここにも」
もう何度めかも分からないやりとり――今日は最後のうーちゃんの台詞が違った――を繰り返し、ちぃちゃんの小さな頭を包む腕が緩む。
うーちゃんは腕の中でちぃちゃんの身体を反転させ、その美しい目を閉じて、「お帰りなさいのちゅーをちょうだい」と言った。
ちぃちゃんは数日前、「やっぱり最後のカウントダウンは愛する人とするべきだよね」とかいう相変わらずよく分からない理由のもと、実に半年ぶりに帰宅した働き者のうーちゃんを労う為、小さく唇を合わせるキスをした。
唇を離すとき、ちぃちゃんの蛇のように薄い舌に唇を辿られたけど、気づかない振りをして。
「まだ家に帰ってないからちょびっとだけ」
薄目で、ややすぼめられた綺麗な唇からちろりと舌を出して――そんな間抜けな格好でも絵になるから卑怯だ――物足りなそうに眉尻を下げるうーちゃんにそう言って、ちぃちゃんは、ぷいっと顔を逸らす。
「じゃあ、途中で利子を貰おう。幸い、抱き合う場所も、帰れるおうちも沢山あるからね」
そう言って、うーちゃんは両の腕を上げて大の字に延ばし、ぐるりと周囲に目を巡らせた。
海沿いのこのコンクリートの道は、一応この島のメインストリートで、お土産の民芸品、ジュースや軽食や海産物を出すお店が並んでいる。
急いで避難していったものだから、鍵も開けっ放し、商品もおきっぱなしになっていて、ちぃちゃんもうーちゃんも、ちゃっかりソレを着服しているのだ。
「何ならこのコンクリートの上で脚を開いてもいいんだよ?」
今度はちぃちゃんの両手をとって、ニコニコと少年らしい無邪気な笑みを浮かべるうーちゃんの臑を、ちぃちゃんは軽く蹴り上げた。
腕を取られていた為に力が入らず、おまけにバランスを崩して、うーちゃんの水着の上から足先で股間を撫でる感じになってしまったけれども。
「ちぃちゃんったら、積極的ぃ」
「……そんなんじゃ、ないやい」
「所でちぃちゃん、喉は乾かないかい? 清婆さんのお店に寄ってラムネを飲もう」
「致す気満々じゃん」
清婆さんは島で唯一の洋食屋であり、実は民宿もやっていた。二階に台所付きの小さなワンルームがあり、何故か『休憩』出来るのだ。
だからちぃちゃんがまだ学校に通ってた頃、清ばぁの所に行こうと異性を誘うのは、つまりそういうことだった。
今となっては、勝手に入り込んだって何も言われないのだけれど。
「ふぅん……知ってるんだ、ちぃちゃん」
半目で睨んで来るうーちゃんに、ちぃちゃんは幼い頃に犯した罪を、当時に戻ってクラスメートに叱責されているような気まずさを覚えて、俯いた。
ちぃちゃんは、うーちゃんと高校に通ったことなんて、全く一度もないんだけれど。
「……うーちゃんは何で知ってる」
「何度か誘われたからさ」
「うそ!」
気まずさを振り払う為に咄嗟に口に出した憎まれ口に、予想以上の言葉を返されて、ちぃちゃんは思わず鉄面皮を剥がして大きく目を剥いてしまう。
だってあの頃、うーちゃんはちぃちゃんの未熟な身体に夢中で、よくそんな飽きもせずと、ちぃちゃんが朦朧とする意識の中で呆れるほど、ずっと二人で『そういうこと』をしていた筈だ。
「勿論、嘘だよ。僕、そんな暇がないくらい忙しかったもん」
うーちゃんがちぃちゃんの耳元でそう言ったのは、背中を撫でた生ぬるい風に、夏の特に暑い日に、窓の無い仏間で、脱水症状寸前まで求められた時のことを思い出したちぃちゃんが真っ赤になったその時だった。
「だから、ちぃちゃん、僕の初めての相手になってよ」
「……もう、何回もしてるじゃん」
「一個一個が僕にとって初めての経験だよ。世界を壊して手に入れた甲斐がある、ね」
そう言って無邪気に笑ううーちゃん――ちぃちゃんの母が勤めていた研究所で作った悪の怪人ウロボス――は、美しくも儚い、十五歳の少年らしい顔で笑った。
うーちゃんは変わらない。まるで、十五歳のまま何度も夏休みを繰り返しているかのように。
その時、海の向こうの無人になった灯台で五時を告げるサイレンが鳴った。
ちぃちゃんとうーちゃんの十二回目の夏休みを告げるかのそれは、ちぃちゃんには、うーちゃんを待つ留守番の間、暇にかまけて読んだ聖書に載っていた、終末のラッパの音のように聞こえた。
「ふふっ、僕らの門出を祝福してるみたいだね」
楽天家のうーちゃんには、全く違うように聞こえたみたいだけれど。
「そんなうーちゃんも好きだよ」とは言わなかった。
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