> 蛇足編 > うーちゃんの話 > 3
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『ねぇ、いってみて、――って。――だよ? いってごらん?』
『……あーぅ?』
『ちがうよぉ! あのね、――! ね、もっかい! いってよぉ、ちぃちゃん!!』
『――君、無駄よ。千尋はまだ、喋れないわ』
『やぁだよぉっ!! ぼくがおばさんと、とーくにいっちゃうまえによんでほしいんだよーっ!!』

 夢の中で僕は、何処か懐かしいような感じのする部屋の中に居た。そこには研究所のように白い壁とベッドがなくて、研究所より天井が低い。僕の視点は、その低い天井の辺りくらい。
 僕は、研究所しか知らないと思っていた。でも、僕には分かった。そこが和室って部屋で、床に敷いてあるのが畳って奴で、その上にある低い四本脚がこたつで、その横に置かれてるのは座布団で――僕はみんな知っていた。
 あのね、僕は分かったんだ、どれが何か、全部ね。今まで、忘れてたことを思い出すみたいにして。
 座布団は、こたつと並ぶようにして窓側に三つ置かれていて、その上にそれぞれ生き物が居た。
 手前の座布団には、困った顔をした博士。その隣には博士より少し小さな生き物。
 今の僕より、少しだけ小さなその生き物は、今にも泣きそうな顔をして、自分の後ろに居る博士を見上げていたよ。
 そして、小さな生き物におばさんと呼ばれている博士は、その小さな生き物がもっと小さな生き物をあやしているのを見守っている。
 その様子を――僕は見ていたんだ。他人のようにね、天井の高さから。

『うぎゃああああああ!』
『あぁっ、ちぃちゃんなかないで!』

 その小さな生き物は多分雄で、その雄が益々泣きそうに顔を歪ませながら、小さな爪でつんつんとつついているもっと小さな生き物は、むにむにした丸いほっぺたと、大きな目をしていて。ピンク色の布にぐるぐる巻かれながら、ばたばたと小さな手足らしきものを動かしながら、真っ赤になって大きな声で泣いていた。
 その力一杯の、まるでサイレンのようなその泣き声に耳を塞ごうとしたその時。

『ちぃちゃん、いいこだからなかないで、おねがいだから……』

 小さい生き物が、殆ど泣き声みたいな声を上げながら、座布団からそれを抱き上げて自分の膝の上に乗せて、ぎこちなく揺すり始めた。

「……ちぃちゃん?」

 小さい生き物は、抱き上げたもっと小さい生き物を確かにそう呼んだ。
 ちぃちゃんっていう、僕がいつも呟いてる言葉でね、僕の唯一の財産を使ってね、その生き物を呼んだんだ。

「君は、ちぃちゃんなの?」

 そしてね、それだけじゃないんだよ?
 僕が思わず口に出した言葉にね、ちぃちゃんって生き物はね――僕の愛しい君はね、天井の僕を見上げて、涙を止めたんだよ。
 君は嫌いだって言う、あの、白が多いおっきな目に涙を一杯に溜めて、小さい生き物に抱き寄せられて仰け反ったまま、君は確かに僕を見て、はくはくと口を動かしてね、そして。

『おばさん! ちぃちゃんわらった!!』
『そう、良かったわねぇ』

 笑ってくれたんだよ、君は。
 その、君が嫌いだというキツい……この目を細めて僕を見て。この可愛いくて食べてしまいたいくらい小さい唇をね、横に引っ張って笑ったの。胸がドキドキするような笑顔で。
 さっきまで泣いてたのにね、誰にも見えない、僕にも分からない僕をね、見つけてくれたんだ。凄いでしょ?
 それでね、僕は思ったの。ちぃちゃんなら、僕が誰だか知ってるんじゃないかなってね。僕が、蛇なのかほ乳類なのか、海の生き物なのか人間なのか……僕の身体の持ち主は本当に僕なのか、僕は僕に間借りしているだけの別の生き物なのか……。
 それが分かれば、僕は、僕の王様になれると思ったんだ。……ちぃちゃんが、この可愛い唇で僕の形を、その目で僕の色を、捕らえてくれたら――捕らえて貰うには、僕は、僕は何になればいい?

「ちぃちゃん、ちぃちゃん教えて、僕は――」
『ちぃちゃん、ちぃちゃん呼んで、僕の――』

 それでね、変なんだよ。僕の思ったのと同じことを、その小さい生き物も君に聞くんだ。

「誰なの?」
『名前は?』

 さっきまで情けなく泣きそうな顔をしていた癖に、期待に目を潤ませて、その小さい生き物に自分の名前を聞くんだよ。馬鹿じゃないのって思ったけどね――ふふっ、ちぃちゃん、勝手に耳借りるよ。内緒のお話。
 雄ってね、男ってきっと、馬鹿なんだみんな。いくつだって、どんなに年を取ったって――人じゃなくったって。恋を知った男はみんな、馬鹿なんだ。
 そして、馬鹿な男を救ってくれるのはね、何時だって可愛い女の子なんだよ、きっとね。どんなに真っ暗な所からでも、沢山の心がドロドロに溶けた中でも、いつでも小さな明かりになってくれるんだ。
 ……ま、明るいからこそ、自分の醜さがね、よく見えて死にたいくらいに悲しくなる時もあるんだけどね。
 でも、僕は男の子だから。馬鹿な男だから、こうやってちぃちゃんを感じるだけで、ちぃちゃんが僕を認識してくれるだけで、そんなことすぐに忘れてしまえるの。

『うー……』

 あの時もそうだよ。君はただ、自分を抱きしめる小さい生き物の腕が不愉快で小さく唸っただけかも知れない。

「ちぃちゃん、僕は……」
『ちぃちゃん違うよ、僕は――』
「うーちゃんなんだね、僕は……ちぃちゃんのうーちゃんなんだね!!」
 でもね、僕は思ったんだその時。君は僕を呼んでくれたんだって思った。


僕は僕の主で、うーちゃんなんだって、僕はそう思ったんだ。
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