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第二話:二人の出会い、そして再会
正しくは『ウロボロス』ですが、まぁ、うーちゃんはウロボスなのです。
 その日、十六歳のちぃちゃんは日課を遂行中だった。
 日課といってもこの夏休みだけの物で、始めたのもつい昨日――今年の夏休み初日――という中途半端さ。それでもちぃちゃんにとって、それはそこそこに大切な日課だった。
 夕方、灯台で鳴る五時のサイレンを聞きながら、自宅である日本家屋の生け垣の前に簀の子の縁台を置いて、海沿いの狭い道の向こうに広がる水平線を見ながら、おやつを食べるのは。

「……」

 ――終始無言で。

 ボロボロのコンクリートの防波堤の向こうで海は夕日で真っ赤に染まり、水平線の上には何もない。
 この島の人間は殆どみんな海で生計を立てていたけれど、だからこそこの近海での漁は禁止されていた。そして、その理由を知る人間にとっては、それで生計を立てる人間ばかりが住み着くこの島は異端だった。だから、連絡船も一切なし。
 なので、やや丸くカーブした赤い海の水平線にはいつも船の影などはなかった。その代わり、ちぃちゃんの家より右に――手前に一キロ程行った所にある海底電車の駅にはちぃちゃんのお母さんと同じ海の底か、向こうの本土からか帰宅してくる学生やら会社員やらが居ることだろう。
 今が本土の高校の夏休み中であり、家人が誰も海から上がって来ないちぃちゃんには関係の無いことだけど。

 ちぃちゃんは今年から通い始めた本土の高校にたまに行く以外に海底列車に乗ることはない。だけれど、その電車がどこまでも乗れば世界の裏側までも行けることは知っていた。
 実際、お小遣いを全て電車賃にして海外に行こうとしている――ちぃちゃんから見たら馬鹿としか言いようの無い――子も、同じ学年には居た。
 出席日数を感覚で計算して、たまにしか学校に行かない、友達もいないし、旅行の許可を得る必要のある身内も居ないちぃちゃんには全くもってどうでもいいことだけれど。
 そう――海底列車は世界の何処にでも行ける。なのに、世界の裏側までも行けるその電車がちぃちゃんのお母さんをちぃちゃんの所に運んでくれることはない。
 簀の子の縁台に膝を揃えて座り、黙々とアイスを口に運ぶ、ちぃちゃんのお母さんは、黒目がちなのに吊り目ぎみの三白眼という希有な瞳のちぃちゃんが無表情で見上げる水平線のすぐ真下、モーターボートでも十分もかからず着く深みの、海底にある海洋研究所でそこそこ偉い立場で研究所員をやっているちぃちゃんのお母さんは。

 ちぃちゃんが家事を一通り出来るようになった十歳の頃から、お母さんはもう五年も帰って来ない。

 黒髪黒目、小柄で肉の薄くて目つきの悪いちぃちゃんとは正反対に、科学者とは思えない豊満な肢体と物言いたげな文学少女のような子鹿の目を持ったちぃちゃんのお母さんは。
 たった海底列車の駅一つ分の距離から、盆も正月も帰ってこず、親の物だという広い日本家屋にちぃちゃん一人を置き去りにして、研究所員とその家族だけが住むこの島で、一切の近所つきあいをせず。
 そのことで結果として、一人残されたちぃちゃんがどんなに居心地悪くなるかなんて、きっと気にしたこともないのだろう。
 おかげでちぃちゃんは、お母さんに文句を付けては何かと煙たがられていた――今でもちぃちゃんに挨拶だけはしてくれる――隣のおばさん以外に同じ町内の人を一切知らない。
 最も、独身世帯も多い島なので、同じ町内で寝に帰って来るのではなく、ちゃんと家に住んでいる人が何人くらいいるのかもちぃちゃんは知らないけれど。

「……チッ」

 ちぃちゃんは、アイスの紙のカップを完全に空にして、木のへらを赤い唇の間に啣えたままで、器用に舌打ちをした。
 十六歳のちぃちゃんは夏休みが、特に夏の夕暮れが嫌いだった。いつもは何も考えないようにしているちぃちゃんを、感傷的な気分にさせるから。母が帰って来ないのはちぃちゃんを疎んでいるからだという噂話を信じてしまいそうになるから。
 近所の、家族の研究所員から何かを聞いているらっしく、ちぃちゃんを見て訳知り顔をする人間も嫌いだったし、本土から呼ばれていきなり主任になったちぃちゃんの母親への不満をなぜかちぃちゃんに言って来る、その家族も嫌いだった。

 ちぃちゃんは、この頃、自分も嫌いだった。こうやって毎日母親のいる方を向きながらおやつを食べて、黒髪のおかっぱ、黒目がちの三白眼のせいで誤解されやすい自分の近所での認識を年相応に寂しさを持つ人間に見せようとする自分が。
 こうやって黙々とアイスを食べ、心の中で悪し様に母を罵ってみても――全くお母さんを憎くも愛しくも思えない自分が。
 もう母の容貌なんて特徴的な所以外殆ど忘れているのに、写真の一つも見たことの無いし生まれる前から居なかった父親というものの方がよっぽど親しみのもてる自分が。

「……っ」

 苛立ちに噛みしめたへらが舌をチクチクと刺してソレにまた苛立ち――その苛立ちが全くお母さんに向かないことに更に苛立ち――白い綿のワンピースが膝上に捲りあがるくらいに振りかぶって海にへらを投げ込もうとしたその時。

「――ねぇ君、ちぃちゃんだよね。そうだよね」

 今まで人が居ないと思っていた自分のすぐ真横で、知らない――だけれど何処かで聞いたことのあるような、女の子より少し低い声がした。
 振り上げた手を下げて――何となくスカートの裾を直してちぃちゃんは簀の子にストンと座り、それからうつむき二秒を数えてみる。
 以外と自分のすぐ近く、ほんの三十センチくらい右脇にある少年っぽい華奢な脚は一歩も動かない。だからちぃちゃんは仕方なく顔を上げる。
 そこには知らない――というかこの娯楽の少ない狭い島に居たら誰もが絶対にそこから目を離せなくなる程の、だから必然的に本土から来たのだろうと分かる――美しい顔立ちの男の子が立っていた。

「そうだ、絶対ちぃちゃんだ! ――僕の、僕の可愛いちぃちゃんだ……こんな大きくなったんだね」

 そう言って垂れ目の黒目をゆるりと細めた男の子。年は十四か十五くらいで、本土の高校で見かけるクラスメートよりやや華奢。真っ白い素肌に濡れてぺったりと張り付く前を開けた半袖の綿パーカー。それはよく見たら白衣っぽいデザインで、陰影の薄い腰の下まで来る。そして腰から下に身につけているのは膝丈の黒い半パン。素材からして海パンのようだ。髪は長く、首を覆って鎖骨の上くらい。その髪と白衣らしき物の裾からは、ボタボタと遠慮なく水滴が垂れ、足下の汚いコンクリートをどんどん黒く染めて行く。
 今にも海からあがったような様子なのに、彼が立つ場所の前にも後ろにも水分を含んだ兆しがなく、正面の防波堤も乾いている。脚は素足でやはり血の気が無い足の甲にきれいな筋が浮かんでいる。

 おかしい。何もかもが。

 このよく分からない綺麗な男の子が持ってる何もかもが。ちぃちゃんには現実に思えない。
 ぶしつけに睨んだ目を水滴の夕日にきらきらと輝く生乾きの黒髪なのに、短くしていないと癖の付いてしまうちぃちゃんと全く違い、重たくない猫っけ。ふと、白衣の裾からちらりと見えたわずかに腹筋のついた脇腹の色の白さに、ちぃちゃんは嫌悪で顔をしかめた。
 顔が美しい人間は身体も美しいのか、と。

 十六歳――つまり年頃のちぃちゃんは、偶に電話を掛けて来るだけの母親との会話での、酷いストレスで十四くらいからアトピーとニキビに悩まされていた。
 一生懸命スキンケアに努めた結果、顔は何とかなったものの、首から下は思春期の女の子だというのに、まるで鮫のようにガサガサだったからだ。
 普通の人にとってニキビが青春のシンボルだというのなら、ちぃちゃんにとって、美しい肌とは何の悩みも無いか悩みを覆い隠せる程の経済力の証のように思えていた。だからちぃちゃんは綺麗な、特に男なんて嫌いだったのだ。
 だから、ちょっと軽蔑を込めて目を伏せただけで、気の弱い振りをしている女子に、あたしを馬鹿にしているとかなんとか泣かれる大きな瞳を半分に眇めて、頭一つ上の方にあるその端正なお顔をギロリと遠慮なく睨んでやった。

「あぁ良かった、その不機嫌そうな目と綺麗な黒髪も、全部、写真の通り。……やっぱりちぃちゃんだ、僕の」

 だというのに目の前の男の子は、やや身を屈めてその高い鼻梁がちぃちゃんのソレと触れ合いそうな所まで顔を近づけてまじまじとちぃちゃんを見る。

「……僕の、って」
「ふふっ、ちぃちゃんは声まで可愛い」

 僕のって何、と、続けて口を開こうとしたちぃちゃんだが、少年が嬉しそうに破顔して、許可もしていないのにどっかりと簀の子に腰を下ろしたので、口を噤みざるをえなかった。
 途端、ぴちゃぴちゃとまるで雨でも降ったような音がして、男の子の骨の浮いた膝頭が、ちぃちゃんのむき出しのソレとぴったりとふれあった。今海から上がったような男の子は氷のように冷たくて、その肌に体温を全て持って行かれそうで、ちぃちゃんはぶるりと身震いをした。
 抗議するつもりで視線を上げれば、男の子は益々嬉しそうに顔をほころばせ、ついにちぃちゃんの片手を両手で握ってさえ来た。

「あのね、僕はウロボス。博士の――ちぃちゃんのお母さんとの約束を果たして、やっとちぃちゃんの所に帰って来た。やっと、ようやく、ついにね」

 花が綻ぶような微笑に釣られて、一回り大きくて骨っぽい両の手のひらに片手を包まれたまま、三白眼を見開いて――ついでに赤い唇を何か言いたげに開けてぽかんとしているちぃちゃんを見てウンウンと何度も感極まったように頷く、自称ウロボス。
 気づいた時にはちぃちゃんの手を自分の額に当ててうっすらと目を細めて、お腹の底から溢れるような――感嘆としか取れないようなため息を吐いた。

「やっと、きた、君の所に――」

 長い睫が影を作る頬はうっすら紅潮して、上目にちらりとちぃちゃんを伺う自称ウロボス。その美貌のせいか、薄く形の良い唇から切れ切れに吐き出される息の鋭さのせいか、それは切実な儀式のようで、ちぃちゃんはどうにも口を挟めず、ただ、自分の手を彼に預けていた。
 まるで寒い雪の中でやっと見つけた人の温もりを愛しむような、巡礼者が旅路の末にやっと神を見つけたかのような、そんな大層な物が自分に向けられているのは凄く居心地が悪い。だから視線は道路の上に逃がし、だけれどその手をもぎ離す気にもなれなかった。

「あのねちぃちゃん、博士の代わりに僕を、君の側に置いて下さい」

 だから、急に聞こえたその突拍子もない言葉に顔を上げた時、黒曜石のように美しい、切れ長の癖に目尻のやや垂れたその目と、ちぃちゃんはまともに目を合わせてしまった。
 今なら分かる、まるでメデューサのような引力を持っているその目の、真摯でありながら有無を言わせぬ光を真正面から。
 何故に何処か目眩のするような懐かしさを持つその瞳がそこまで剣呑に美しく光るのかなんて考えもせずに。

「あ……の……っ」

 どれだけ見つめ合ったのか。それでも何とか言葉を紡ごうとして、まるで石のように重い口をちいちゃんがなんとか開いたその時。
 どぉんという、鈍くお腹を打ち抜くような低音と共に、ちぃちゃんの視界の端、夕日を半分ほど呑み込んでいた水平線からどぼどぼと水が水面に吹き上げた。

「……っ?」

 ちぃちゃんが海に目を向けるまでの少しの間にそれはどぉん、どぉんと祝砲でも上げるかのように地面を伝ってぴりぴりと響きわたり、次いでドボドボ、ドボドボと、まるで大きな蛇が沖からこちらに泳いで来るかのように横に続き、やがて、ちぃちゃんの右手側にある、ちょうど家の前の道路のカーブの終点に立つ家の屋根に隠れるようにしてその端が見えなくなった時。どこん、と、鈍い音が一つして、今度はガラガラと何かの崩れる音。ついで遠くから尾を引くような悲鳴や泣き声が聞こえ始めた。
 ちぃちゃんが、海から水柱を上げて横切ったそれが、島にある海底列車の駅までの線路の沿線上で起こったことに気づいたのは、誰かが「駅が爆破された」と叫んだ時だった。

「んっ……」

 次いで、くん、と片腕が引っ張られ、額の上にポタポタと水が落ちてきた。
 今の爆風でここまで吹き上げられた水が飛んだのだろうか。そんな冷静なことを考えて拭う端から、水はボタボタ、ボタボタとちぃちゃんの頬に絶えず落ちて。

「だって……博士は、もう、ここには来れないから」

 それが、爆発の先までの会話の続きであることと、自分の頬に落ちるそれが、立ち上がりちぃちゃんの正面にたって、自分の左胸にちいちゃんの手を当てたまま泣き笑いでほほえむウロボスの涙であったことに。
 その背後にある、静かさを取り戻し始めた海でただ一カ所、今度は黒煙を吐き出し始め、海を夕日では無い赤にじわじわと染め始めている、爆発の始点であるそこが、海底にある海洋研究所であったことに。

 ちぃちゃんはウロボスに抱き寄せられ、耳元から首筋に何度も何度も口づけられながらやっと気づいた。
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