> わたくしとロメオ様の為に > 12
12
「月が、綺麗ですね……」

 空の真上に、思わすそう呟く程に美しい月の掛かる夜でした。

 ですが不思議なことに、私は屋敷を抜け出すまでの間も、一面が星に覆われた田畑の間の泥んだ道を走り、彼の元に向かう間も、一度も人どころか、狐狸や猫といった動物とさえ擦れ違わず――普段は眠れない程に五月蠅く合唱する、虫や蛙の鳴き声を聞くこともありませんでした。

 思えば、愛しいロメオ様と夢の中で、呪文と共に接吻を交わし、身体を交わらせたあの瞬間から今の今まで。
 彼の亡骸に、私が彼の魂に夢で促されたままそれを掛けたように、私もまた、ロメオ様に妖術や魔術といった物を、掛けられていたのやもしれません。

 ――そも、こうして今、このような幸福な身となれば尚のこと、私はこうも思うのです。

 余りに強すぎる思慕や恋情。
 そういったものは、例えそこに私達が唱えたような厳かな呪文がなくも、私達が行ったような儀式的且つ厳かな身体の交わりがなくとも。

 視線一つ、言葉一つ――ともすれば意味ありげに交わしあった目線の一つがもう互いにとっての違えることが出来ない契約であり、何よりも強固な呪まじないであり呪のろいなのでは、と。

 とかく、恋情という呪いと、それによって課せられた死者蘇生の使命に囚われて、俗に人の言う正気というものを見失っていたと後に言われるこの時の私が確かに行ったと断言出来ることと言えば。

 二日二晩を寝込んで過ごした挙げ句に、真夜中に目覚め、親と使用人の目を盗んで屋敷を抜け出し、泥と水に泥んだ道を、誰にも会うことなく振り向くこともなく一心に、途中で脱げた雪駄の行方さえ気にせず。

 私の秘密の恋人が――下宿先を抜けだそうとして失敗し、置き忘れた鎌に首を切り落とされた屍が安置されている百姓小屋に向かい、己の鼓動と吐息だけの響くのと月明かりとを頼りに、一心に、とかく一心に、走ったということだけなのでした。

 霊は一晩で千里を走ると申しますが、唯人であり、しかも足かけ二日ほど、重湯のように薄い粥や汁を促されて舐める以外に殆ど飲まず食わずで泣き暮らし、すっかり萎えた私の足は、屋敷を抜け出して一町を行くか行かないかの辺りで既にふらつき始め、屋敷から一里程離れたそのみすぼらしい小屋へと到着する頃には、殆ど地面を這いずるようにして、泥まみれになっておりました。

 嗚呼、それでも、でもそれでも!
 私は辿り着くことが出来たのです! 

 私の大切な恋人の眠る場所に、私に逢う為だけに命を落とした、誰よりも愛しいロメオ様が――水木様が、荼毘に伏され、郷里に連れ帰られて離ればなれになる前に、どうにかこうにか間に合ったのです。

 彼にとっては不幸であり、ともすれば彼の唯一の伴侶である私からしても大変に屈辱的なことですが――その時の私達には幸いなことに、小屋には本来通夜や葬儀に必要で有るはずの寝ずの番の人間も、どころか見張りも、誰もおりませんでした。

 更には鍵など掛けるだけ無駄であると、私の目にさえ分かる掘っ立て小屋です。ですので、私は周囲に気を遣うこともなく、まるで普段の逢い引きのように、気張りなく、そうするのが極自然であるかのように、するりと潜り込みました。

「う……うっぐ……」

 瓦さえ乗っていない、板を貼り合わせて打ち付けただけの、二間の広さが有るか無いかのみすぼらしい小屋は、いつも静かで清潔な雰囲気を漂わせる彼には見合わぬ程にみすぼらしく、埃の臭いと――噎せ返る程に濃い血と、膿が腐れたような腐臭が漂っており、私は入り口の引き戸に縋ったまま蹲りました。

 激しく咳き込みながら、目に沁みる臭いに慣れるまで暫しそうやって目を閉じて顔を背けつづけた私ですが、どうにか戸の内側へと這い進み、手探りで戸を閉じて、意を決して目を開けた私の驚きを、嗚呼、なんと表現したら良いのでしょうか……!

 小屋の真ん中には古ぼけた茣蓙が敷かれ、その上には、勿論私の愛しい人が寝かされておりました。

 白い木綿の死に装束を着せられ、作法通りに胸に護りの刀を置かれ――その首から上は、何かで斑に染まった汚らしいズタ袋に隠されて、秀麗なそのお顔を望むことが出来ませんでしたが、それでも私には分かるのです。

 えぇ、筵さえ掛けて戴けない、まるで牛馬の死体の如きその扱いに、まるで我が身を蔑ろに扱われたかのように、屈辱に目頭が熱くなったことは否定致しません。

 けれども、私の双眸を濡らす物はその時、既に、強い腐臭に鼻と喉を焼かれたことによる目の痛みでも、屈辱に流れる涙にでもなく、確かに感涙に濡れておりました。

 ――みすぼらしく、雨風を凌ぐだけの場所である小屋には、四方八方に塞がらぬ隙間が開いており、そうして、壁とも天井とも付かず、あちこちに空いた孔から覗く青白い光は――まるで女学校の礼拝堂にあるステンドグラスのように神々しく。

 そうして礼拝堂のソレが全て中心に添えられた主の像を照らし出す為にあるのと同じように――私の大切なロメオ様の血痕が散っても尚、作り物のように青白く美しい身体のあちこちに、まるで彼の蘇生を言祝ぐかのように華々しく、彼の亡骸を飾り付けているのです。

(あぁ……やはり命を、熱を失っても、あなたは誰よりも美しい……)

 私は光に吸い寄せられる蛾のように小屋の中へと歩み寄り、青白い月光に血の色を失った肌を輝かせる彼の白い装束の袷へと手を這わせ、守り刀を手で払いのけるようにして裸の胸を、鎖骨を、ズタ袋に隠された頸と喉との境を、頬を撫で、跨るようにして覆い被さりました。
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