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朱を交わらせ君が為
> わたくしとロメオ様のそれから > 15
15
それから――それから今までのことは、殆どが、後に再会した彼に聞いたことと、己の断片的な記憶を合わせた物ですので、顛末として語れることは殆どありません。
そう、あれから後、この十五年程の事を、私は殆ど自分のこととして覚えていないのです。
ただ、他人事として聞いた私のそれからのお話を、すこうしだけさせて戴きましょう。
翌朝、彼の死体を荼毘に伏す為に、小屋へ訪れた僧侶や人夫の皆様は、さぞ驚いたことでしょう。
――実際に、驚いたのだと思います。
なんせ、死体の上に髪を振り乱し、口といわず髪と言わず、裸体の隅々までもをこびり付いた血と体液に濡らした――襤褸雑巾のようであったとは、後にお父様が語った言だと常磐様はおっしゃりました――娘が、覆い被さって、幸福そうで満足そうな、安らかな顔で寝ているのですから。
――こうして、今まで隠し続けた私達の関係は公のものとなって晒され、私は晴れて、常磐様のものとなった訳なのでありました。
皆様、私が死んでいたと思ったそうですが、実際の所、私はこの通り五体満足で生きていた訳でして――とかく、両親へと引き渡され、私はそれから数ヶ月ほど、家から一歩も出ず、療養という形で過ごしました。
私は、その間のことは知りませんが、どうやら、『死体に誑かされた可愛そうなお嬢様』として、新聞や下世話な雑誌を賑わせたようだと、後に一緒に暮らすこととなった彼が、苦笑しながら古本屋で仕入れたというそれらの雑誌を見せて下さった雑誌で知りました。
常磐様のことを父や母に叱責されたかと言えば――全くそのようなことはありませんでした。
どころか、自室に籠もる私を訪ねてくれることさえ無く――だけれど私を叩き出すでも無視するでもなく、ただねえやに一日二食の膳だけは運ばせ続け、身の回りの世話をさせていたようでありました。
尤も、私はどちらが朝の、どちらが夕の膳であったのか、そも、運んで下さったねえやが何時から別のねえやに代わっていたのか。一体何人と代わったのか、それさえもよく覚えて居ないのです。
だけれどそうして、父に、母に、ぞんざいに扱われる度に、自分がイヨイヨ血の柵を捨て去って、ロメオ様ただお一人の物となって行くのを感じ、この上無い恍惚に酔うのでありました。
ですので、明くる朝、胃に入れた物を全てその場に吐き戻してしまった時も、私が真っ先に感じた物は、苦しさよりも真っ先に、例えようのない恍惚だったように思います。
まだ胎動も始まりません。
犬の帯さえ必要の無い、命と言えるかも疑問のその魂を、私は確かに感じ、そうして感じたからこそ、心から酔いしれたのです。
――嗚呼、私は彼に相応しいように、臓腑の内から隅々まで、少しずつ、身も心も作り変えられているのです。
幸運にも、余り腹の膨らまぬ体質であった私は、両親が私に会いに来ないこと、私の世話をするねえやが、遠くから事情も知らずに雇われた女であることから、マンマと長いこと、常磐様を己の胎でスクスクと育み続けることに成功しました。
そうして明くる日、私に縁談があることを伝えに久々に顔を合わせた、憔悴したお父様は、まぁるく膨らんだ私の腹を見た途端、ついに倒れてしまいまして――薄情なことに、その後すぐにお嫁に出された私には、父がその後どうなってしまったのか、杳として知れず、知りたいとも思わないのです。
「ねぇ、結婚ですってよ、常磐様……どんな、方なのでしょうね? 私達との間に入り込みたいだなんて」
私にとっては、時折、私の腹を蹴り上げて、たまに私の臓腑を圧迫して悪戯して、真に私の物であるのに私の物でない、常磐様が全てでしたから。
そうして結婚した私は、何故か常磐様の書生先でありました佐々木様の采配によって、彼と同じ、書生だという男性と、料亭にて身内だけを集め、密やかな祝言を挙げ――そうして我が子から引き離され、高原の別荘地に用意された小さな家にて一人、静養することになりました。
少しの間だけは、夫となる人と過ごしたような気もするのですが、夫は寝室でも絶えず己の腹を撫でる私に、怒り、怒鳴りつけ。
殴ろうとすれば拳を納め、最後には涙を流して震えながら「俺が悪かった」だの「軽く押しただけ」だの「ただ、君を手に入れようとしている奴が妬ましかっただけなんだ、まさか死ぬとは思わなかった」などと、よく分からないことを言っておりましたが……。
夫となったその人が喋る度、何かを訴えるかのように――または苦悶するかのように――段々と激しくなった彼の胎動を宥めること夢中になって、碌に聞いてもおりませんでした。
程なくして常磐様は無事に私の腹からお生まれになり、だけれど生まれると直ぐに、私からは引き離され、どこか遠くへ里子にやられてしまいました。
ですので、私が生まれたばかりの、再び、私の物であって私の物でなくなった常磐様にしてさしあげられたことと言えば、初乳を含ませたことと、「
朱鷹
《
しゅたか
》
」という幼名を差し上げることだけでした。
それが済み、彼とまるきり同じの切れ長の目が抱き上げる父の
腕
《
かいな
》
から、私の姿を目で追い続けても、「すみません、さくらさん」と母が泣き崩れても――私は「そうですか」と言っただけで、涙を流すこともせず、ただその言葉を受け入れました。
――何故なら、私には分かっていたからです。今度は死に別れた訳では無いということが、まるで手に取るかのように、よく、よぅく分かっていたのです。
そうして今度は、彼の番であるということも、私にはようく分かっておりました。
今は離ればなれに朱鷹は――いつかまた、私に逢いに来るのだと。
そうして――産後の肥立ちが悪く、暫く静養するということで、父か夫か、はたまた母の実家が手を回したのかは分かりませんが――この別荘で、通いの女中一人と下男一人と共に、ずっと暮らしているのです。
嗚呼そうして、彼の置いていった思い出を――生まれて再び別れるまでに着ていた肌着や、帯の隙間に忍ばせた恋文、縫い上げたおむつなど――を抱き、涙に明け暮れ何度一人で寝起きしたことでしょうか。
ある日の真夜中、私は、コツコツと誰かが窓を打つ音で目を醒まし、娘の時分にそうしたように、大きく胸を高鳴らせながら、導かれるようにそっと、そっと窓を開けました。
――初めての、あの夜のように。
「今晩は、良い夜だね」
「えぇ、本当に月も綺麗で……」
だけれど今度はあの時とは違い、私は、鎧戸もカーテンも全てを開け放ち、そうして窓の向こうに佇むその人に、大きく腕を広げました。
「――やあ、大分待たせてしまったね、ジュリエッタ」
「いいえ、いいえ! そんなことはありませんよ……! ロメオ様、常磐――朱鷹!」
そこに居たのは、記憶よりも遙かに若い、だけれど幾度か見掛けた学生服と帽子とに身を包み、闇に紛れるように黒い外套を羽織った、紛れもなく私の秘密の恋人の、常磐様でございました。
艶々とした頬に、切れ長の黒目――なのに、ほんの少し下がった目尻と、厚めの唇は私に少しだけ似てしまった、愛しい私の秘密の恋人が、少年の姿で。
――えぇ、それからの私達は、片時も離れえぬまま、ずっとずぅっと、仲むつまじく過ごし続けたのでした。
――毎日を慈しみ合い、愛し合い、睦み合いながら。
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