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朱を交わらせ君が為
> わたくしとロメオ様のこれまで > 2
2
――賢明な皆様は勿論お分かりであると思いますが、ロメオ様と私は、関係の元々から、こうして夜半に違いの家を行き来するような、盛り場の酌婦と遊びの過ぎる学生のような、崩れた出会いをした訳ではありません。
元々は、健全且つ小さな出会いと、他愛ない手紙のやり取りから始まったのです。
新年度が始まりました昨年の秋から、家と父の職場とにほど近い、外国からの宣教師が建てた私塾から成った女学へと通い始めた私は、通学途中にある商店街の、古道具家と前で足を止めることを日課にしておりました。
何故ならば、その古道具屋こそが、私の通う女学校や、お父様のお勤めしている大学、その隣にある予科がある小高い丘の周囲にぐるりと広がる、学生や研究者、またはそのような方々を訪ねる高貴な方々の為に整備された所謂『市街地』という場所と、その緩やかな傾斜を下りきった麓にある、農地ばかりで閑散とした『それ以外』とを隔てる丁度境界にあるからなのです。
ここらの『市街地』というものは、街中とは比べるべくもありませんが、それでも周囲ぐるりが未だに水飲み百姓など囲うような農地と山脈とであることを考えれば、中々に立派な街で御座います。
それらは、馬車や人力車くるまといった乗り物の便を考えた道幅の広い表通りと、昔からそこに並ぶ小間物や食べ物、そして紙や筆を扱うお店と、そこから一本入った、これまた広く、江戸の面影を残した土の道には古い塀やお堀で囲まれた、幕臣時代からある立派な平屋のお屋敷と、御一新の際に造られた堅牢なお屋敷とが並び、ガス灯の明かりも届かないような、屋敷街で構成されております。
明と暗。
日本建築と西洋建築。
全く違う二つで構成されていましたが、その二つに共通するということは――そこに居や店を構えられる人間であるということは――貧農の子女とは比べものにならぬ財力なり、身分なり、学力なりを持つという証明になるのです。
そうして、我が子を花嫁修業より先に、外国から来た宣教師の作った私塾から成ったハイカラな、歴史も浅い女学校に娘を入れようなどと考える親というのは、嫁入り前に箔を付ける必要のあるお家か、卒業後の年季奉公による学費の免除をアテにしたお家かになる、という訳なのです。
そうして、前者の娘は、この石畳の街の何処かに岐路に付き、後者に当たるお家の子は、そも女学の寮に泊まり込むことと相成ります。
つまり、この、『市街地』と『それ以外』を隔てる古道具屋の前を超えるということは、私の家が市街地に無く、尚かつわざわざ人力車くるまなど必要無い程の近所であるということを証明し――はて、では屋敷の子女や寮生以外で、女学生などになれる身分は――と、考えれば、私が帰る家は自ずと分かるというものです。
――そう、私の家は、誰が見ても明らかな程に目立ち、そして『市街地』ならばいざ知らず、『それ以外』に立つには余りにも場違いで。
私は、それが溜まらなく恥ずかしくて、毎日毎日、この古道具屋の前から暫し動けなくなる、という寸法なのです。
坂を下がりきったこの場所からもよぉく見える、未だ農家が多く、閑散とした田園の中に、森を背にして大きく聳える、周囲の農地や質素な平屋から頭二つほども飛び出た、灰色の雛の群れの中で一際白く背高のっぽの育ち過ぎた雛のように間の抜けた。
平民が住むには華美過ぎて、ご令嬢が住むには質素すぎる、しかしながら西洋建築の随を懲らしたその小さなのっぽのお屋敷こそが、私の帰るべきお家なのです。
元々は宣教師が住む小屋がぽつりと有るだけでした。だけれども、所以あって、お父様の勤める大学の所蔵となっていたソレを、お父様が大学にお勤めになる際に譲って戴き、私が幼い時に引っ越して来たのです。
そうして、お父様が教鞭を執る建築という分野を生かして図面を引き、人夫を呼び、授業の一環として学生を関わらせ――おかげでお父様の家であることは、大学の皆様に広く知れ渡ってしまっています――近頃やっと完成し、新しく建てたのがピカピカとお日様を反射しそうな程に白い石と漆喰で出来た堅牢な、西洋式のお屋敷なのです。
申し訳なさそうに地面に張り付く平屋の横で、森の木よりも高く、三角のお屋根を抱いて清潔そうに白く輝く石と漆喰の壁に、仏蘭西から取り寄せた、花のような色ガラスが填った両開きの格子窓。
石作りのお屋敷は、真ん中に塔を抱いた二階建てで、まるで海辺の灯台のように、遠くからでもよく目立ちます。
小高い丘の上にある、女学校の窓からでさえ。その横の川を挟んで御座います、お父様の勤める大学から、その隣の予科から、もきっとよく見えることでしょう。
……現に、私と同じ教室で授業を受ける皆様は――特に孤児や農村のお嬢様を中心とした、特待生として寄宿舎に寝起きする皆様は――うっとりとした顔で私のお家を見下ろします。
曰く、「どんな人が住んでいるのかしら」「大学の先生様ですって」「美しい奥様がいらっしゃるとか」「きっと、素敵な書生様も寝起きしていらっしゃるわ」などと。
そうして最後には、やれ婚約者から聞いただの、小耳に挟んだだのと、理由は毎回違うながら、まるで鬼の首を取ったかのように誰かがこう言う訳なのです「いいえ、アレはさくら様のお家なのですってよ」と。
そうして、最後に私に向かうのは、無言と羨望の眼差しで、それは家政科の授業で縫う浴衣や雑巾の縫い目のように、きっちりと決まっているのです。
放課の時間など、ヒソヒソとそういった噂が交わされるのを聞く度に、私は本に顔を埋め、赤くなる頬を誤魔化します。
なぜかといえば、皆様が憧れる、お城のような家に住んでいるという――その事実が、私にはとても恥ずかしくて溜まらないのです。
例えば、私の女学校というのは、それこそ女性の宣教師の方が自分のお子の為に開いた私塾と、それと併設した孤児院が元になったのだといいます。
女学校として認可を頂いたのはほんの最近のことですが、木造平屋で急遽新築された学生寮以外、校舎も、孤児院も、皆、それこそ我が家の牧師館と同等か、それ以上に古く、趣のある建物です。
オンボロで陰気で、幽霊でも出そうだと評する方もおりますが、私にはピカピカしくなく落ち着いて上品に見えましたし――なにより、西洋人が監修したというだけあって、パアツや装飾の一つ一つが「必要あって」そこに置かれているようで実に気持ちがいいのです。
お父様の言葉ではありませんが、必要性など考えず、見栄えだけを考えて見よう見まねで日本人によって取り付けられたエムブレムや突起で飾られた建物には出せない味というものがあるのです。
そういった点では、きちんと研究と研鑽を重ね、更には日本の建材や建築方式をも調べ、若い頃にはただ洋行に行くだけでなく宮大工にさえ指導を仰いだというお父様の腕は確かに素晴らしいものです。
……ですが、どんなに素晴らしい建築家の先生でございましても、「時」だけは再現が出来ないのです。
そういう点に置いて――我が家などというのは、周囲の風景との調和も取れていない上に、未だ新築の輝きを失わず、学校の建物と比べて余りにお粗末です。
嗚呼、そう思えば、私の足が古道具屋に必ず縫い付けられていることにも我ながら得心がいくというものです。
何故ならばあのショーウインドウの向こうには、私が欲しくて溜まらない趣や落ち着きというものが、それこそ満杯に詰まっているのですから。
私のお父様の家というのは、その点に於いて、この店先に置かれた在り来たりな柄の火鉢や、漆の禿げた煙草盆や、褪せた天鵞絨の貼られた椅子なんかなどにさえ、到底及ばない重みしかないのです。
だというのに、それを西洋式だと、宮殿のようだと称されることに、「本当の宮殿はこんなものではないのに……」と、分別や分というものを上辺だけとは言え知った私は、何ともいえない羞恥を感じるようになった訳なのです。
更には私の場合、同じ道を歩む中にはお父様の教え子や、お父様の授業に憧れて、予科で勉学に励む方々もいるのです。
いつでしたか、擦れ違った学生服の方々が「今日は半ドンだから遊びに行こう」といったお話をしながら、この古道具屋に寄らずに畑の方へと歩き出そうとする私を見つけて、追い越し際にこうヒソヒソとお話を致しました。
「見たかい? アレはきっと本郷博士のお嬢様だよ」
「ほう、アレが『白亜の城の姫君』かい」
その呼び方を聞いた時、私は何ともいえない侮蔑を受けたかのように思い、暫くその場から動けなくなりました。
恥ずかしいと思っている住処へ帰ることを揶揄されて、しかも華族どころか財閥や資産家でも無いのに、ただ、父の教え子であるだけの見ず知らずの殿方に、いきなり『姫君』などと揶揄されたのです。
そんなにお高く止まってみえたのかと反省すると共に、何とも恥ずかしく悔しくて、私はその日、遅くまで眠ることが出来ませんでした。
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