TOP
|
前へ
|
次へ
|
管理
朱を交わらせ君が為
> わたくしとロメオ様のこれまで > 3
3
用語解説。
帝国大学=ある時期までは、国立大全般この呼び方です。
予科=大学予科=現在の高校に当たる施設です。公立の、第一とか第二とかナンバリングが付いてる高校は、元を辿ると大体これです。
女学校=大学付属とか、女性宣教師や個人が、女子教育に着目して開いた私塾や孤児院が発祥てところが多いようです(但し宗派によって富裕層向けだったり庶民向けだったり)。
卒業後無償で宣教師を務めると学費免除の学校もあったようです。
舞台の時代は特に設定してませんが、予科が16〜18歳入学、女学校が三年教育16卒業くらいの感覚で書いてます。
でも、一期生が飛び級で予科に入れた鴎外先生の『ヰタせクスアリス』よりは後で間違いないです。
その日以来、私は放課後といえば大学の方にある国立図書館で少し寄り道をし、古道具屋の店先の、ショウウインドウに飾られた小間物やお人形に見とれる振りなどしながら、他の学生や書生の皆様の目を避け自宅へと帰るようになりました。
――だけれど、その時分の私は知りませんでした。
放課後、いつもそうして古道具を見ている私が、予科の殿方にすっかりその習慣を覚えられ――だからこそロメオ様も、嫁入り前の娘である私に声を掛け、手紙を渡そうなどと思い立ったということに。
※
「ねぇ君、これを、受け取ってはくれぬだろうか」
或る日通り雨に遭い、仕方なく古道具屋の軒下へと納まった私をそういって呼び止めた彼に、振り向こうと思いましたのは、彼が今まで擦れ違った学生と違い、ご学友も供もお連れでいなかったからでした。
「ああ、お願いだからそう怯えないで。受け取ってくれたのならば、僕はすぐに退散するから」
俯き加減で――それでも、ぴくりと震えた私の様子は目に入ったようです――そう言った彼は最初から軒先に居た私と違い、黒い髪から腕に抱えた学帽と、学生服の肩から全てずぶ濡れで、いかにも寒そうなのに色白の頬と耳とが薄桃色に色づいていました。
だといいますのに、そんな彼が恭しく差し出して下さっていたのは一枚の手ぬぐいで、それは皺も無く、全く濡れても居ないような様子でした。
(……もしかして、風邪で気分がお悪いのかしらん?)
彼の頬が殿方にしては余りにも赤く染まっていますものだから、私は最初、そう思いました。
でも、だとしたら、濡れているその方が何故、彼と比べて草履以外に殆ども濡れてもいない私にソレを差し出しているのか、私には皆目と見当が付きません。
それが顔に表れていたのでしょうか、彼はぎっと歯を食いしばるように顔を歪めると、抱えていた学帽を目深に被り直して目元を隠し、「とにかくそういう訳だから……」と言い置いて、雨の中、坂を上ように走り出しました。
私はというと、軒下におさまったまま、段々と小さくなって行くその背中を、家から傘を持ったねえやが迎えに来るまでの間、ずっとずっと、ぼうっと眺めておりました。
ですので、彼から頂いたご厚意を、持て余してとかく懐に抱いたまま、結局の所濡れることもなく家に帰り付きました。
私は、彼から頂いた手ぬぐいを使うこともなく握りしめたままで――ですから、その中に手紙が入っていることに、着替えて夕食を食べ終わり、改めて持ち上げてみるまで気付かなかったのです。
「白亜のお屋敷の、寂しそうな姫君へ――?」
そういった書き出しで始まった手紙は、女性のように柔らかな字で認められており、品の良いお香の香りが染みついておりました。
その手紙曰く、「いつも、図書館で見掛ける楽しそうに本を読む、古道具屋の下でしょんもりと悲しそうに佇むあなたとお話をしてみたく、手紙を書きました」「図書館で、私はあなたの向かいの席にいつも腰掛けております」「どうか、気の向いた時で結構です。そのお顔を上げて、一目でいいので私にお顔を見せて下さい」とのことでした。
「……これが、噂に聞く、恋文という物なのかしら?」
お話をしてみたい――そう言った書き出しでしたのに、女学校のお友達が偶に貰うという、話しかけていいかとか、何処かでお会いしては下さらないだろうか、などと言った情熱的且つ厚かましい言葉は一切並べられていない素直なその手紙に。
ですのに、購読している雑誌に、毎月何通も投稿される現代的な詩歌のように、綺麗な言葉が並べられた、私を気遣うようなその手紙に、私は嫌悪でなく好感を覚えたものでした。何より。
「白亜のお屋敷の、寂しそうな姫君……ですか……」
例えば、あの時坂で擦れ違った父の教え子でありそうな殿方が言ったのでしたら、嫌みったらしく眉を顰めたでしょうその言葉も。
読み終わった後思わず胸に抱えたこの手紙の、甘い香の匂いと流麗な筆致に乗せられると、なんとも素直に擽ったく感じるものなのでした。
※
それから、私は二日程悩んだ後、また図書館通いを再会し、ふと、本を読むのに疲れたような振りをして、顔を上げました。
その時、正しく同じ拍子に本から顔を上げた彼の、切れ長で猫のような瞳が私の瞳を捉えてふと弧を描き、また嬉しそうに読んでいた洋書に顔を埋めた時。
その耳がうっすら赤くなっているのを見掛けた時に、私の心は間違い無く、私のロメオ様の物となったのです。
うっかり置き忘れた振りをして図書館の長机の上へと置いていった手ぬぐいと、その中に入れた彼の手紙へのお返事を機に、私と彼の秘密の文通は始まり――それから程なくして、その書簡のやり取りは、秘密のお付き合いへと昇華致しました。
彼は文学青年で、私は彼が、お屋敷街のいずれかの家の書生であることと、予科に通い、大学への進学を目指しながらも文士を志していること。
そうして、予科に通うだけあって英語だけでなく他の外国語も堪能であること。
その理由はと言えば、珍しい洋書読みたさから、予科では必須の英語以外に、書生先の旦那様や先輩に学んだからだと――そこから私は、彼の書生先は恐らく個人で洋行や書籍の輸入などする伝手がお有りの方なのだろうと予想しました――いうことでございました。
いつだかのお手紙には、「仕送りと旦那様のお手伝いのお駄賃では、本を余り買えないから、図書館に通うようになったのだ」と記されておりました。
そうして、今時流行の文学青年が持つという、己は特別だからという鼻持ちならない自信というものが全く無く、女学校を卒業するまでに何時かお嫁に行くのだろう、といった漠然とした進路しか描けない私よりも、幾ばくか己の足下を見ておいででした。
「今はしがない書生の身であり、しかもただの予科生でしかありませんので。僕のようなしがない書生が、あなたに懸想することで、あなたの将来を潰したくはないのです。ですから、仮にこの手紙が見つかってもいいようにあだ名を付けましょう」
お付き合いを始めてすぐ、互いの見解を埋めようといって交わされたその手紙に書かれた一文が全てで。彼は以降の手紙にも、最初の手紙に一応は記した私の本名を書くということは致しませんでした。
――以来、手紙の上での私は、彼の好きな小説や西洋のお芝居の女主人公、果ては現在劇で掛かっている演目に合わせて、色々なあだ名を付けて戴き、それを互いに呼び合いました。
「勘吉とお宮……は不吉そうだ止めておこう。それではまずは、君を僕のエリスと呼ばせて欲しい。勿論、僕は君を手放して何処かへ行くつもりは無いが……」
最初はそう始まって、それから後は白雪の姫に、葛の葉、マドンナ、オフィーリア、お嬢さん、サロメ……そういった、国内外を問わず色々なお話の女主人公のお名前で、彼は手紙の中の私を呼び、私はその女主人公になりきって、そのお話の主人公になりきって、うっとりとなりながら。
時に頬笑み、時に有り余る恋情に涙さえ浮かべ、彼の仮のお名前を手紙に認めました。
彼は、手紙に新しい私の名を記す時、それと一緒に、そのお話が一体どういう筋で、いかに私が気に入りそうに面白いお話であるのかを、いつも一緒に書き記しました。
このページの先頭へ
|
TOP
|
前へ
|
次へ
|
管理