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朱を交わらせ君が為
> わたくしとロメオ様の夢 > 5
5
「――ねぇ君、いい加減、起きておくれよ。機嫌を直して、その目で僕を見ておくれ、僕の可愛いジュリエッタ」
耳元でそう、優しく囁かれると共に、ヒヤリとした、氷のように冷たい何かに頬を撫でられ包まれ、私は唐突に目を醒ましました。
寝ぼけ眼で右と左を見れば、そこは窓も扉も無く、ただ、初雪のように真っ白な部屋の中でした。
そうして、その白い部屋の中をぐるりと見回した、当の私はといえば、ぽつりとその場所に置かれた、触りのよい黒い天鵞絨が張られた長椅子の上で、これまた肌触り良く綺麗に磨かれた肘掛けに身を預けるようにして座っておりました。
だけれど私の頭ははというと、まるで夏の暑い日に日傘もささずに歩き続けた時や、深い眠りから唐突に目覚めた時のようにぼうっとして、今まで何処に居たのか、何故ここにいるのかが、どうにも思い出せないのです。
それでも、こうして長椅子に横になっているからといって、事の子細が思い出せないことを理解するくらいの分別は残っていました。
ですので私は貧血を起こした時のように殊更ゆっくりと、長椅子の上で半身を起こしたのでした。
すると、見下ろした私の身体は、寝間着として着ていた浴衣ではなく、密かに気に入りで身につける、赤の強い桜色――つまりは肉色の襦袢ただ一枚を、下帯どころか腰紐の一本も無く、ただ袖を通した状態で羽織っているだけなのでした。
「まぁ、嫌ですわ私ったら……泣き疲れて眠るだなんて」
泣きはらしたように重たい瞼から考えますに、私は恐らく、自宅では無い何処かで何か悲しく辛いことがあり――それが何なのかはこの時思い出せませんでしたが――着替えもそこそこに泣き疲れて眠ってしまったのでしょう。
纏っているこれが小袖の長襦袢であることから、きっと訪問着を着付けて出かけるような場所だったのでしょうが、幸いなことに、肝心要の小袖と帯を周囲に撒き散らすような醜態は晒さずに済んだようです。
「嗚呼、きっと、ねぇやも呆れて放っていってしまったのね」
誰にともなく呟いてみると、着てるとも言えない襦袢ただ一枚のこの身が、何とも一層心許なく、そして身もだえする程に恥ずかしくもなり。
私は、目を伏せたまま左右の手で襦袢の襟を引き寄せて、長椅子に身を預けたまま、己を抱えるようにして背筋を曲げ、丸く蹲りました。
ですが、その時――。
「なんだ、別にそのままでも僕は一向に構わなかったのに」
「ひっ!」
そんな、残念そうなお声と共に、また、氷のようにひやっとしたものが、今度は丸まったことにより露わになった、項から背中までを、上から下に丁寧に辿って行きました。
その、まるで今まで氷水にでも浸けていたかのような冷たさに身を震わせ、私が思わず顔を上げるのと。
項を離れたソレの――私の項を撫でていた掌の持ち主が、「ヤァごめん、ごめん。そんなに睨まないでおくれ」と、苦笑を漏らしながら、見慣れた学生服の肩を大げさに竦めてみせたのは、殆ど同時のことでありました。
「今晩は。今夜は随分と遅くなってすまなかったね。可愛いジュリエッタ」
「あぁ……ロメオ様……!」
その、見慣れたお顔をまじまじと眺めた瞬間、私は抱えた膝をも放り出し、弾かれたように長椅子から立ち上がり。
長身を僅かに屈めて私を覗き込む男性――私だけの愛しいロメオ様の胸だけを目指して、今が何時で、此処が何処であるということも、己の破廉恥な格好のことも、全て忘れて飛び込みました。
「おっと」
そんな私をふらつきもせず支えた、生っちょろいなどと称される書生らしく中性的で細くも、ただの娘である私よりよっぽど太くてしっかりとした胴と胸も。
彼の首に腕を回して縋り付くように抱きつく私の胴に蛇のように巻き付き抱えた、するりと長い学生服の下の腕も。
いつものように額を寄せた首筋も――同じように私の首筋に埋められた彼の鼻先、吐息、少し長めの前髪さえも。
何故だか、氷のように冷たくて、私の身体はたちまち、己の意志とは関係なく、まるで雪の日の朝に寝間着のまま外へ放り出されたかの如く、ガタガタと震え出しました。
「ロメオ様、ロメオさ……ひっ!」
驚きと戸惑いで顔を上げた私の両頬をぱっと包み込んだ、骨っぽく細く長い手指もまた、氷のように冷たく。
その冷たさに思わず強く跳ね上がった私の顔を、だけれど彼は両手で包み込んだまま、鼻先の触れそうな程の近くでまじまじと覗き込んだ後――今にも泣き出しそうに顔を歪めました。
まるで、痛ましい事故にあった恋人を見舞い、その痛みを自分の物とするかのように。
「あぁ、可愛そうなジュリエッタ……たった一晩会わないだけで、瞼は腫れて、頬はこんなにこけて窶れて。全く、なんて哀れなのだろう……」
「だって、だってっ……あなた様が、私を残して死んでしまったと――!」
そう叫んだ私は、はっと目を見開き――自分の口を両手で押さえて、ロメオ様から一歩離れました。
そんな私にロメオ様は咄嗟にお手を伸ばし――だけれど直ぐに身体の横へと下げ――なお一層辛そうなお顔をし、普段より淡い、殆ど肌の色の近い桃色になった唇を悔しげにぎゅっと噛みしめて俯きました。
まるで、初めて私にお手紙を下さった時のように、緊張と後悔と羞恥と歯がゆさが入り交じったかのような、悲壮なお顔で。
「あ――」
そのお顔の悲痛さに、軋むように痛む胸と、彼は、本当に私のロメオ様だと思われるのに、今こうして私の前に居るということはロメオ様では無いかも知れないという疑念と――そうして一握りの希望と、それを確かめることへの躊躇の重さに。
私の喉は言葉を紡げないまま、ただヒューヒューと笛のようになることしか出来ず、それに相対するロメオ様も、一歩を下がった私に手を伸ばそうとしてはまた落とすことを繰り返し、暫しの無言が続きました。
「……いかにも、僕はこの世で命を落とした身だ……」
「そうで……ございます、か」
しんしんと振る粉雪のように、ようよう重さを増して行く沈黙を破ったロメオ様のその掠れたお声とお顔は、まるで血を吐くように掠れて苦しそうで。
身体のよこで強く握られ、ブルブルと震える拳が、噛みしめられた唇が――その頭の先から爪先まで、彼の身体と呼べる場所全てと、心が。
彼の苦しみを如実に表現しているかのように感じられ、とうとう私は、何をいったらいいか分からないまま、ただそんなぼんやりとした相づちを打つことが精一杯でした。
――彼が死んだというのは嘘だったのだという、喜びが砕けた悲しみも。
――何の確かな約束も取り付けないまま、己の半身とも慕った絆を放り棄て。私一人だけをこの頼りない現世に置いていった恨み言も。
――いずれは伴侶にと誓い合ったのに、とうとうあなたの本名さえも知らないままであったという空しさも。
またもう一度会えたなら、言おうと思っていたことも、言わなくてはと思っていたことも。
全て、全て真っ白な空間に溶けるようにして消えて行くなか、唯一残った――思えば、ロメオ様との密会の中で、あらゆる感情を得た中で最後に残るのはいつもこの一つだけでした――我が身を焼くほどの愛おしさに身を任せ。
同じように愛しさで溶けて細められた切れ長の瞳に囚われ、そっと壊れ物のように触れられるまま、私は、氷のように冷たいその身に、呪わしい体温を持った己の身を預け。
強く強く、鋼のような腕に抱き寄せられながら、まるで互いの熱と冷たさを分け合うようにして、何度も何度も触れ合う接吻を。
顔の至る所に落とし続け――やがては温い舌と冷たい舌とを絡め合わせ、一体どちらの身体が冷たく、どちらの身体が温かいのか、分からなくなるまで交わし合いました。
「ん……くっ。はふっ……もっと、もっと舌を出して下さいまし。か、らまり合う所が、見られる程に」
「ジュリエ――っは、んんっ。ふはっ」
だけれど、どんなに頑張って舌を吸っても、前歯の先で甘く捺印のように噛みついても。
根本から舐め上げ、しゃぶりあげるような、普段はいくら請われても恥ずかしくて上手く出来ない献身的な口づけを、くちゃくちゃと恥ずかしい音をわざと立てながら交わしても。
彼の――私のロミオ様の身体は、いつものような、抱きしめられた私の身が焼き切れる程の熱を持つことはなく。
「ふっ……あぁっ。ロメオ様、もっと、もっと……」
その事実に、私は卑猥に接吻を強請り、続かぬ息に大きく喘ぎながら、ぽろりと、ただ一粒の涙を流したのでした。
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