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2011.04
友達の犬が、死んだ
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文字数16,818文字
友達の犬、が死んだらしい。

 それを知らせる電話を受けたのは、別の友達とファミレスに居た時だった。
 朝、犬がとても静かなので、友達が庭にある犬の小屋を見に行ったら、俯せのまま丸まって、もう冷たくなってたとか。

『私もさー、今まで学校休んでゴタゴタしててさぁ。んで、やっと家に帰って来て、そういえばアンタ、あいつと仲良かったなーなんて思い出して知らせなきゃと思ってさぁー』

 間延びした声でそう言うと、友達はゲラゲラと笑い出した。

「電話出来ないならさー、メールでも何でもくれれば良かったのに」

 携帯片手に頬を膨らませてみせたあたしに、この物好きめと電話の向こうで笑って友達は言葉を続けた。
 流石に保健所に預ける訳にはいかないから、火葬と埋葬だけは家でやるから。
 よかったら明日来てねとだけ伝え、友達は、あたしの返事を待たずに電話を切った。

「てかさぁ、友達なのに犬っておかしくね? それって超矛盾してね? クククっ」

 携帯をテーブルに投げ出して、座ってた二人掛けに体を預けたあたしに、向かいの友達がすかさず胸の前で空振りに手を振って突っ込みを入れる。

「てかさ、人の電話、わざわざ聞くなしさぁ。んで、スプーンで人指さすなっての。アンタ、けーさつ捕まるかんね?」
 肘掛けに両腕を掛けてふんぞり返ったまま、鼻の頭に皺を寄せるみたいに顔をしかめてそう言ってやると、友達はひっこめたスプーンを舐めながら、はぁっ? と、人を舐めきった声をあげた。

「何であんたに失礼働いたら捕まんのさ」
「んーよくわかんないけど……不敬罪?」
「はん、アンタ崇めるくらいなら、マッポ捕まってねんしょー入っしよ!」
「そん前にふつー留置所とか保護観察とかだべ。ばーか」

 まぁ、あたしもよく知らないけどね。
 やーいばーかばーか、お前のほーがばーか。そんなでっかいパフェ頼むやつにバカとか言われたくねっしー。
 なんて不毛な軽口を叩き合ってるうちに、溜まらなくなって、ゲラゲラ笑いだし、テーブルの下で互いに地団駄を踏んだところで、人の顔くらいあるでっかいパフェのガラスの横で携帯が鳴り出した。

「おっ、電話だ。もっしもーっし!」

 そこでぴたっと口を閉じると、ついさっきまでソファの上で暴れてゲラゲラ笑った友達は、背筋を伸ばして座りなおした。
 首と肩の間に二つ折りの携帯を挟んで、話しながらも会話の間、うんうんわかるわかると激しく頷く隙に、あたしを指したスプーンで半分まで減ったパフェを口に運ぶ。

「あー、りなぁ、ちょっと手帳だしてー」
「いーおー」

 渡された鞄から手帳とペンを出してやると、パフェを食べて頷くさらにその間に、スプーンをペンに持ち変えて、なんか色々とメモを取る。
 そうなってみると、あーなんか、今時のOLよりよっぽど女子高生の方が働いてるわーって感じのビジュアル。
 出た時に声がワントーンあがったのから思うに、電話はどうやら男かららしい。
 んでもって、さっきから、迎えに来てぇとか、一緒に居たいからぁとか寒いからぁとか巻き舌で言ってるのを見る感じ、相手は友達の友達から取ったとかいう、車か財布だろう。
 どっちだったかなーと考えたことで、さっき、この子が友達の友達の犬に言っていたことを思い出した。

「てかさー、やっぱ、友達が友達の犬っておかしくなくない? だって今あんたが電話してんのだって友達の車っしょ? んとあれ……車だったっけ?」
「こら、聞こえるでしょが! ごめんねー、友達が構えって煩いから切るしぃー」

 そう早口でまくし立てて電話を切った友達は、さっきのあたしよりきっつい皺を額に寄せて、生クリームの乗ったままのスプーンをあたしの鼻先で振った。
 べちょん、と、飛んだクリームが、もう冬の日も暮れて暗くなろうとしている窓ガラスに張り付いた。

「あーバカ、クリーム付いたーっ!」
「ごっめーん! マジごめんー! 顔弁償するぅ」
「おめーの顔なんかいらねーよ」

 暖房が付けた露で湿るガラスを手元にあった紙ナプキンで拭う。
 拭いたとこだけ露が流れて外の景色が少しだけ目に飛び込んでくる。
 駐車場に並んだ街灯と、二車線ある国道を挟んだ向こうにあるデカいショッピングセンターの明かりとが。
 そんな見慣れたものを見ながらふと、あたしはまた、友達の犬のことを思い出した。
 子どもの頃、こんな冬場に友達の家のダイニングの窓から犬の小屋を見る時に、気づけばいつもしていた仕草だからだ。
 友達の家の庭に入ると同時に寄る犬の小屋は、この時期何の暖房器具もなくて寒々しい。
 だけど、暖かな友達の家の中からその明かりを見ると、不思議とあったかそうに見えるのだった。
 あの明かりの下で、犬はやっぱりさっきのように、鼻を鳴らしながら丸まってるんだろうかなんてかんがえると、意味もなく胸の奥がほっこりした。
 たかが小屋の入り口の豆電球如きにナニ感じてるんだろって自分でも思ってたから誰にもいわなかったけどさ。
 んでも、今でも友達の家で一人待たされてる時なんかに、時々無意識でやっちゃってる時がある。

「あんたってさ、私に会いに来てるの、それともあの駄犬に会いに来てるの? そこ疑問、マジ疑問」

 なーんて、後ろから来た友達に頭を小突かれるのもよくあることだ。
 でも、あれっ、何でこんなどーでもいいこと思い出しちゃってんだろ。

「おーい、ナニぼーっとしてんの? クリームもう取れてるよー」

 あ、そうか。さっき犬が死んだって聞いたからだ。そっか、死んだってことは、あの明かりはもう見えないってことか。
 いや、だから何ってこともないんだよね。うん。犬の一匹や二匹ねぇ。

「いやさー、もう日がくれて来てるからびっくりしてさー」
「本当だー……んじゃなくてぇーさぁー」

 今考えていたことを説明するのが何かめんどーで、適当に思いついたことを言ってみた。友達ははぐらかされたと思ったらしく、いいノリ突っ込みとチョップをくれた。

「いいかいリナちゃんよ、私らが口を滑らせて、彼らが、自分が人間じゃないって気づいたらかわいそうだと思わんかね?」
「そーゆーもんかねぇ?」
「シッ、こらっ。リナ隊員、そう簡単に機密を漏らしてはいかん!」
「おうっと、危うく組織に抹殺されるところであった」

 ぐっと身を乗り出して眉を潜め、機密事項をしゃべるスパイみたいにひそひそとそう言った友達に合わせてあたしも顔を近づけて応えてみる。

「失礼しまぁす、こちら、冬季限定マッシュルームの煮込みハンバーグになります」
「あっ、はーい!」

 だけど友達がそのまま口を開こうとした時、あたしが注文した煮込みハンバーグがやって来たんで、あたしの興味はすぐに、ハンバーグに移り、さっさと身を起こしてスプーンと箸を握った。

「ちょっ、今の会話聞かれたし、超いてーよ私ら!」
「隊長! 心に大けがして任務続行不可能なんで、回復の為にハンバーグ食べていいっすかね?」
「よし、特別に許可しよう!」
「あざーっす!」

 なんて、スパイだか何だかわかんない会話で許可をもらい、デミグラスソースたっぷりの肉を箸でちぎってかぶりついた。
 とっくにデカ盛りのパフェを食べ終わってた友達が一口よこせというので、仕方なく一口分けてあげた。

「隊長! ふーふーしてお召し上がりください!」
「もー、たいちょー止めれぇー! さぶいー! はふぁ」

 箸でちぎって、あーんと開いた口に入れてやった肉片を熱さにはふはふと口を動かしながら飲み込む友達を見ながら、あたしは、犬が犬の癖に猫舌だったなぁってことを思い出していた。
 この季節に遊びに行く時、たまに気まぐれでコンビニのチキンとか肉まんとかみやげに買ってやると、犬は友達がネグレクトもどきみたいな事でもしてんのかって疑うくらい、勢い良くかぶりついて来た。
 そして必ず口の中を火傷して、見せろと言うあたしに、口を開けて舌を出して見せ、ちょっとだけ、困ったような、恨めしいような顔を作るのだ。
 この季節、あたしはいつも、あいつに秋冬の新商品をあったかいうちに食わせたい気持ちと、火傷させて困らせるのがやだなぁって気持ちの間で揺れて、つい遠回りをしたものだった。
 すると以外とちょうどいい温度に冷めて、素直に美味いって感謝されたりなんかしちゃって。
 そういえば、今年の商品でまだチェックしてないのがあったっけ。何か、あいつの嫌いな唐辛子とかたっぷり使ったハバネロチキンとかいうの。
 何かあいつ、辛いモン食べると鼻が効かなくなるし、庭の水道でガブガブ飲むしでけっこー面白いんにさ。
 あと、あいつの嫌いな甘いもの尽くしの、クマキチプリントの三食キャラメルまんと、三食チョコまんも。
 もっと寒くなってから食べたくて、嫌がる顔が見たくて、試さないまま、とっておいてしまった。

「あーそーだ、さっきの続きなんだけどさぁ」

 犬なんかと比べものにならない位さっさとはふはふを止めて肉を飲み込み、ご飯欲しい味だわーとか言いながら水を煽っていた友達が、店員を呼ぶブザーを押しながらまた喋り出した。

「たとえばの話だけどさぁ……って、聞いてる?」
「んんんんーっ! んーっ聞いてるっ」

 どーやら、車くんや財布くんに本当の事言うのかわいそう、ってことを説明するつもりみたいだ。
 あたしは聞こえてる事を示すために、口いっぱいに広がるソースと肉汁を味わい、そのおいしさに唸りながら何度も頷いた。

「んじゃ、たとえばね、例えばの話さ。アンタ、ある日突然彼氏に指刺されて、『実はさ……おまえ、俺のダッチワイフなんだよ』とか言われたらやじゃない?」
「ん、やだやだ。すっげーやだ。トラウマになるくらいやだ」
「でしょ? 鬱ってか、二三日引き籠もるレベルっしょ」
「んで、『あたしって、空気人形じゃないよね、人間だよね?』なんてイミフなメールばっかしたり?」
「そーそー。自分の存在? そんなん疑うレベルのトラウマっしょ? んで、何日もヒッキーしてるうちに、自分の股の間にオナホ挟まってるような感じとかしてきて――」
「ぶはっ! やめてーっ、今食事中ぅ」
「あーごめんごめんー!」
「マジ止めて、明日からアワビ食えなくなるゥ!」
「心配しないでも、アンタじゃ一生食えんってば」
「そりゃそっか」

 互いに顔を見合わせてぎゃはははと大笑いしたところで、さっき友達が呼んだ店員さんがやってきた。
スープバーを頼んでセルフのスープを汲みに行った友達を待つ間、そういえば犬は自分が犬だって認めてたなぁと思い出した。
 実際あたしはつき合いが長いのに、犬に犬という種別以外にどんな名前が付いてるのか知らない。だから犬って呼んでいた。
 よく考えれば、犬がどんな家から、どういう経緯で友達ん家に貰われて来たのかも、何か知らんけどとにかく知らない。
 小さな頃友達に紹介された時も、うちの犬って呼ばれていた。だから、犬は犬なんだとずっと思っていた。
 逆に、犬からしたら自分が犬以外の何かだって言われる方が耐えられないんじゃないかなぁ。
 んーわかんないや。どーなんだろ。

「おっまたせぇー!」

 そんな事を考えていたら、湯気の立ったファミレスのロゴ入りのカップを持って、友達が席に戻って来た。

「おっつ、遅かったねーっ!」
「ちょーど、コーンポタージュにお代わりが来たのさっ。おかげで具がたっぷり。あ、一口飲む?」
「もち飲む!」

 カップを置いて座った友達に渡されたカップを受け取り、ふぅ、ふぅと息を吹きかけて啜る。

「おうっ」

 冷ましても舌がヒリヒリするくらい熱く、そして一口啜っただけで口にコーンがいくつか落ちて来る。

「やっぱ出来立てはうめーなー。ほいっ、ありがと」
「どーいたしまして。次はアンタが汲んで来てよね」
「了解ッス!」

 セーターの下でほかほかするお腹を撫でながら、あたしはおおきくため息を付いた。
 そうそう、お代わりを交換したばかりのスープはこうでないとね。
 犬ならきっと、耐えられないだろうこの喉を焼く熱さ。あたしはこれがかなり好きだ。
 あぁ、そういえば、犬と会う時はいつも、友達の家の犬小屋の前でだけだったなぁ。
 あいつも、あたしも、どっかにご飯食べに行こうとか、遊びに行こうとか考えた事もなかった。
 何でかっつったら、あいつは、そういうの全部最初っから否定してたからって感じ。
 別に言葉で言われた事はないんだけど、なんてか……立ち上がったあたしが口を開こうとすると、目を伏せる。
 どこかに行こうと言う前から、俺は犬だから、何処にも行けないよ、と。そう言いたげな目をする。
 するとあたしは、何も言えなくなってしまって、結局は互いに、小屋の前に座り込んで、門限まで取り留めもなく、ぽつりぽつりと話を聞いてもらって。
 犬は、余り考えてることを伝えるの、得意じゃなかったからもっぱら聞き専で。

「そういや、話戻すんだけどさぁー」
「ん?」

 急に切り出した話に、友達はスープの器に口を付けたまま、軽く目を上げて応えた。ついでにその目が、あたしの残した半ライスを物欲しそうに見たので、フォークを添えて押し出してやる。

「いいよ、食べな」
「おっ、サンキュー」

 やっぱりスープを飲むとご飯食べたくなるよねーとライスに手を伸ばす。それを確認し、あたしは殆ど氷の溶けたお冷やで口を潤してから話を続けた。

「さっき、自分が財布やダッチワイフだって認めちゃったら生きてけないって話したっしょ?」
「あー、したした。したねぇ……んぐっ。ふぉれが?」
 適当な相づちを打って、フォークで器用に掬いあげたご飯を頬張りハムスターのような顔をプルプルさせて相づちを打つ。

「なんかさー、さっき話した犬? 自分が犬だって、小さい時からもう気づいてたみたいなんだよね」
「むぐっ」

 元々丸っこい頬をご飯で膨らませて忙しく動かしながら、それでも頷いてくれる姿は本当に動物みたいだ。
 そんな滑稽な姿が可愛く見えるなんて、あたしは本とに動物が好きなのかもなぁ。もしかしたら、愛してるのかも。

「あいつ、気づいてたけど……それを認めてたけど、いつ会っても変わらなかった」
「ふぅん、強いんだね、そいつ」
「そーゆーもんかなぁ?」
「んじゃない? じゃなきゃ……っと」

 そこで、友達は空になったカップを置いて、ふぅと満足そうな息を一つついて、あたしと同じ紺色のカーディガンの下で妊婦みたいにぷっくりしたお腹を撫でた。

「それが、当たり前になってたか」
「あたりまえ……」
「そ。彼氏とかに毎日可愛いねーとかエロいとかヤりてーとか言われたらその気になってこない? そんな感じ」
「いやー、ヤリてーはヒくわ。ドン引いて目も合わせないレベル」
「全く、これだから潔癖性の処女はよ」
「うるせーよ、サセ子、ユルまん!」
「うるせーな、ユルくねーよ。てか、寧ろ名器だし」
「……はぁ?」

 なんて会話をしてゲラゲラ笑ってるうちに、さっき電話してた友達の友達の車から、店の前まで来たという電話があった。
 友達が迎えに出ている間に、あたしは少し気をつかって、その間にスープを汲んでおくことにした。
 今度はミネストローネが新しかったので、カップの縁まで特盛りにしといた。
 あたしってば本当に気配り上手だな、なんてつっこみのない自画自賛しながらそろそろと席に戻る。
 こぼさないように下を向いていた顔を、席のすぐ近くで上げたあたしは、んんっと、違和感に思わず唸ってしまった。
 友達が元の席に座ってるのも、友達の友達の車がその横に座って、自分より一回りちっちゃい友達の身体を受け止めてじゃれているのも、何らおかしくない。
 勿論、あたしの席は空席で、そこには鞄が置いてある。
 問題は、友達と財布のすぐ横で、背中を曲げて困った顔で立ち往生しているダサいパーカーの男の子だ。

「ちょっ、誰それ?」

 思わず指を指したあたしに顔を向けた友達と車は一瞬大きく目を見開いて顔を見合わせて、ダサいパーカーの男の子は、申し訳なさそうに目を伏せた。

「あー、そいつ、俺の彼女の財布」
「こいつ、あたしの友達に手を出したんだって。だからめーわく料を払わそーと思って連れて来たんだって」

 浮気はよくないよねーっと、顔を見合わせて笑う友達と車をみて、そのダサいのは今にも泣きそうな顔をした。
 つまり彼は、友達の友達――つまり、車の本来の持ち主である彼女と寝て、揉めてるうちに連れてこられたらしい。

「……災難ッスね」
「ほんとだよ! おかげで腹減ったわ!」

 あたしの一言には、ダサいパーカーの財布くんではなく、友達の肩に腕を回して、今にもセーターに手を突っ込んでおっぱいを揉まんばかりの車が答えた。

「じゃ、何か食べてこっか!」

 友達の方も、車の太股に左手を置いてべたべたと絡んでいる。
 ダサいパーカーの財布くんと違って、車が友達のおっぱいを許されているのは、車が彼氏だからでなく車だから。 だけど、車はそれに気づかないで、しかも彼女の財布をこうやって拉致って来ている。
 つまり、この場はみんな、自分が自分を人間様だと信じてるから保たれてる訳か。
 こーゆーの、何て言ったかな。こっけー、だっけ、けっこーだっけ。
 まことにけっこー?
『滑稽一択だろそこは……』
 犬が見たらきっと、そんな事を言って助けてやっただろうなぁ。なんだかんだと、こっけーな奴なので、こっけーな奴に優しいのだ犬は。
 って訳で、あたしは場をこっけーじゃなくて、けっこーに納める為に、よい子のわんこになることにした。
「……んじゃさー、ここの支払い、そこの財布くんに頼んで、それでチャラにしたげたら?」
 ついでに、私と友達も得するような内容で。



「んじゃ、俺っ、会計してるから先行ってて!」
 店で一番高いステーキを平らげて満腹になった車が目で合図すると、あたしの横にちょこんと座っていた財布くんは、人に奢るのが嬉しくて仕方ないみたいな笑いを浮かべてさっと立ち上がった。
 その走り方がちょっとぎこちなくて、そのうえたまに、片方のお尻を手で押さえるから、恐らく車にお尻を蹴られて連れて来られたんだろう。
「ってかさー。これすげー友達の輪じゃね? お前とお前の友達との会計、俺の友達がしてんの」
「きゃはは! もう誰が誰の友達だかわかんねーよ!」
「あたし知ってるっ! こーゆーの友愛って言うんでしょ? ゆーあい!」
「おーいーねー友愛! 友愛万歳!!」
 お酒入ったようなテンションの車と、その車ともう肩を組んでるんだか貸してるんだか分かんない状態の友達の半歩後ろを通りながら、出口の扉をくぐる。
 その時、何となく後ろを振り返ってみたら、お会計に長財布を取り出した財布くんが困ったように苦笑した。
 その笑い方が、自分を犬だと知ってる犬に似ていたので、あたしは一旦立ち止まり、おんなじように笑ってみせた。
「おーい! リナ、行くよー!」
 扉の向こうの闇から友達の声に呼ばれるまで、あたしたちは暫く目を合わせたままだった。
「えーっ、また車新しくしたの?」
「すげーべ?」
「ってか、飲酒運転とかマジ止めてよー」
「はぁ、飲んでねーし!」
「でもすっげーねこれ、わくわくするね!」
「だろ? ったく、あいつは車わかんねーから褒めてくんねーの」
「んじゃ、アタシ褒めたげるー。よーしよーし!」
 友達は、車の愛車の前で、車の腕に両腕を絡めて引いたり繋いだりして車談義に華を咲かせている。
 私は、少し離れた入り口扉の横のガラスにそんな二人の背中と、オレンジの街灯の下でギラギラと光るシルバーの車体を見ていた。
 そのうち、車がカーディガンの裾に隠れた友達の両手を取って、ふうと息を吹きかけたり、自分の脇に挟み込んで暖めたりし始めた。
 それを見ていたら、自分の手の冷たさと、無意識に手が全部隠れるまでカーディガンのの裾を引いているのに気づいた。
 意識したら、急に身体から暖房の熱が抜けていって、代わりにカーディガンのざっくりした編み目から冷気が一気に入り込んできたみたいだった。
 ぶるっと背中を振るわせた後、自分の手を脇に挟むようにして腕を組んで、車の手を自分の頬で暖め始めた友達をじっと見た。
 何でかっていったら、車と友達は、ちょっとダサい言葉で言った所の男と女って奴っぽく、なんか少しばかし色っぽい仕草なのに。
 それが、あたしが小さい時からよく犬にやってあげる仕草そのままだったからだ。



 犬は酷い寒がりで、冬場に遊びに行った時は、いつも寒そうに背中を丸め、門柱の横の小屋からめんどそうに現れた。
 朝から霜が降りるような日でも、いつも同じ、黒いジャケットに身を包み、両手を脇に挟むように腕を組み、カタカタと小刻みに震えていた。
 犬はとにかく無口な奴で、必要な時以外は滅多に声を出さないし鳴かない。
 その分、動きっていうか仕草が多くて、ボルゾイを思わせる鋭い顔の、高く通った鼻をスンと鳴らすだけで、あたしの言葉へ相づちを打つことも、あたしがやりかけた事や言葉への続きを促すこともできた。
 そうして促されたあたしが、腕に抱えて来たコンビニの袋をおみやげとして渡す。
 そのついでに、それを運んでほかほかと暖まった両手で鋭い頬骨の頬とか、氷のように冷えきって獣の爪のように骨っぽい手を包んでやったりした。
 そうすると、犬はいつものことだってのに、あたしの手を見て目を見開いてからスンと鼻を鳴らし、そして僅かに笑うのだ。
 この話をすると、犬がどんな犬か、誰の犬か知ってる奴も知らない奴もそんな事ないと笑う。
 犬が人間のように笑う訳がない、そう言う。
 そういう奴は、あたしに言わせれば、犬というものをよく見ていない。
 犬は、慣れている人に対しては、申し訳程度に口の端を上げ、黒目がちの目を僅かに細めて、首を傾げてみせる。
 勿論、あたしの友達の犬じゃなくて、その辺の公園を散歩している犬でもそうだ。
 あれを、笑顔と言わないで、この子たちは普段、どんな笑顔を浮かべて、そして、どんな笑顔を見ているんだろう。
 あれは、犬からしたら、笑顔とは別の表現だったかも知れない、でも、それがあたしから見て笑顔に見えるなら、意味は何でも良かった。
 犬を飼ってる人には、この感じ、分かるんじゃないかな。
 あぁでも、友達は犬の飼い主の癖にそういうの、全然分かってないみたいだった。
 子どもの頃にパパが貰って来たのを可愛がってたけど、予想以上に大きくなった上に愛想がなくて気持ち悪いって言ってたし。
 確かに犬は無駄にでかい。いつも小屋の前にうずくまってるか背筋を曲げてるかだから意識しないけど、脚で立ち上がるとあたしの頭の上に頭が来る。
 そういえば、犬の世話は誰がしてたんだろう。彼女のパパ、だろうか。

「リナー!」
 不意に、車といちゃついていた友達が急に振り返って、にこにこと笑いながらこっちに手を振った。
 いちゃいちゃしている所を見るともなしに見ていた気まずさにぶんっと顔を背けてしまった。
 やってから、しまったなぁと思った。これじゃ、アンタたちがいちゃついてるの見てましたって言ってるようなものだ。
 参ったなぁ、何ていいわけしようかなぁ。
 別に見てた事を言われてもいいんだけど。
「えぇ? うらやましかったぁー?」とか言われて紹介するとかそういう話になったらちょっと面倒だ。
 ってか、ムカつく。かなりムカつく。
「あれっ!?」
 その時、急に耳元で聞こえた声に、咄嗟に背けたまま、伏せて先には、パチパチと瞬きをする財布くん。
 お会計が終わって、出てきた所らしい。
「もしかして、俺のこと待っててくれたの?」
 そんな訳ないじゃん、と言おうと思って口を開いたけど、言わないまま黙った。
 つい今まで、犬の事を思い出してたから、ちょっと考えちゃったのもあって。
 面倒で視線を財布くんからローファの上に落として、また違う方向に目を逸らす。
「あ……」
 財布くんが何か言いたげに伸ばした手を払い落とそうとしたその時。
「こらーっ、無視すんな!」
「いってぇ!」
 だだっと駆け寄って来た友達に、平手で背中をぶっ叩かれた。
 振り返ったら、友達はカーディガンの上にちゃっかり車のコートを羽織って頬を高潮させていた。
「アンタが一回で振り返らないからだよーっだ」
「だからって人を叩くなっての」
「まぁまぁ、俺に免じて許したげてよ?」
「はいはい、わかりましたよ。ゆーあいだもんね」
「そーそー。ゆーあいゆーあい」
 友達に追いついて後ろから羽交い締めにした車の「ゆーあい」って言葉を聞いた途端、財布くんが何か言いたげにもごもごと口を動かして俯いた。
 あーあ、財布くん、すっかりゆーあいがトラウマになっちゃったみたいだわ。
 こーゆー時って、手を合わせてお経でも唱えたげればいいんだったかなぁ。
 そんな事を考えて持ち上げた両手を、友達がガッと掴んで、きらきらとした目で見上げて来た。
「アタシ、乗せてって貰う事にしたんだけどさ、一緒に乗る?」
「ううん、まだ人の居る時間だから歩いてかえるわ」
 そのキラキラとした目が、街灯にかききえてる星よりも真っ直ぐに「来るな」と言っていたので、あたしは彼女の手を振り解きながら、肩をすくめて見せた。



 それから、大体二時間後。あたしは、財布くんと家からちょっと離れたカフェでお茶をしていた。
 というのも、財布くんが「一人じや危ないから送ってく」と、さっきまでがま口のように押し黙り、そのくせATMのようにお金を吐き出していた所からは想像も付かない、毅然とした態度で言い出したからだ。
 なるほど、何のつもりか知らないけれど、最近のお財布には空気を読むがあるのか、とあたしが目を見張ったのと、それをどう勘違いしたのか財布くんが照れた女のような気持ち悪い目配せをあたしにくれたのと、それと。
「えーじゃあ送ってもらいなよぅ! ねーっ、その方が安心だもんねーっ」
 友達が、これは厄介払いが出来るチャンスだという計算をさくっとしたのはほぼ同時らしかった。
「あー、んなら俺も安心だわー」
 と、車までもが白々しいことを言い、どっちかっていうと一人で帰りたかったあたしは、そんなこんなで、恐らくもう何も入っていないだろう財布くんを押しつけられた。
 そうして車くん渾身の改造によって、駐車場一杯にアホみたいな大きい音を立てるように改造されたエンジンが唸り、クラクションを一個鳴らして走り去った後。
「いやー助かったぁ! リナちゃんのおかげで丸く収まったよー!」
 無口な財布くんはすっごい饒舌になって、おまけに肩に手まで掛けてきた。
「ほんと、君がいなきゃ俺死んでたし。いやマジ、あいつって怒らせると怖くてさー。ってかあいつ、豚ゴリラみたいな顔してる癖に美人の彼女連れておまけに二股とかさー」
 まぁ、それはさりげなく払って、そのまま歩き出したのだけど、財布くんの口は止まらない。
 あたしの先に立ち、後に立ち、徹底無視で歩き続けるあたしに、たまにすれ違う人が変な目で見ても喋る喋る。
「あいつさー彼女に車とか呼ばれてるの知ってる? 気づいてねーの、馬鹿だよねー!」
 しかも、どれもこれもが、自分が寝取った女のことで制裁を加えてきた車のことばかりだ。
 これって、まるで、壊れた財布が小銭の代わりにレシートやゴミを目一杯吐き出してるみたいだ。
 あー、もしかしたらコレ、余りに車が怖かったもんだから頭がおかしくなっちゃったかなーって思った。
 こんな頭のおかしい財布くんをこのまま放って帰ったら、財布くんはその辺で自暴自棄になって暴れて、今度こそ財布らしく身ぐるみを剥がされて警察に運び込まれちゃうかも知れない。
 そうして今のおかしい財布くんだったら、車がやったんだーなんて嘘言って、車とそのオーナーを警察に呼んでそれで……自分がただの財布だって、気づいちゃうかも知れない。
 別に車が逮捕されようが、その持ち主が袋叩きにされようが構わないけど、それはちょっとばかし可哀想だ。
 いつもなら露ほども思わないけれど、今のあたしにはそれは凄く残酷なことのように思えた。
 だから、家の近くまで来た所で、ふと思いついた風をして行きつけのカフェに連れ込んだ。
 お茶してる間に、財布くんの興奮が冷めて、ただのダサいパーカーの冴えない財布に戻ってくれればなぁって思って。
 あと、ちょっと家知られるのが嫌だったし。

「んじゃ、そろそろ行こうかリナ」
「ん……」

 んで、二時間くらいお茶した今、あたしはすっごい後悔をしている。
 人生で一番の後悔は、さっきのファミレスから大ざっぱにだけどしてるから、今は二番目。
 自分が財布って気づいてない財布くんは、車の事を豚ゴリラだの女の趣味が悪いだの散々言い続けるうちに、ついに元持ち主をディスり始めた。
 やれ金遣いが荒いだの、化粧が濃いだの、財布くんの買ってやった服を着て車に会っただの。
 それで、適当に相づちを打ちながら、ずっと人生一番の後悔の事を考えて、ため息をついたり何だりするあたしに、何を勘違いしたのか。

「あ、支払いは俺に任せてリナは先にでててよ」
「………わかった」
 どうやら今度は、あたしの財布くんになろうとしてるみたいなのだ。
 なんて言うんだったかな、こういう人のこと、ドブだっけ、ウジだったっけ。何かこんな音だったのは覚えてるんだけどなー。んで、下に野郎ってつけるとしっくりくるの。
 なんて事を考えながら出た外がすっかり真っ暗で、タイツやストッキング派じゃないあたしの生足とセーターの編み目を冷たい風が吹き抜けた。
 それがきっかけで、あたしはまた、こーゆーのの正解をいつも教えてくれる、一番の後悔のことを考え始めた。
 つまり、今日、一人で冷たくなった犬のことを考えた。
 あいつは酷い寒がりだったから、こんなに冷えるより前に、マフラーでも送ってやれば良かったのかも知れない。
 そうすれば、寒がりで妙に義理堅い犬はきっと、首から一日だってマフラーを外す事が出来なかっただろう。
 壊したらコロスとか言って、首の後ろで堅い蝶結びにしてやっても良かったかも。
 そしたら、犬は忠実に犬だったから、あたしがいいって言うまで首に――
 なんて事を考えたその時、背中から覆い被さるように抱きつかれて、ちょっとどきっとした。
 背中一杯が包まれて、知らない間に胸の前で擦りあわせていた冷たい手を背中から取られて更に。
「おまたせ……」
 だけど、振り返るより前に、耳元に流し込まれた声におんなじくらいがっかりして、凄く背中と、あと、心が一緒に冷えた。
 こいつ、一体何してくれちゃってるんだと。
 財布の癖に、人におぶさるとは――犬が凄く寒い時の仕草をするとは何事かと。
「あのさ、何してんの……」
 だけど、財布くんに犬の話をしたって仕方ないので、そう言う代わりに、凄く冷たい声でそう言った。
「えへへ、リナに甘えてるよー」
 財布くんはあたしの項の辺りに顔を埋め、ズリズリと額を押しつけている。それでたぶん、髪のにおいをかいでいる。
 このウジ野郎、財布の癖に何をしてくれちゃってるんだ。
 このまま裏拳でブン殴りながらそう叫びたくなった。だけど、堪えた。
 今のところ人生で一番の後悔のことにちょっと浸ってた恥ずかしさもあるにはあったんだけど、やっぱり、この財布の癖に生意気な財布くんを地面に叩きつけることはできない。
 何でって、人生で一番の後悔をまだ抱えっぱなしだからに決まってるじゃんか。
 この詰まらない財布くんを地面に叩きつけることで、人生にもっと後悔を背負い込むのなんてごめんだもん。
「ねーぇ、これからドコ行くのー?」
 哀れな財布くんは、そんなあたしの決意なんて全く気にしないで更にスリスリしてくる。
 あーあ、これが犬だったなら。あたしのじゃなくていい、あたしの友達の犬だったら、あたしは一生なにも後悔しないで生きていけるのに。
 なんでこいつが生きてるんだろう……って、こんなこと考えちゃいけない。
「帰るよ」
 あたしはさくっとそう答え、財布くんを振り払った。元々あんまり力が入ってなかったのと、不意をつかれたので、以外と簡単に脱出できた。
 財布くんは、あたしの拒否が以外だったのか目をぱちくりさせている。ってか、今ので帰る以外に何をいえと言うんだ。元々最初っから家に帰るって言ってるじゃんか。
 まったく、近頃の財布のしつけはどうなってるんだと、あたしは友達に車を寝取られているだろう最中の友達の友達に言ってやりたい。
「こっからは一人で帰る。あと、今の店のお金も払う」
 そう言って、お会計の前に予め用意していたぴったしの小銭を手に乗せて突き出した。
 だけど、財布くんはじっと、あたしの顔と小銭の乗った手を見比べ、手を差し出した。
「送ってくれてありがと……」
 その手に小銭を乗せてさっさと帰ろう、そう決めて手のひらを傾けたら、その手を捕まれて、ぐいっと引かれて抱きしめられた。
 その動きには最早、あたしを捕まえる事で別れる時間を少しでも伸ばしてやろうって戦略も、寒さで小刻みに震える時の犬の必死さとか、そういったものは何もなかった。「そう言わないでさー、もーちょっと遊ぼうよ」
 ってのは、見上げた顔がすっごい下心丸だしで、女の子なら自分に従ってとーぜんって感じだったからだ。
「最初から、俺に気があったんだろ? 誘ってるんだろ?」
 お尻を撫で出した手に馬鹿じゃないの? って気持ちを一杯に膨らまして首を傾げながら。
 現実逃避だかなんだか。こんな緊張感のない事を考えていた。
 もしかして、この脳味噌の代わりに小銭が詰まっているとしか思えない財布は、さっきのお喋り小銭を全部吐き出して、その分を女の子――例えば、脱ぎ捨てられた女物のパンツとかニーソックスとか、処女とかで埋めて。
 それで初めて人間になれるんじゃないかって。
 そして、こんな事も考えた。
 もしかして、あたしの大事な、だけど絶対にあたしのものじゃなかった犬は、そういったもので満たしてあげれば、人間になれたのかしら、って。
 例えば、今この財布くんの後ろに掛かっている、大きな月みたいにまん丸に、何かで一杯にしてあげれば。

「なぁ、否定しないってことはそうなの?」
 気づけば、財布くんの顔はもう目と鼻の先に近づいていた。あー、何かこの近さ、覚えがあるなーと思ったら、中学の友達が自分の初チューの話してた時の話の一つに似てるんだな。
 相手の息が頬に掛かって、目の中の自分が見える距離。それを聞いて犬で試してみた時は何とも思わなかったけど、赤の他人にやられると気持ち悪いもんだなー。
 もしかして、犬はあたしにこれやられて、気持ち悪かったかもなー。すぐに目を逸らしたの、まんざらじゃなかったからだといいなー。
 急に喉を震わせて笑い出したあたしに何を見たのか。財布くんは丸い目を伏せ、余り艶の良くない顔色悪い顔を一層近づけてきた。
 なのであたしは、もう何もかも面倒になって行って。
「ごめんね、犬……」
「ん?」
 そう呟くと同時に脚を振り上げ、財布くんの股間をおもいっきり蹴り上げた。
「ぐぅぁっ……!」
 悶絶して倒れた財布くんに、お前なんて所詮は財布だの何だの言ってやろうかと思ったけど、そこまで言っては可哀想なので、すぐに背を向けて、一目散に掛けだした。
 あの様子じゃ財布くん、暫く動けないだろうし、それにこちとら地元の子なので、住宅街をがむしゃらに走れば軽く撒けるだろうという算段だ。
 それで、路地から路地に抜けて走って走って。追ってくる気配は無かったけど一応二度くらい曲がって、中央公園という名前通り、入り組んだ団地のほぼ真ん中にある、猫の額くらいって言葉のよく似合う児童公園に突き当たった所でやっと止まって振り返った。
 息を整えながら振り返って、ついでにやっぱり誰も追って来ていなかった。
「ふぅっ」
 すぐに帰ればいいのだけど、何となく、車止めに腰を下ろし、制服のポケットから携帯を取り出す。
 財布くんの、多分一番財布の役割をして、色々溜まってる所を蹴りあげた今の武勇伝を、クレームと一緒いにさっきの友達に電話してやろうかと思ったからだ。
 だけど、何回コールしても出ないので、後でメールしろとだけ伝言を残して切った。
 それから何か汚いモン蹴りあげたせいで汚れた気がする利き足をブラブラさせながら考えたけど、今の興奮が伝わりそうな相手は全く思いつかなかった。
 そういえば、こーゆー時はいつも真っ先に、犬の所を訪ねていなかったっけ。コンビニであいつの好きそうなホットケースの食べ物を買って、ちょっときーてよーってな具合に。
「ふぅ……」
 なんてため息が、見上げたまん丸の月に照らされて、冬の冷たい空に上っていく。
 犬も、こうやって煙みたいに空に上るんだろうか。
 そういえば、ばーちゃんの家で飼い猫が死んだ時、ばーちゃんは、動物と人の天国は違うって言ってた。

 なら犬は、犬として上って行くんだろうか。それとも、人間として上って行くんだろうか。
 そしてそのまま、さっき、財布にべたべた触られながら考えたことをもう一度考えてみた。
 あたしが、財布くんが自分をお金じゃなくて女の子で満たそうとするように、犬を人間っぽい何かで満たしてあげれば、犬は犬じゃなくて人間になっただろうかっていう話。
 やっぱ、こうやって本当の冬になる前に、首にグルグルとマフラーを巻き付けて、手作りだから破いちゃだめとか嘘付いて、固結びにして巻き付けてやれば良かった。
 そうしたら、首に向かって包丁なりカッターなりを突きつけた時に、あたしの顔を思い出して、手を止めたかも。
 んで、そこにあたしがのーてんきな顔して来たなら、何か……とにかく分からないけど犬の何かに気づいたかも知れない。

 その時にはマフラーと一緒に、あの、指が分かれていない北欧の森ガールみたいなミトンをむりくりはめてやろう。
 どっちも真っ赤で、可愛い雪の結晶模様とか、お花の模様とか入ってる奴にしよう。
 本当は犬には赤が似合うんだけど、あえて汚れの目立つ色――白にピンクの刺繍とか、ネズミ色とかにしてやろう。
 じゃなかったら、両手ともウサギとか熊ちゃんになってる奴をあたしとおそろいで買ってやってもいい。
 だって、あんな手袋じゃ碌に刃物なんか握れないし、苛々して自分の手を見る度に、ウサギやくまちゃんが大口開けて笑っていたら、絶対死ぬ気なんて起きない。
 あたしの知ってる犬はそういう奴なんだ。
 友達から貰った間抜けなウサギちゃんや熊ちゃんを、自分の血でべったべたになんてできない。
 自分の為に巻いて貰ったマフラーを破り捨ててまで、自分の喉をかっ切るなんて出来ない。犬はそういう奴なんだ。
 そういうのに、ちゃんと繋がれてしまうから、あんな扱いを受けても、友達の犬だったんだ。
 きっと頭が冷たいから、自殺なんてバカな事考えちゃったんだ。だから、帽子も買ってやるべきだった。
 ウサギ耳の付いた帽子とか被せて、指さして笑ってやるべきだった。
 ダサいマフラーに耳付き帽子に、マペットみたいなミトンをはめさせて。
 犬とか畜生とか、バカとか、いっぱい、いっぱい罵って、自分を殺したくなる前に、あたしを殴ってやりたい気分にさせてやれば良かった。
 諦めて笑うだけだった犬が、諦められないくらいバカにしてやれば良かった。
 一回キレたらすっきりしたかも知れない。鬱とか何かそーゆーの、忘れて怒って疲れて、死ぬのも馬鹿らしくなって、そのままふてくされて寝たかも知れない。
「クックック……」
 まるで傷口から血が吹き出して来るみたいに、一人になった途端に心から吹き出してきた沢山の、『たら』と『れば』に、あたしは思わず笑ってしまった。
 その『たら』と『れば』は、どれも実現できないって、分かっている癖に、そのどれもこれもが面白そうなのだ。
 犬をからかうのも、今年も二人でコンビニホットケースを制覇するのも、後ろから抱きつくのも、湯たんぽ代わりにされるのも……それからええと、ええと。
 そうだ、あの小屋の刃物という刃物、全部捨ててしまおう。そうしたら、犬は取り乱すのだろうか。それとも、いつものように笑うのだろうか。……冷静で、いるのだろうか。
 友達に言った通り、犬はあたしが見た所、自分が犬だって事をずっと自覚していた。
 だから、それでショックを受けて発作的に死んだんじゃないんだろう。
 もしもそれが原因だってなら、きっと、ずっと考えていた筈だ。
 あたしと一緒になって、温かい物をはふはふ食べながら、あたしにのし掛かって暖を取りながら、時折ふにゃりと微笑しながら。
 犬、犬って、あたしや飼い主の友達に呼ばれながら。
 自分が犬だってことや、それが意味することを、死にたくなるまで、ずっと、ずっと。
 誰にも怒ったり泣いたりして見せず、自分を犬って呼ぶ人に緩やかに尻尾を振ってみせながら。ずっと、ずっと――
 そう思った途端、あたしがずっと犬の笑顔だと思って見ていたものは、全てに絶望した犬の、今にも泣きそうな顔だったんじゃないかと思った。
 ぞっとした。財布に抱きつかれた時より、死んだって連絡を貰った時より、ずっと、ずっとぞっとした。
「ばぁーか!」

 咄嗟に、あたしは思わず、月を見上げたままそう叫んでいた。
 そうしたら止まらなくなって、がむしゃらに、色々な事を叫んだ。
 何で言ってくれなかったの。
 何で笑ったの、もっと分かりやすい顔しろよ馬鹿!
 何であたしに電話掛けてくれなかったの。
 何で、飼い主も誰も呼ばないで、一人で静かに死んでしまったの。
 何で、何でと繰り返した声が、どんどん空へ上ってく。白い息になって。ふわり、ふわり。
 普段の無口な犬と同じ様子で、つかみ所なく、ふわりふわりと。

 今日、友達の犬が死んだ。
 午後になってから、思い出したかのように知らせてきた。
 私たちが犬小屋と呼んでいた離れのプレハブで、夜中にたった一人、首をかっ切って死んだ。
 そうして翌朝、ベニアみたいに薄い扉から漏れた血の色で発見された。
 邪魔だから無縁仏として処分しようと思ったけど、信用ってものがあるから、一応火葬くらいはすることになったそうだ。
 だけど、通夜無しで密葬の予定だから、明日には灰にするから見るなら午前中に見に来いとのことだった。
 友達の犬は、犬であると同時に、今は死体で、そして、あたしの一番の友達だった。
 犬にとってもそうだったのかは、私は犬じゃないから永遠に分からないけど。
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